第1話:武
武。
矛を止めると書いて、『武』。
あるいは、矛を持って進むと書いて、『武』。
語源がどちらにせよ、その真理の根底にあるのは他者を打ち破り、己を通すための強さである。
すなわち、武道とは究極に森羅万象を克する力の獲得を志す、終わりのない求道と言えよう。
無限の分岐し続ける泡状多元世界の一つ――その片隅の世界に、ある男がいた。
その者も生まれながらして、純粋に……そして、貪欲に強さを求めた。
ただ、強くなりたい。
誰よりも、何よりも強くなりたい。
生物として、個として、最強でありたい。
それが彼の原初にして、究極の渇望であった。
記録によると、生まれ出た瞬間に産婆を殴り倒したのが、彼の最初の比武とされている。
以後も生まれながらの強者として更に研鑽を重ね、齢八歳で初めての道場破りを敢行。
空手道を極めたと嘯く大男を正拳の一打で下し、最初の看板を奪い取った。
齢十五歳で、積み重ねた看板の山が雲の高さを超える。
しかし、その武は未だ天には至らず。
自分はまだ未熟だと、彼は更に己が武を磨き続けた。
齢二十歳にして人の世に戦う相手を失い、人跡未踏の深山へと籠もった。
敵を人から大自然へと変え、ただひたすらに武を極めんと己を極限まで追い込み続けた。
ある時は千尋の滝壺へと身を投げ、時には体長十尺を超える凶暴な灰色熊と殴り合った。
肉体を、精神を、そして魂の炎を燃やし、三十歳にして“人”の到達点を迎える。
正拳は巨岩を粉砕し、蹴撃は巨木を薙ぎ倒した。
しかし、その武は未だ天には至らず。
自分はまだ、武の道のほんの入口から数歩進んだ先にいるだけだ。
何枚の看板を奪おうが、何匹の獣を殺そうが、何人の求道者を打ち倒そうが。
彼の力への渇望は尽きることなく、常により高みを望んだ。
いつの頃からか、人の世では『山に天狗が出る』との噂が広まってた。
どうもその天狗は、腕っぷしの強い者を求めて人を襲うらしいと。
噂を聞いた世の強者たちは、次々と我こそはと山へと入っていった。
しかし、誰も彼もが数日の内には青ざめた顔で下山し、『何もいなかった』と声を震わせた。
それから月日が経ち、噂は時の将軍の耳に届いた。
山にいる天狗を打ち倒せば、神通力が得られるらしい。
神通力による不老を欲した将軍は、千を超す軍勢を山へと送り込んだ。
結果として軍が受けた壊滅的な打撃が、後に権力の座の交代に繋がったとされている。
それから更に月日が経ち、科学を掌握した人類の耳にも噂は届いた。
行軍訓練中だった某国の一個大隊が、一時間の内に連絡を途絶させた。
上空を監視していた最新鋭の無人機が正体不明の飛来物により墜落させられた。
いつしか噂は現実の恐怖となり、最新鋭装備の特殊部隊による大規模な山狩が行われた。
結果は語るまでもないだろう。
あらゆる最新の技術が、それには通用しなかった。
遂には一個人の武が、人類の叡智をも上回ったのだ。
しかし、その武は未だ天には至らず。
彼は更に気が遠くなるほどの時間を全て、人生を武の研鑽にのみ費やした。
だが、遂に人の身に生まれた不条理――肉体の寿命が彼にも訪れた。
今際の際に、自らがひたすら練磨してきた武を握りしめながら彼は想う。
無念だ……。
只々、無念だ……。
生まれた瞬間から今に至るまでの全てを武に費やした。
食事をする時も、寝る時も、武を忘れたことなど一瞬足りともなかった。
武の為に生き、武の為に食い、武の為に戦った。
それでも未だ武の頂きは遥か遠く、天は雲上の彼方にある。
嗚呼、無念だ……。
嘆き、薄れゆく意識の中、ふと何らかの存在が彼に触れた。
自らを高みから見下ろすような何か。
死に瀕する者を優しく包み込むようでありながら、憐れんでいるようでもある。
どちらにせよ、其れは常人であれば祈らずには居られない超常の存在であった。
そして、それは死にゆく彼に何かを差し出した。
まるで間近に太陽が現れたような光輝――超常の力、理外の権能、逸脱の才力。
それは人が二本の足で登る大山を、一飛びで超えうる翼を授けようとしていた。
しかし、彼はそれに手を伸ばさなかった。
見くびるなよ。
力とは……武とは、己が足で道を進んだ果てに得るべきものだ。
他者から与えられるそれに、一体何の価値がある。
彼は己を憐れむ……あるいは嘲笑おうとする何かを打ち倒すべき敵と認識した。
これまで磨いてきた武を拳に硬く握り締め、真っ直ぐに突き出す。
それが、彼の人生で最期に取った行動だった。
――――――
――――
――
遠くから、声が響いてくる。
もう彼が随分と長い間、聞いた記憶のない団欒の声だ。
不確かだった声は次第に近くなり、何らかの言語としての意味を帯びていく。
「見てください、貴方。目を開けますよ」
若い女の声がはっきりと、彼の鼓膜と意識を揺らした。
「ああ、本当だ。なんて愛おしい……我が娘よ……」
人の言葉であることは分かったが、その意味が彼には理解できなかった。
意識がぼんやりとしている。
まるでまだ山に入って間もない頃に、巨大な落石で頭部を強打した時のようだ。
視界が定まらない。身体が思うように動かない。
「ほら、貴方も抱いてみてください」
「いいのかい? ほら、こっちにおいで~……パパでちゅよ~……」
彼は身体に僅かな浮遊感を覚える。
今度はまるで、巨人に身体を持ち上げられているようだった。
「よし、パパが生まれてくれてありがとうのキスをしてあげよう! むちゅ~……」
――カッ!
身震いするような脅威を感じ取った瞬間、意識が閃光のように覚醒する。
眼前に迫るのは、自分を抱えた見知らぬ巨大な顔面。
唇を尖らせて、まるで捕食するかのように迫るそれに、彼は本能的に最短距離で拳を突き出した。
「ふやーっ!!(破ァーッ!!)」
「ひでぼぉぁッ!!」
突き出された小さな拳が、迫りくる顔面をカウンターで捉えた。
身長にして三倍以上、体積にして数十倍はあろうかという巨人が吹き飛ぶ。
巨人は部屋の壁まで吹き飛び、そのまま白目を剥いて沈黙した。
「あ、貴方!? 大丈夫!? し、シオンは!?」
男の妻と思しき女がベッドから半身を起こして、二人の安否を気遣う。
一方、巨大な男の手を逃れた彼は、そのまま空中で二回転して着地する。
ドン……と、実態よりも重量感のある小さな肉体が部屋を揺らした。
「ふあっ!(残心)」
敵の追撃に備え、小さな拳を構える。
だが、そこで彼は自らの肉体に生じている異変を覚える。
視点が低い。手足が短い。握り込んだ拳は綿雪が如く柔らかい。
しかし、その身に宿りし武だけは未だ健在だった。
彼に与えられた新たな名は、シオン・ラングモア。
彼女がこの世界において、初めて武を以て征した相手は父親だった。
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