第19話:矜持
「ほう……確かに、大きいな……」
灼熱の谷底に、凛とした少女の声が響く。
シオンは腰に手を当て、遥か頭上の巨竜を見上げて感嘆の声を漏らした。
「見かけの図体だけでなく、内包する『気』もまた其れに劣らぬ。紛れもなく、この身体になってからは最上の相手だ」
しかし、その暴威を前にしても彼女は微塵も恐怖を覚えない。
あるのは純粋な強者に対する興味と、それを超えんとする武人としての渇望のみ。
シオンは一歩、前に踏み出ると、巨竜に向かって声を張り上げた。
「己の名はシオン。竜よ。貴様は『天災』にも例えられる程に強いと聞きしに及んだ」
『グルルル……』
シオンの言葉に、竜がイビキをかいたように唸る。
目の前で発せられた人語を理解したわけではない。
ただ、自分より遥かに小さな虫が、まだ視界をちょこまかとしていることに苛立っただけだ。
「故に己は、貴様との比武を求む。どちらがより強いか、この場で正々堂々と――」
竜は億劫そうに巨腕を上げると、まるでハエ叩きでもするように少女へと無慈悲に振り下ろした。
――ズゥゥゥゥンッ!!
大地が悲鳴を上げ、土煙が高く舞い上がる。
質量にして、数十倍以上。
更に強大な運動量の加わった、純粋な物理的圧力による押し潰し。
本来なら、少女は原型すら留めずに、大地の染みになっているはずだった。
『……?』
しかし、竜は違和感に眉を顰めた。
潰した感触がない。
それどころか、押し付けた掌の下から逆に自分の腕が、『持ち上げられている』ような不可解な抵抗を感じる。
――礼儀がなっていないな。
ゾクリ、と竜の全身が生まれて初めての感覚に粟立った。
殺気。
それも、生物としての本能が警鐘を乱打するほどの濃密で鋭利な殺気が手の内から溢れ出した。
竜は反射的に翼を広げ、空へと舞い上がった。
思考するよりも早く、身体が危機を察知して逃避行動を取ったのだ。
だが、空中で竜は自らの行動に驚愕し、羞恥した。
馬鹿な。ありえない。
あのような小さき者を相手に俺が恐怖を感じた?
あまつさえ、翼まで広げて、空へと逃げ出した?
否。
断じて、否である。
俺は翼を広げて誇示したのだ。
かのような矮小な者に。
自らの威容を、暴威を。
証拠に、俺がこうして高く飛び上がれば、あれは地に伏して嘆くしかない。
根本的に、生物としての格が違うのだと。
しかし、竜はまだ気づいていなかった。
自らの上昇によって生まれた土煙の中に、既にシオンの姿はないことに。
「その程度か?」
声が聞こえてきたのは、自らが見下ろしていた視界の遥か上。
竜が視線を上げると、シオンが月光を背に、彼よりも更に高く跳び上がっていた。
翼を持たぬ、小さな身体の飛翔に驚愕したのも束の間、今度はその横面に強烈な衝撃が奔った。
蹴撃。
その体格差が嘘のように、竜の巨体が谷の壁面へと叩きつけられる。
空中での重心移動と回転力を利用した、物理法則を無視するかのような重い一撃。
『グ、ガアアアッ!?』
轟音と共に、岩盤が蜘蛛の巣状に砕け散る。
巨体が崖にめり込み、衝撃で谷全体が大きく震動した。
落石が豪雨のように降り注ぐ中、竜は混乱の極みにあった。
痛い。苦しい。何が起きた?
我は強者、生まれながらの暴君、蒼穹に唄う天空の覇者。
それが何故、壁に縫い付けられ、無様に地を這わされている?
あの小さき者の一撃が、それを為したと彼には到底受け入れられなかった。
「遅鈍。判断が遅い」
竜が自らの無様を受け入れる隙も与えられない。
粉塵を裂き、銀色の閃光が奔る。
彼女はまるで平らな地面のように垂直な岩壁を駆け下り、脚力・重力・気力の三種を上乗せした踵落としを竜の頭部へと振り下ろした。
脳天に、巨大な杭を振り落とされたような衝撃。
竜の意識が明滅し、眼球が裏返る。
鋼鉄をも噛み砕く巨人な顎が、強制的に地面へと叩きつけられ、岩盤をクレーター状に陥没させた。
『オオオオオオッ!!』
それでも未だ、頂点捕食者としての矜持は折れない。
本能的な怒りが痛覚を凌駕し、巨体を奮い立たせて咆哮する。
大気そのものを掴み、直接震わせる程の鳴動。
並の生物であれば、それだけで戦意を喪失させる威圧感。
竜は全身の筋肉を発条のように弾かせ、その長大な尾を鞭のようにしならせた。
大気を切り裂き、先端が音の速度を超えて放たれた尾の一撃。
巨大な城壁すらも牛酪のように切断する、生きる質量兵器がシオンへと直撃する。
しかし、寸前でそれは宙空で音もなく、ピタリと止まった。
『……!?』
竜の紅玉の瞳が驚愕に見開かれる。
直撃すれば山をも砕く一撃が、か細い腕一本で受け止められていた。
シオン・ラングモアの武は、剛のみにあらず。
彼女は力任せに放たれた一撃を片手で受け止めて、もう片方の手で回転力へと変換して受け流していた。
柔よく剛を制す。
だが、その『剛』が桁外れであるならば、それを制する『柔』もまた、神域の領域になければ成立しない。
「芸がないな。所詮は獣……図体任せの力押ししか知らぬか」
彼女が竜には理解できぬ言葉を発した直後、彼の視界で天地がぐるりと入れ替わった。
初めて体感する奇妙な浮遊感。
シオンは力の流れに逆らわず、迫りくる質量を宙へと跳ね上げた。
そこから竜の身体が地面に着地するのを待つ慈悲など彼女にはない。
そのまま落下する巨体の懐へ、自らの身体を滑り込ませた。
狙うは、鳩尾。
重さと鋭さを兼ね備えた肘打ちが、竜の巨体を再び地面へと叩きつける。
背中から岩盤にめり込む衝撃。
肺腑を突き上げる激痛。
霞む視界に映るのは、美しき夜空と月。
俺が地を背負い、天を見上げている、だと?
無様。
絶対的な強者であるはずの自分が、まるで弱者のような無様を晒している事実。
だが、屈辱に震える暇すらも与えられない。
『――――ッッ!!』
起き上がろうとした右の翼が、根本から無造作に引き千切られる。
『――――――ッッッ!!』
悲鳴を上げようとした顎が蹴り上げられ、誇り高き牙が砕け散る。
『――――――ッッッッ!?!?』
迎撃しようとした剛爪は、その指の根本ごと踏み砕かれた。
翼を奪われ、牙を折られ、爪を潰される。
もはや戦いではない、一方的な蹂躙。
それでも天空の覇者としての矜持は、死に体となっても未だ折れない。
認めない。認められない。
このような小さき者に、矮小な存在に、俺の命が脅かされるなど決して認められない。
生物としての格の違いを見せつけると、竜の喉奥で莫大な魔力が渦を巻く。
危機に瀕した竜種に残された奥の手『息吹』。
それは自然界には物理的に存在し得ない竜の巨体を支える魔力を全て、殺意に転じて放出させる究極の奥義。
本来は同種での縄張り争いのために用意された武器であり、矮小な非捕食者に使うのは恥辱以外の何ものでもない。
しかし、この場は目の前の敵への殺意が勝った。
『――――――――――ッッッッ!!!!』
千々の金属片と魔力が混じり合う極大の奔流が、至近距離からシオンを呑み込む。
破滅の光は大地を抉り、数キロメートル先までの直線の全てを消滅させた。
――――――
――――
――
巨体を支える力を全て吐き出しきり、竜は疲弊した全身を弛緩させた。
鬱陶しい羽虫であったが、これならば跡形も残るまい。
疲弊した。
しばらくは身じろぎもしたくない。
だが、これでようやくゆっくりと眠れる……と竜が安堵の息を漏らした直後――
土煙の中から銀色の煌めきが、彼の網膜を刺激した。
そこに、少女は立っていた。
五体満足。傷一つない。
ただ、着ていた衣服だけが余波でボロ布と化し、肌が露わになっていた。
「……母の縫った服が、駄目になってしまったではないか」
底冷えするような怒気を含んだ声と共に、シオンが腰を深く落とす。
その身から立ち昇る気迫が、物理的な圧力となって竜の肌を刺した。
我流。無手。無頼。
遍く全てに帰属しないシオン・ラングモアに師はなく、流派も持たない。
流派を持たないとは即ち、技や型も持たない……が、一つ。唯一つ。
これだけは必殺と呼べる『型』を、彼女は持っていた。




