5. 脱出
夜明け前。
最も暗く、最も冷たい時間。
そして、監視が最も手薄になる時間。
牢獄の中は静寂に包まれていたが、その静けさは穏やかさではなく、嵐の前の静寂のように感じられた。
イヒョンは壁に背を預け、目を閉じていた。
だが、彼の意識は冴えわたり、すべての神経は耳に集中していた。
イヒョンは、一度きりのその機会を逃さぬよう、全身全霊を傾けていた。
ここから抜け出せる、唯一の出口。
もうすぐ、巡回の交代の時間がくれば、彼らにたった一度の脱出のチャンスが訪れるはずだった。
リセルラは静かにエレンの手を握り、床に身を伏せていた。
彼女は乾いた唾を飲み込んだ。
緊張のあまり、彼女の手はすでに汗で湿り、荒々しくなりそうな呼吸をなんとか整えていた。
イヒョンは巡回に来る奴に全神経を集中させながら、手の中で掌よりも少し小さな鉄の欠片の重さを感じていた。
二日前、酒に酔った巡回兵がよろめきながら鉄格子にぶつかったとき、落とした鎧の欠片だった。
彼は監視の目を盗んで、その小さく粗末な鎧の欠片を石で研ぎ、鋭くして準備していたのだ。
一晩中手の中で汗に濡れたその欠片は、今日のためにイヒョンが用意できた唯一の武器だった。
やがて、予想していた巡回の時間が訪れると、重い鉄製の蝶番がキーキーと軋む音を立てて開いた。
冷たい金属がぶつかるその音は、牢獄の中にいたイヒョン一行の息を一瞬止めた。
巡回する屈強な男が、松明を手に闇を切り裂きながら入ってきた。
彼は慣れた動線で、囚人たちの状態を素早く確認していた。
一人ひとりの囚人を足で軽く蹴り、生きているか確かめながら、イヒョンの方へと近づいてきた。
イヒョンは身体をできる限り低くし、うずくまった姿勢を保った。
掌に隠した鉄の欠片が汗で滑らないよう、強く握りしめた。
男はイヒョンのいる方へやってくると、足でイヒョンを軽く蹴って生きていることを確認し、背を向けた。
その瞬間、イヒョンは素早く身を翻し、鉄の欠片で男の膝の裏を突き刺した。
一瞬にして男の膝が折れ、巡回兵はよろめきながら倒れた。
だが、粗末な鉄の欠片では屈強な男に致命傷を与えることはできなかった。
イヒョンはすぐに飛びかかり、男を押し倒した。
両手にかけられた手錠で、男の顔を叩きつけた。
しかし、巡回兵の体格はイヒョンよりも大きく、戦いの経験もイヒョンとは比べ物にならないほど豊富だった。
男は即座に反撃してきた。
イヒョンが身構える間もなく、男に押し返された。
そもそも同じ条件なら、イヒョンがその男を戦いで倒す可能性はほとんどなかった。
イヒョンは重く床に叩きつけられ、手に握っていた鉄の欠片は手から離れ、どこかへ転がっていった。
息が詰まる衝撃の中で、イヒョンは本能的に床をまさぐり、粗末な鉄の欠片を探したが、男の手が先にイヒョンの首を鷲づかみにし、押し潰した。
その男の体からは、汗と革、鉄の匂いが混ざった野性的な悪臭が漂っていた。
男の息遣いは、まるで獣の鼻先で吐き出されるように熱く重く、目には殺意と凶暴さが満ちていた。
その男の体重がイヒョンの体にのしかかり、肋骨が折れそうな圧迫感が胸を押し潰した。
「この野郎…」
イヒョンは体をよじって抵抗しようとしたが、巡回兵の腕は鉄の柱のように彼を固定していた。
イヒョンは何かを掴もうと必死に床をまさぐった。
男は膝でイヒョンの胸を押さえつけ、左手で首を絞め始めた。
そして、続く一方的な殴打。
―ドス、ドス、ドス―
まるで革袋を叩くような鈍い音が、牢獄に響き渡った。
そのとき。
―ドン!―
「うっ!」
重い音とともに、イヒョンを押さえつけていた男の体が横によろめき、倒れた。
リセルラだった。
彼女は男が落とした松明を握りしめ、その頭を力強く叩きつけたのだ。
男は短い呻き声を上げて床に崩れ落ち、イヒョンは咳き込みながら体を起こした。
彼はリセルラを見上げた。
予想外の助けに驚きながらも、短く息を吐き、彼女に感謝の眼差しを送った。
リセルラはそんな彼を見つめ、短く頷いた。
「時間がないわ。今よ。」
イヒョンはすぐに倒れた巡回兵の体をあさり、見つけた鍵で手錠と足枷を外した。
そして、すぐに巡回兵の腕を後ろに捻り上げ、手錠をかけた。
イヒョンの手が震えてきた。
生まれて初めて激しい格闘を経験し、死にかけていたのだから、全身にアドレナリンが湧き上がるのを感じた。
口の中に血の味がしたが、殴られた箇所の痛みはほとんど感じないほどだった。
運良く、イヒョンはその男が腰に下げていた小さな手斧を手にすることができた。
―カチャリ―
鉄が噛み合う音が静かに響き、牢獄の扉がゆっくりと開いた。
「これから騒ぎになれば、ここにいる人たちの中にも逃げられる人がいるかもしれない。」
イヒョンは絶望的な目をしたまま、牢獄の中で倒れたり座り込んだりしている人々を見回した。
牢獄の扉が開いたというのに、誰も身動き一つしなかった。
イヒョンは、なぜ監視が手薄だったのかを理解した。
彼らはすでに絶望に飲み込まれ、何もできない空っぽの殻のような存在になっていたからだ。
リセルラとエレンは無言で静かに動き、三人は闇の中を慎重に抜け出し、建物の裏口にたどり着いた。
その瞬間、イヒョン一行が通り過ぎた廊下の奥から大きな叫び声が響いた。
「逃亡者だ! 脱走だ!」
地下牢で気絶していたあの男が意識を取り戻し、叫んだ声だった。
「逃亡者だ! 牢獄から逃げ出したぞ!」
その叫び声は、静寂な闇を切り裂くように広がり、イヒョンは一瞬歯を食いしばった。
やがて、建物の外が騒がしくなり、金属の鐘がけたたましく鳴り響いた。
―カン、カン、カン―
その金属音は野営地全体を揺らし、眠そうな目をした人間狩りの者たちが、宿舎と思われる建物から次々と飛び出してきた。
「走れ!」
イヒョンは中央棟の裏口を開け、リセルラに叫んだ。
リセルラの話では、馬小屋までの距離はおよそ30ヤード、つまり250~300メートル程度だと考えていた。
イヒョンは先頭に立って素早く走り始めた。
「こっちだ! 逃亡者だ! 捕まえろ!」
あちこちから一行を追う声が聞こえてきた。
「前の角を右に曲がって!」
リセルラの指示通り、目の前に見える建物で右に曲がった。
―ガシャン!―
イヒョンが角を曲がった瞬間、男とぶつかった。
イヒョンの頭がその男の鼻に直撃した。
「うっ、この野郎!」
男は鼻を押さえ、よろめきながらその場に座り込んだ。
イヒョンは一瞬戸惑ったが、相手が誰かを確認する暇もなく、すぐに腰に差していた手斧を取り出し、全力で男の頭を叩きつけた。
-ドンッ!-
鈍い音とともに、その男は叫び声も上げられず、そのまま床に倒れ込んだ。
その瞬間、何かが変わった。
まるで抑えつけられていた気が抜けていくかのように、牢獄を包んでいた重苦しい空気が少しずつ消え始めた。
その男こそ、牢に捕らわれた人々に絶望の歌「カンティクム・デスペラティオニス」を使っていた者だった。
彼が倒れると、闇に侵されていた捕虜たちの目が一瞬でキラリと輝き、生気を取り戻した。
鉄格子の中で虚ろな目をしてじっと座っていた人々が、突然叫び始めた。
「解けた! コルディウムが消えたんだ!」
「出よう!」
牢獄は一瞬にして混乱の渦へと変わった。
閉じ込められていた人々が一斉に牢の扉を抜け出し、建物から飛び出していった。
イヒョンはリセルラとエレンを連れ、馬小屋を目指して全力で走り出した。
背後では、イヒョン一行を追う音、逃げる捕虜を追跡する音、叫び声が混ざり合い、まるで戦場のような雰囲気が漂っていた。それでも彼は一度も振り返らなかった。
リセルラは痛む足を引きずりながら必死に追いかけ、エレンはイヒョンの手をぎゅっと握り、荒々しい息を吐いていた。
後方からは人間狩りの叫び声が次々と響き渡った。
「捕虜を一人も逃がすな!」
鉄がぶつかる音、喊声、足を踏み鳴らす音が重なり、逃亡者を追う勢いはますます激しくなった。
地面は彼らの足音で震え、その音と勢いはまるで荒々しい波が海岸を襲うように押し寄せてきた。
それでもイヒョンは走る速度を緩めなかった。
彼らは事前に把握していた地形を頼りに、馬小屋のある方向へと全力で駆け続けた。
やがて、粗末な木造の建物が視界に入ってきた。
壁には粗雑に開けられた換気孔があり、その向こうから馬の吐く息の音が聞こえてきた。
イヒョンは勢いよく扉を押し開け、中に飛び込んだ。
リセルラは馬を確認すると、指で一頭を指さした。
「この馬に荷車を繋がないと! 急いで!」
イヒョンは入口を閉め、馬の轡を掴んで引き寄せ、リセルラは慣れた手つきで荷車用のハーネスに荷車を繋いだ。
続いて、エレンを先に荷車に乗せ、リセルラは素早く荷車に飛び乗り、馬を操るために手綱を探して握った。
そして、イヒョンが荷車に乗り込もうとしたその瞬間、後ろで馬小屋の扉が壊れるように開き、再び響く声――
「テネブラ・ヴィンクラ!」
[ダーク・チェーン]
かつてイヒョンを縛り上げた、あのコルディウムだった。
イヒョンは反射的に身を捻って避けようとしたが、黒い影はすでに彼の足首を絡め取っていた。
冷たく、ねっとりとした闇が足先から這うようにして脚を侵食していった。
イヒョンは荷車に乗り込もうとしたが、黒い影に縛られた足を動かすことができなかった。
「イヒョン!」
リセルラが叫んだ。
彼女は手を伸ばし、イヒョンの手を掴んだ。
イヒョンの頭の中では、「脱出失敗」という言葉が溢れ始めていた。
かつてあのコルディウムに捕らえられ、再び牢獄に閉じ込められた時の記憶が脳裏をよぎり、心臓が激しく鼓動を始めた。
イヒョンは顔を上げ、リセルラを見つめ、首を振った。
イヒョンはリセルラの目を見つめた。
「もう一度捕まったら…君もエレンも死ぬかもしれない。早く行け。」
イヒョンはリセルラがぎゅっと握っていた手を振り払った。
リセルラは躊躇した。
イヒョンがすでに手を振り払ったにもかかわらず、このまま去れば、この男は間違いなく死んでしまうだろう。
ここまで来て、彼を置いて行くわけにはいかない。
だが、今行かなければ、自分もエレンも捕まって死ぬだろう。
リセルラは下唇を噛んだ。
イヒョンはそのリセルラの目を見つめた。
彼はリセルラとエレンだけを送り出すのがより合理的だと判断した。
イヒョンは腰に差していた斧を抜き取り、馬の頭の横に力いっぱい投げつけた。
飛んできた斧に馬が暴れ出し、驚いて興奮した馬は粗末な扉を壊して勢いよく飛び出した。
イヒョンは荷車が去っていくのを力なく見つめた。
不思議なことに、イヒョンは「よかった」と思った。
この瞬間、自分の安否については全く頭に浮かばなかった。
ダーク・チェーンは彼の脚を越え、太ももまでさらに強く絡みついた。
追っ手たちはイヒョンのすぐ背後まで迫ってきていた。
イヒョンは絶望の鎖に少しずつ喰われつつあった。
その瞬間――
「ダメ――!!!」
遠ざかる荷車の上で、エレンの鋭い、まるで悲鳴のような叫び声が夜明けの空気を切り裂いた。
そして直後、太陽よりも眩しい光がエレンの目と口から迸った。
エレンの目と口から同時に溢れ出た光は、まるで彼女の中に隠されていた太陽が一気に爆発したかのように強烈だった。
その光は波動のように広がり、周囲を飲み込み、まるで爆弾が炸裂した時の閃光のように、一瞬にして闇を全て呑み込んでしまった。
眩い輝きは牢獄の壁を越えて広がり、空間全体を揺さぶり、その中にいた影たちは一瞬で震え、散り散りに消えた。
イヒョンは目の前が一瞬にして真っ白に染まるのを感じた。
太陽さえも眩しく思うほどの純白の光。
その光は闇を押し退け、イヒョンを包み込み、彼の脚を縛っていた黒い影を振り払った。
黒い影は、まるで水に溶けた綿菓子のように散り散りに消えていった。