第12話:女剣士
静寂。
室内に漂うのは、焚き染められた白檀の香りと、肌を刺すような鋭利な剣気のみ。
東方の島国に伝わる独特な作法で座し、一人の女剣士が瞼を閉じていた。
腰まで伸びた黒髪を紐で一本に括り、身に纏うのは異国の着流しに、西洋の革鎧や手甲を合わせた装束。
その膝の上には彼女の魂とも言える一振りの大太刀『鏡花』が鎮座している。
……雑念が、消えぬか。
彼女は重く息を吐き、瞑想を解いた。
脳裏に去来するのは、故郷にて幾度となく浴びせられた言葉。
『惜しいな。男子であれば、間違いなく流派を継げた者を』
『所詮は女だ。どれだけ技を磨こうと男には勝てん』
東方の島国にある古流剣術『無天一刀流』の宗家。
その長子として生を受けながら、カグラ・アマギリは『女である』というただ一点の瑕疵によって、家督を継ぐことを許されなかった。
無念であった。
誰よりも剣を愛し、誰よりも修練を積んだ自負があった。
それでも認められぬのであればと、彼女は家を出て、海を渡った。
海の向こうで名を上げて、己を蔑んだ者たちを見返すために。
女という枠組みを超えた武人の境地へと至るために。
だが、現実は非情であった。
海を超えた先の大陸もまた、彼女にとっては煉獄に等しかった。
『女になど、背中を預けられるか』
『戦場は男のものだ。女は大人しく閨で股を開いていろ』
傭兵団の門を叩けば、返ってくるのは品定めの視線と卑猥な嘲笑のみ。
剣の腕を見せつけ、如何に敵を屠ろうとも功績が正当に評価されることはなかった。
ある時は『女相手に油断した敵の隙を突いただけ』と嘲られ、ある時は『卑怯な手を使ったに違いない』と唾棄された。
手柄は無能な男たちに横取りされ、彼女に与えられるのは屈辱だけ。
――所詮は女だ。
その言葉は呪いのように、どこへ行こうとも彼女の纏わりついた。
剛剣を振るい、岩をも砕く力を示しても、世界は決して彼女を『武人』としては認めなかった。
流浪の果てにたどりついたこのサットン村でも、その扱いは変わらなかった。
村一番の有力者で、伯爵家とも繋がりのあるボルツ家の食客。
聞こえはいいが、要は珍しい東方の女剣士というお飾りでしかない。
家長の蒐集癖を満たす玩具にすぎない。
剣を振るう機会などは皆無。
求められるのは、ただ領主の後ろに立ち、その威光を引き立てることのみ。
齢二十を超えて未だ何も為せていない焦燥感と、腐り落ちていく自尊心。
それらが海の底の澱のように積もり、彼女の精神を蝕んでいた。
私も、まだまだだな……。
彼女が己の精神の未熟さを噛み締め、再び瞑想へと入ろうとした時だった。
――ドタドタドタッ!
……と、廊下より乱暴な足音が響いてきた。
続けざまに扉が勢いよく開け放たれる。
「おい! いるんだろ!」
そんな無礼な行いをした者は彼女が仕えるボルツ家の一人息子、ドランであった。
その相貌は憤怒に歪み、両目は血走っている。
「……何用でしょうか、若君」
カグラは瞼を開けず、努めて冷静な口調で応じた。
「命令だ! 武器を持って付いてこい!」
「武器を? それは、如何なる理由にて?」
「叩きのめさないといけない奴らがいるんだよ! お前はうちの用心棒だろ! だったら俺の言うことを聞け!」
金切り声で胡乱なことを言うドランに、カグラは柳眉を顰め、静かに首を振った。
「恐れながらお断り申し上げます。某の剣は、そのような私怨を晴らすためにあるのではございませんので」
武の高みを目指す者が、子供の喧嘩に介入するなど言語道断。
ましてや、主家の息子とはいえ、あからさまな暴力の片棒を担ぐなど、武士の矜持が許すはずもなかった。
「うるさい! お前を雇ってやってるのは誰だと思ってる! タダ飯食らいの分際で! ボルツ家の次期当主である俺に逆らう気か!」
やや痛いところを突かれ、カグラは言葉を詰まらせた。
無念極まりないが、今の彼女には行く宛も路銀もない。
武人としての矜持と、明日をも知れぬ現実。
天秤は無情にも後者へと傾いた。
「……承知、仕りました。ご案内を」
彼女は大太刀『鏡花』を手に取り、鉛のように重い足取りで立ち上がった。
その背中は、かつて夢見た英雄のそれではなく、生活に疲れた老人のように小さかった。
***
武の高みを目指して国を出たはずが、童の喧嘩の仲裁とは……。
私も落ちるところまで落ちたものだ。
村の大通りを歩きながら、カグラは自嘲気味に口の端を歪める。
前方では、ドランが鼻息も荒く歩を進めている。
妙にいきり立っているが、所詮は子供同士の喧嘩。
ほんの少し凄んで見せれば、相手も恐れをなしてドランに謝るだろう。
それで彼の気も晴れて、この茶番も幕を下ろすはずだ。
そう高を括っていた時だった。
「いたぞ! あいつらだ!」
ドランが足を止め、前方を指差した。
カグラは気怠げに面を上げ、視線を向ける。
そこでは二人の少女が走っていた。
「し、シオンちゃん……ちょっと、休憩させて……もう……無理ぃ……」
一人は汗だくで、ヘトヘトに疲れ切っている痩身の少女。
「平地を少し走った程度で音を上げていては、いつまで経っても力を制御できぬぞ。使う度に気を失うつもりか?」
「す、少しって……もう村を十周以上も……はぁ、はぁ……」
そして、もう一人は足を止めて、先の少女を叱咤している白銀髪の少女。
その凛とした佇まいを見たカグラは、我が目を疑った。
武が、立っている。
そこにあるのは、見た目通りの子供ではなかった。
地を蹴る足運び、大気を吸い込む呼吸の律動、そして一切の隙が存在しないあらゆるものを見通す眼光。
丹田を中心に練り上げられた気は、針のように鋭く、そして大海のように深い。
自然体にして完成された武の化身――彼女が追い求めた『武の極致』が、人の姿をしてそこに在った。
「おい! 何してんだ! 早くあいつらをやっつけろよ!」
呆然と立ち尽くすカグラの背を、ドランが激しく叩く。
だが、彼女は微動だにしない。
ただ眼前に在る奇跡の存在を見つめることしかできなかった。
「ん? なんだ、また貴様か……その執念は認めるが、実にしつこい奴だな。今度はその剣士に頼るのか?」
「そうだ! ほら! やっちまえ! その剣で斬ってやれ!」
あれを斬る? 私が?
不可能だ。火を見るよりも明らかだ。
あれは人の域にない。武そのものだ。
斬りかかった瞬間に、自分が肉塊へと変わる未来が鮮明に脳裏を過ぎった。
カグラの内心など知る由もなく、ドランが彼女の背中をほとんど殴るように押し出した。
シオンとカグラの視線が交錯する。
底しれぬ深淵を覗き込んだような感覚が、彼女を襲った。
その瞬間、カグラの身体が理性を超えて動いた。
五体投地。最上級の礼。
「どうか……どうか、私を弟子にして頂きたい……!」
彼女はその場に膝をつき、額を地面に擦り付けていた。
矜持も、立場も、全てをかなぐり捨てた魂からの行動だった。
「はぁ!?」
ドランが素っ頓狂な声を上げる。
「な、何してんだお前! 頭おかしいのか!? 早くあいつを斬れよ! 早く!」
ドランが喚き散らし、カグラの背中を何度も踏みつける。
何度も、何度も、思い切り。
だが、彼女は一切反応しない。
土と草の匂いが鼻腔を満たす中、痛みなど感じていないように頭を垂れ続けている。
「……」
シオンは冷ややかな瞳で、その光景を見下ろしていた。
そして、静かに口を開く。
「其れが、貴様の武か?」
それは蔑みの言葉ではなかった。
単なる、純粋なる問いかけ。
だが、その一言はドランの暴力よりも遥かに深くカグラの魂を抉った。
「っ……!」
カグラの相貌が、羞恥で朱に染まる。
私は一体、何をしているのだと。
武の頂きを、長年の目標を目の当たりにした。
それを目の前にして、私は自分を試そうともしなかった。
頂を目指すと吠えておきながら、己は一体何をしているのだ。
恥だ。今、この場で腹を切っても余りある程に大きな恥だ。
「……失礼、仕った」
彼女がゆらりと立ち上がった。
その瞳からは迷いは消え、鋭利な剣気が宿る。
彼女は腰の大太刀『鏡花』を抜き放ち、切っ先をシオンへと向けた。
「我が名は天霧神楽。東方より武の真髄を極めるために来たりし、『無天一刀流』の使い手。武人として、正々堂々と立ち会って頂きたい」
「いいぞ! やっとやる気になったか! やっちまえ!」
後ろから囃し立てるドランの声は、もう彼女の耳に届いていない。
今、彼女の心にあるのは眼前の『頂』に己の全霊をぶつけるだけ。
ただ、それだけだった。
「……ほう」
シオンは興味深そうに目を細めると、無造作に立ち尽くしたまま頷いた。
「よかろう。その意気や良し。立ち会いの申し出、承った。来るがいい」
「いざっ!!」
神楽が裂帛の気合と共に地面を蹴った。
その動きは、当惑の渦中にいるカノンや、後ろにいるドランの目には見えぬ程に速かった。
だが、彼女の真髄は速さではない。
流派『無天一刀流』は単なる刀剣術に非ず。
独自の呼吸法によって体内に練り上げた『気』を太刀に纏わせる剛力の剣。
か細い腕が振るう大太刀は、岩をも断つ防御不可の刃となる。
更に、彼女にはもう一つの切り札があった。
『双重の加護』
それは、並行世界に存在する『可能性の自己』を呼び込み、現実と重ね合わせる天より与えられし異能。
莫大な気を要するために、具現化できるのは四肢の一部のみだが、戦闘においては絶大な脅威と化す。
重ね合わされた『もう一人の自分』が放つ斬撃は、現実の斬撃と完全な同時に、しかし異なる軌道で放たれる。
一振りにして、不可避の二撃。
理外の秘剣。
如何なる達人とて、同時に放たれた異なる軌道の刃を防ぐことなど――
――――――
――――
――
小鳥の囀りが響く、爽やかな朝。
シエラが洗濯物を取り込もうと玄関の扉を開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
「……え?」
家の前で、一人の女性が正座していた。
東方の装束に身を包んだ女剣士。
その顔立ちは本来であれば端正なのであろうが、今は無惨に片側の頬が赤く腫れ上がってる。
「あ、あの……? 大丈夫ですか……?」
シエラが恐る恐る話しかけると、女剣士は背筋をピンと伸ばして、地面につきそうな程に頭を深々と下げた。
「心配御無用! お初にお目にかかる! 貴殿が、我が師の母君であられるか!」
「は、はい……? 師……?」
「某、天霧神楽と申す! 武の何たるかを一から学び直すべく、師の下へ参じた次第! 以後、お見知り置きを!」
カグラの言動に、激しく戸惑うシエラ。
そこへ、学校へ行く支度を整えたシオンが奥から通りがかった。
いつもの無表情だが、普段にも増して面倒くさそうな気配を漂わせている。
「あ、あの……シオン……? この人がシオンのことをなんとかって……」
「うむ。そういうことだ。というわけで母よ。此奴は好きに使ってくれ」
「好きに使ってって……」
「如何様にでもこき使ってください! 掃除、洗濯、水汲み! これも修行の一環故に!」
「ええぇ……」
暑苦しいほどの情熱で叫ぶカグラに、何が何やら分からず目を白黒とさせているシエラ。
今度は仕事道具を背負った父のジョナサンが現れた。
「わっはっは! なんだかよく分からないけど、うちも賑やかになってきたなぁ!」
脳天気な夫の哄笑とシエラの戸惑いが、朝のサットン村にこだました。




