第14話:五年
サットン村を見下ろす小高い丘の上に、石造りの豪奢な屋敷が建っている。
領主であるルードヴィング伯よりベリジウム大露天鉱の管理を任命された、ボルツ家の邸宅である。
村人たちの質素な暮らしを見下ろすように聳え立つその威容は、この地における彼らの絶対的な支配権を象徴していた。
その最上階にある執務室にて、現在の当主――ガンツ・ボルツは、眼下に広がる羊皮紙の地図を指でなぞっていた。
初老に差し掛かり、恰幅の良い身体を上質なベルベットの服に包んだ彼は大きな野心を瞳に宿して低く笑った。
「……いよいよだな」
彼の指が止まったのは、村の西へ数キロメートルほど離れた場所に位置する緑地帯。
そこは古くより凶暴な魔物が巣食う危険地帯として怖れられ、村人たちが決して近づかぬよう戒められてきた禁足地であった。
しかし、同時にそこは未開拓であるが故に手付かずの資源が眠り、開拓すれば莫大な富を生む肥沃な大地でもあった。
「この森を切り拓き、広大な農地へと変える。ここから産出される作物は、ボルツ家に更なる富をもたらすだろう」
ガンツはワイングラスを揺らしながら側近に語る。
「現在、我らは領主であらせられるルードヴィング伯より鉱山の管理を任されている郷紳に過ぎん。爵位の習得に不可欠な紋章の申請は幾度となく跳ね除けられ、未だ辺境の有力者の域は出られていない。だが、この地を開拓し、領地を拡大した暁には……紋章院も我々の功績を無視できまい」
彼は地図上の森を、まるで己の所有物であるかのように強く叩いた。
「この功績を以て、我らボルツ家は真の貴族へと成り上がるのだ。まずは男爵位。そして、ゆくゆくは伯爵家へと肩を並べることすら夢物語ではない」
肥大化する欲望に、分不相応な野心。
それを実現するために、彼は惜しみなく資材を投じた。
村の自警団程度では役に立たない。
必要なのは、魔物を討伐することに特化した専門家たちだ。
「準備は整っております。旦那様」
側近の言葉に促され、ガンツが窓の外を見下ろす。
屋敷の前庭には、屈強な武装集団が整列していた。
彼が各地から高額な報酬で呼び寄せた、十数名にも及ぶ冒険者の集団である。
大剣を背負う巨漢、全身にナイフを仕込んだ軽戦士、不気味な杖を持つ魔術師。
どれもが、ただならぬ雰囲気を身に纏っている。
彼らの胸に輝くのは各ギルドの『銀』の認識票。
それは、並の兵士であれば束になっても叶わぬ魔物を、単独で狩り得る実力者の証。
中には、神より授かりし異能『加護』を持つ者も数名含まれているという。
彼らは百戦錬磨の傭兵であり、金と名誉に飢えた狼であった。
「雇うだけで法外な金を取られた挙げ句……昨夜は盛大な宴まで開かされたからな。その分、しっかり働いてもらわんと」
ガンツが満足げに頷くと、窓を開け放ち、眼下の冒険者たちへと声を張り上げた。
「聞け! 勇猛なる戦士たちよ! お前たちに課せられた使命は、西の森に巣食う魔物どもを根絶やしにすることだ! 成功した際には、更に報酬を弾もう! そして、狩った魔物から得られた素材や戦利品は全て、自分たちの物にしても構わん!」
冒険者たちの競争心を煽り、狩りの成功を更に確実なものとするために叫ぶ。
その声に、彼らは武器を掲げて歓声を上げる。
そして、期待を胸に膨らめて、意気揚々と西の森へと進軍を開始した。
***
森の境界線――日差しが遮られ、空気が一片するその場所で、冒険者の一団が足を止めた。
否、正確には先頭を歩いていた男が弾かれたように立ち止まったのだ。
「……おい、待て」
一団を制止した男の声は低く、震えていた。
彼は歴戦の斥候であり、危機察知能力に関しては一団の中で随一の男だった。
「どうした? 小便か?」
「違う……一旦、引き返さないか?」
男の言葉に、遅れて続いてきた仲間たちが怪訝な顔をする。
「はぁ? 何言ってんだ。ここまで来て、ビビったのか?」
「そうじゃねぇ……何かがおかしいんだ」
斥候の男は、脂汗を額に浮かべながら眼前に広がる暗い森を睨みつけた。
彼の肌は粟立ち、本能が警鐘を無らし続けている。
静か過ぎる。
鳥の声も、獣の気配もない。
ただ、底しれぬ重圧感だけが鉛のように伸し掛かってくる。
それはまるで、巨大な怪物の口腔を覗き込んでいるような錯覚を男に覚えさせた。
「この匂い……血や獣臭さとも違い、もっと根源的な『死』の気配がする……」
「へっ、考えすぎだろ……」
リーダー格の剣士が、鼻で笑い飛ばした。
「今更、臆病風に吹かれたか? ならテメェだけで帰んな。俺は目の前にある黄金の山をみすみす逃すつもりはねぇよ」
「そうだそうだ! 魔物が怖くて冒険者が務まるかってんだ!」
他の者たちも口々に嘲笑する。
彼らの目は、欲望という名の毒に冒され、濁っていた。
高額な報酬、名誉、そして上乗せされる戦利品。
目の前にぶら下がった甘い蜜が、彼らの正常な判断を麻痺させていた。
「待て! 本気でヤバいんだ! 俺の勘がそう言って――」
「うるせぇ! 腰抜けは置いていくぞ!」
リーダーが怒鳴りつけ、斥候の制止を振り切って森へと足を踏み入れた。
それに続いて、他の者たちも次々と境界線を超えていく。
「くそっ……どうなっても知らねぇぞ……!」
一人取り残される恐怖と同調圧力に負け、斥候の男もまた舌打ちしながら後を追う。
それが彼らにとっての運命の分岐点だとも知らずに。
***
森に入って数刻。
当初は軽口を叩き合っていた冒険者たちの間に、次第に重苦しい沈黙が広がり始めていた。
「……やっぱり、おかしいぞ」
大盾を持った重戦士が、不安げに周囲を見渡す。
先程の斥候の警告が、呪いのように彼らの心に影を落とし始めていた。
あるいは、耳鳴りがするほどの不気味な静寂と……異常なまでの『破壊の痕跡』のみ。
「おい……見ろよ、あれ……」
誰かが指差した先には、異様な光景が広がっていた。
天から降り注いだ何かが激突したとしか思えぬ巨大なクレーター。
まるで巨人の爪に薙ぎ倒されたかのように、鋭利な断面を晒している大木。
「自然に倒れたんじゃねぇな。こいつは……相当デカいのが暴れた跡だ」
「魔物同士の縄張り争いか? だが、死体は愚か、血痕の一つも残ってねぇぞ」
今更ながらに、彼らの顔から血の気が引いていく。
この森は異常だ。
魔物の気配が濃厚に残っているにも拘らず、その姿が影も形も見当たらない。
まるで、より強大な『捕食者』によって根こそぎ喰らい尽くされた後のようだった。
食物連鎖の頂点に君臨する何かが、ここにいる。
不気味な予感と欲望の間で揺れる彼らの前に、突如として『それ』は現れた。
「……止まれ」
森の奥、木漏れ日の差す獣道から凛とした、しかし底冷えするような声が響いた。
女の声だ。
だが、その響きには人間の温かみが欠落していた。
「な、なんだ!?」
冒険者たちが一斉に武器を構え、殺気を向ける。
彼らの視線の先に、一つの人影が音もなく佇んでいた。
泥に塗れ、ボロボロになった着流しを纏っている。
目深に被ったフードで顔は見えない。
一見すれば、森で遭難した浮浪者のようにも見える。
だが、その全身から立ち上る気配は熟練の冒険者たちの肌を粟立たせる程に鋭く、研ぎ澄まされていた。
「なんだテメェは! 魔物か!? それとも同業者か!?」
リーダー格の男が剣を突きつけて怒鳴る。
しかし、人影は動じることなく、静寂を湛えた声で告げた。
「聞こえなかったのか? 止まれと言ったのだ」
「あぁ!?」
「誰ぞ迷い込まぬよう、全域に人避けの気を張り巡らせていたはずだが……何故、入ってきた?」
人影は心底理解できないとばかりに、低く問いかけた。
それは、獣よけのために焚き火をしているにも拘らず、自ら飛び込んでくる虫をみるような目であった。
「はぁ!? 気だぁ!? 寝ぼけてんじゃねぇぞ!」
「どけっ! 俺たちぁボルツ家の依頼で此処に来てんだ! 邪魔すんなら斬るぞ!」
殺気立つ冒険者たち。
彼らには理解できなかったのだ。
先程、森の入口で斥候が感じた気配。
あれこそがまさにこの者による『警告』であったのだということに。
それを無視し、自ら死地へと踏み込んだ愚者たちに慈悲はなかった。
多勢に無勢。
常識で考えれば、薄汚れた剣士一人に遅れをとるはずがない。
だがフードの奥で、その唇が三日月のように歪んだのを誰も見ていなかった。
「ならば、丁度良い」
人影が一歩、前に出る。
その足運びは落ち葉一枚すらも踏み砕かぬ程に軽やかで、不気味な程に自然だった。
「崇高な決闘の場に足を踏み入れた、その不敬……五年に及んだ修行の成果を、貴様らで試させてもらうことにしよう」
音もなく、その手が腰へと伸びた。
鯉口が切られ、抜き放たれたのは身の丈ほどもある長大な太刀。
その刀身は森の木漏れ日を反射し、妖しく、美しく、そして残酷なまでに澄んだ輝きを放っていた。
大太刀『鏡花』。
「往くぞ。死にたくなくば、全力で抗え」
カグラ・アマギリが、五年分の飢えと鬱屈を解き放つ。




