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第10話:森

 サットン村の西に広がる森は、村人にとって恵みの場であると同時に、深入りしてはならぬ禁足地でもあった。

 奥地には樹齢数百年を超える巨木が生い茂り、凶暴な獣の数々が跋扈しているからだ。


 そんな危険地帯に、場違いな少女の悲鳴が響き渡っていた。


「む、無理無理無理ぃッ! 死んじゃう死んじゃう! 死んじゃうってばぁッ!」


 絶叫しながら森を疾走するのは、カノンである。

 彼女の背後には、体長三メートルはある巨大豬『剛毛猪』が、鼻息も荒く猛突進していた。


 その牙は鋭利な刃物のようで、巨体は岩のように硬い。

 本来ならば熟練の狩人が数人で囲んで仕留めるような獲物だ。


「泣き言を言うな。足が止まれば串刺しだぞ」


 そんなカノンの悲鳴に、頭上から呆れたような声が降ってきた。

 見上げれば、巨木の太い枝に腰掛けているシオンの姿があった。


「シオンちゃん! 助けてよぉ!」

「自分でどうにかしろ。あの奇妙な力は、貴様の感情が昂った時に発現するのだろう?」


 シオンは、その目的を口にして観察を続ける。


 ドランとの一件で見せた、あの不可解且つ強大な衝撃波。

 あれ以来、カノンにいくら試させても発動する気配がない。

 ならば、似たような状況を再現するしかない。


 すなわち、死の恐怖だ。


「そんなこと言われてもぉおおお!!」

「さあ、見せてみろ。貴様の内に秘めたる力を」

「鬼ぃ! 悪魔ぁ! シオンちゃんのバカァァッ!!」


 シオンはカノンの罵倒を涼風のように受け流す。

 ただ、どれだけ経ってもカノンがあの力を見せるような気配は一切ない。


「むぅ……」


 シオンが困ったように、樹上から逃げ惑うカノンを眺めていると――


「あっ……!」


 地表へ隆起した木の根に躓き、泥の上に転倒した。


『ブモオオオオオッ!!』


 猪が方向と共に加速する。

 眼前に迫りくる、巨大な蹄と牙。


 死ぬ。


 そう確信し、カノンがギュッと目を瞑った瞬間――


 「……来ぬか」


 両者の間に降り立ったシオンが、指一本で猪の突進を止めた。

 彼女は指を添えたまま、力を受け流し、半円状に猪を投げ飛ばす。

 巨体を背中から強かに地面へと叩きつけ、一撃の下に仕留めきった。


「あ、ありがとう……シオンちゃん……」


 絶体絶命の危機を逃れたカノンが、救世主に感謝の言葉を述べる。


「感謝などするな。己の力で対処できなかった事実を恥じろ」


 しかし、シオンの反応は辛辣そのものだった。

 彼女はあくまで自分は保護者ではなく、自らの武の為に利用しているだけ。


「ご、ごめんなさい……。でも、やっぱりありがとう……」

「むぅ……」


 ……の、はずがこの小娘を前にするとイマイチ調子が崩されてしまっていた。


「兎に角、貴様には精神力が足りんようだ。まず精神力は鍛えるために、()()からやるとしよう」

「あれ……?」


 ――――――

 ――――

 ――


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!」


 カノンは滝に打たれていた。


 水量は多く、全身にかかる圧力は凄まじい。

 いくら逸脱の力を秘めているとはいえ、肉体はまだ十歳の少女である。

 水流の冷たさと重さが、容赦なく彼女の体力を奪っていく。


 しかし、これ以上シオンに失望されるわけにはいかないとカノンは気合で耐え続けた。

 辛い。辛いけど、巨大猪に追われるよりは幾分かましかと考えていると――


「うむ。では、そろそろ石を落とすぞ」


 またも、頭上からシオンの声が響いてくる。

 見上げた先にある彼女の横には、その体躯よりも巨大な岩が鎮座していた。


「え……い、石……?」

「うむ。死にたくなくば避けよ」

「ちょ、待っ――」


 シオンはカノンの静止も聞かず、一切の躊躇なく岩を蹴り飛ばした。

 轟ッ……と、風を切る音と共に死の塊が落下してくる。


「ぎゃああああああッッ!!」


 カノンは滝壺から転がるように飛び出した。

 直後、彼女が先程までいた場所に岩が着弾して、凄まじい水柱と轟音を上げた。

 水飛沫を浴びながら、カノンは腰を抜かして震え上がった。


 ***


「……っくしゅん!」

「食え」


 濡れた服を乾かすために肌着姿で焚き火に当たるカノンに、シオンは肉の刺さった串を差し出した。


「あ、ありがとう……」


 それは先程、シオンが仕留めた剛毛猪の肉を焼いたものだった。


 カノンはおずおずと受け取り、口に運ぶ。

 味付けはされていないが、極限まで疲弊した身体には肉の脂が染みる程に旨かった。


「うぅ……美味しい……」


 己の生命が繋がれた直後の食事に、カノンは感動の涙を流す。

 シオンはそんな彼女の姿を横目に観察していた。


 ……想像以上に弱いな。


 それが、今日一日を通してシオンが抱いた感想であった。


 基礎体力が低すぎる。精神力も未熟。

 危機感知能力だけは多少あるが、それも最低限の力がなければ使い物にならない。

 これでは力を付けさせるどころか、死なないように加減するので精一杯だ。


 やはり、己は誰かに師事されるなどは向いていない。

 あの力を逃すのは惜しいが、本人も流石に心が折れているだろう。


 そう考えたシオンが、現状の中断を検討し始めたときだった。


「ねえ、シオンちゃん。次は、何をすればいい?」


 カノンが焚き火の日を目に宿して、シオンを見つめながら言った。

 その言葉に、シオンは僅かに驚き、目を見開いた。


「貴様、まだ続ける気なのか?」

「うん。だって、約束したもん。シオンちゃんが一緒にやってくれるなら頑張るって」


 カノンは膝を抱え、少し恥ずかしそうに笑った。


「すっごく怖いし、体中痛いし、死ぬかと思ったけど……でも、シオンちゃんみたいになりたいから」


 へにゃりと笑うカノンの顔を見て、シオンは『ほう……』と息を吐いた。


 肉体は脆弱。精神も未熟。

 しかし、その根底にある『強くなりたい』という渇望の火種だけは本物だった。


「物好きなやつだ」


 シオンがニヤリと僅かに笑みを浮かべる。


「だが、その意気や良し。その腐らぬ根性だけは、認めてやろう」

「え……? そ、それって……褒めてくれてるの?」

「事実を述べたまでだ」


 シオンがそっけなく答えるが、カノンにとってはそれだけで十分だった。


「えへへ……やったぁ……」


 カノンは嬉しそうに頬を緩ませると、勢いよく立ち上がった。


「私、もっと頑張る! 食べてすぐ寝たら牛になっちゃうし……もうちょっとだけ走ってくるね!」

「殊勝な心がけだ」


 カノンが乾いた服を素早く着て、鬱蒼と茂る森の中を駆け出す。


「よーし! やるぞぉー!」


 大きな気合を入れて地面を蹴り、草むらへと飛び込んだ瞬間――


「あ」


 ひゅっ……と、カノンの姿が忽然と消えた。

 悲鳴を上げる間もなく、足元の地面が抜けて垂直に落下したのだ。


 一瞬にして静寂が戻った森。


 シオンは食べかけの肉を持ったまま、カノンが消えた場所へと歩み寄る。

 そこには、草に隠れて見えなかった深い縦穴が大口を開けていた。

 底は闇に包まれて見えない。


「……死んだか」


 シオンが淡々と呟き、穴を覗き込む。


「……ちゃ~ん! シオンちゃ~ん!」


 すると、深い底の方から情けない声が反響して聞こえてきた。


「生きてたか」


 シオンは短く言うと、骨だけになった肉を投げ捨て、躊躇無く穴の中へと身を投げた。

 ヒュウウウウ……と、風切り音と共に落下すること十メートル以上。

 シオンは着地の瞬間に衝撃を殺し、音もなく地面に降り立った。


「あっ、シオンちゃん! 大丈夫!?」

「貴様こそ、よく無傷だったな」


 あれだけの距離を落ちたにも拘らず、カノンの身体には傷らしい傷はない。

 見れば、穴の底には腐葉土が分厚く積もっており、それが衝撃を上手く殺したようだった。


「びっくりしたぁ……いきなり地面がなくなるんだもん……」

「それより、なんだあれは」


 シオンはそこで、周囲の空気が地上とは微妙に違うことに気がついた。

 地上から降り注ぐ僅かな光とは別に、穴の奥に自ら発光している何かがある。


「えっ……? ほ、ほんとだ……なんだろう……」


 遅れて気づいたカノンも息を呑む。


 二人が落ちた穴の底。

 その先には巨大な石造りの扉がそびえ立っていた。


 表面には見たこともない幾何学模様が刻まれ、長い時を経ても朽ちなかった威圧感。

 扉の素材とされるやや白味がかった石が、ボウっとほのなか光を放っている。


「古代の遺跡か」


 シオンが興味深そうに扉を撫でる。

 無論、彼女の考古学的な関心を呼んだわけではない。

 指先から伝わる冷たい感触と、扉の隙間から僅かに漏れ出る『気』が彼女の勘を刺激していた。

 ここには、何かが在る……と。


「行くぞ」

「え、えええ!? 入るの!? それより、登る方法を考えた方が……」

「なら、一人で残れ。己は行く」

「そんなぁ~……」


 怯えるカノンを横目に、シオンは重厚な扉に手をかける。

 ズズズ……と、数千年ぶりの眠りを妨げられた岩石が重い音を立てて開き始めた。

 

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