30. 準備
足音は神殿を響かせ、彼らに近づいてくるようだったが、突然ぴたりと止んだ。一瞬にして訪れた神殿の静寂は、イヒョンの背筋をぞっとさせた。静けさの中では、息づかいさえ大きく聞こえそうな緊張感が漂っていた。
エミリアの仮面を脱ぎ捨て、本来の姿に戻ったセルカインは、イヒョンとセイラから少し離れた場所で、闇に身を潜めながら、彼らが隠れている瓦礫の山を鋭く睨みつけていた。
「ヴィンクルム・ネガーレ…」
【否定の欠片】
彼の指先から黒い気配が揺らめき、集まり始めた。その気配は次第に固まり、新たな否定の欠片として形を成していった。
新たに作られた欠片は、すぐにネルバに装填された。セルカインの固く閉ざされた口元には、今回こそ絶対に逃さないという断固たる決意が滲んでいた。
イヒョンはセイラを自分の体でかばいながら、崩れた神殿の柱の陰に身を隠していた。肩に深く突き刺さったボルトの痛みが鋭く突き刺さってきたが、彼は歯を食いしばって耐えた。
「ルメンティア… 大丈夫ですか?」
セイラが小さく囁き、イヒョンを心配そうに見つめた。
イヒョンは首を振って答えた。
「痛いけど、とりあえず大丈夫だ。問題は別にあってな」
彼は肩を片手で押さえながら、遠くで燃える焚き火をじっと見つめ、言葉を続けた。
「あの焚き火のせいで、俺たちの位置があまりにも簡単にバレちまってる」
エミリアが罠を仕掛けるために焚いた火の光は、長い影を落とし、彼らの隠れ場所をはっきりと浮かび上がらせていた。一方、敵は闇に身を隠し、どこにいるのかさえ分からない状況だった。完全に不利な状況だった。
イヒョンは素早く決断を下さなければならなかった。
「セイラ、ちょっと動かずここにいてくれ」
「ルメンティア、どこに行くんですか?」
セイラの声には不安が滲んでいた。
「焚き火を消さなきゃ。そしたら俺たちの位置を隠せるかもしれない」
イヒョンは肩に刺さったボルトを見下ろしながら言葉を続けた。
「これはクロスボウ用のボルトだ。普通の弓より破壊力は強いけど、連射速度は遅い。一発撃った後、再装填には時間がかかるはずだ」
イヒョンは肩を押さえながら体を起こした。そして身を低くかがめ、隙を伺いながら闇の中に視線を投げた。
イヒョンは周囲に転がっていた長い棒を拾い上げ、エミリアの父親の姿がまとっていた古びた布を慎重に引き寄せた。色褪せた布は粗く重かったが、棒に引っかかり、ゆっくりと引きずられた。
彼は近くに散らばっていた小石をいくつか布で包み、しっかりと結んだ。そして力を込めて、焚き火に向かってその布の塊を全力で投げつけた。
――ピュン!――
布に包まれた小石が空中を切り裂いて飛んでいくと、イヒョンの予想は的中した。
闇の中から鋭いボルトが風を切って飛び、布の塊を正確に突き刺した。
その瞬間、イヒョンはためらわなかった。
ボルトが布を貫く音が聞こえた瞬間、彼は焚き火に向かって全速力で走り出した。
――タッ、タッ、タッ!――
彼の足音が神殿の石の床に短く鋭く響き合った。
焚き火の前にたどり着いたイヒョンは、燃え盛る薪の山を力いっぱい蹴り上げた。
――ガシャン!――
木片が四方八方に飛び散り、火の粉が神殿の冷たい石の床に散らばった。飛び散った薪は次第に光を失い、やがて神殿の中は深い闇に包まれた。
焚き火を蹴り飛ばしたイヒョンは素早く柱の陰に身を隠した。残り火が徐々に消え、闇が完全に支配する中、彼は慎重にセイラが隠れている場所に戻った。
セイラは柱の陰で両手を合わせて祈るようにイヒョンを見つめていた。彼女の瞳には心配が溢れていた。
「ルメンティア、大丈夫ですか?」
「シッ」
イヒョンは唇に指を当て、低く囁いた。
「これで俺たちが動きやすくなるはずだ」
セイラはバッグを漁り、包帯を取り出すとイヒョンに近づいた。
「ちょっと待ってください。血がこれ以上出る前に、止血しなきゃ」
彼女は慎重にイヒョンの肩に刺さったボルトを抜いた。そして素早く包帯を巻き、傷をしっかりと固定した。抜かれたボルトは彼女の手から虫のようにはねられ、神殿の床に落ちた。床に触れたボルトは徐々に形がぼやけ、黒い霧のようにスルスルと消え去った。
「コルディウムで作られたみたいです。普通のものじゃないみたい」
セイラの声は小さかったが、震える指先からは彼女の緊張がそのまま伝わってきた。
「ごめんなさい。私がもう少し早かったら…」
彼女の声には自責の念が滲んでいた。
イヒョンは首を振って優しく言った。
「いや、セイラ。お前のせいじゃない。お前のおかげで俺は助かったんだ。ありがとう」
その言葉に、セイラは涙を飲み込みながら頷いた。包帯をしっかりと結びながら、彼女は心を奮い立たせるようだった。
イヒョンはボルトが飛んできた方向をしばらく見つめ、考えに沈んだ。そして低い声で口を開いた。
「セイラ、よく聞いてくれ。俺たちは神殿の奥に進む」
「え? 逃げるなら神殿の外に出るべきじゃないんですか?」
セイラの声には戸惑いが掠めた。
イヒョンは落ち着いた声で囁いた。
「今、俺たちはあの攻撃者が誰か分からない。けど、俺があいつだったら、神殿の入り口を徹底的に監視してるはずだ。あいつはクロスボウを持ってる。広い場所だと俺たちが不利すぎる。でも、神殿の奥は暗くて狭いから、あいつが簡単に狙えない。追いかけてくる可能性も低い」
彼は一瞬言葉を止め、彼女の目を見つめた。
「音を立てず、静かに付いてきて」
「はい、ルメンティア。あなたに従います」
しばらくして、彼らの目は徐々に闇に慣れ始めた。イヒョンは低く囁いた。
「奥に進もう…」
「はい」
二人は身を低くして、ゆっくり、慎重に、廃神殿の中央祭壇の脇に続く暗い回廊を進んだ。彼らの足音は闇の中ではほとんど聞こえないほど小さかった。
イヒョンとセイラは息を潜め、壁を手で支えながら神殿の奥へと慎重に進んだ。崩れた隙間から差し込む月光は、内部の輪郭をかすかに浮かび上がらせるだけだった。闇の中で道を見つけるのは簡単ではなかった。
神殿の奥には小さな部屋がいくつも並んでいた。儀式が行われたらしい部屋、物資を積んだ倉庫、そして誰かが滞在した痕跡が残る空間。扉はほとんどが外れ、屋根が半分崩れて空を覗かせる部屋もあった。
「何か使えるものはないか…」
イヒョンは低く呟き、武器になりそうなものを探し始めた。だが、ずっと昔に捨てられた廃神殿で役立つ道具を見つけるのは、そう簡単なことではなかった。
そんな中、儀式の準備に使われたらしい部屋で漂う奇妙な匂いに、イヒョンの足が止まった。古びた木箱、壊れた香炉、そして棚に整然と並んだ壺が目に入った。
「硫黄の匂い… それにこれはシナモン? いや、クローブか?」
イヒョンは鼻をクンクンさせ、壺の蓋を開けて中を覗いた。
「香料の粉みたいだ…」
壺の中には硫黄の粉と細かく挽かれた香料の粉が入っていた。乾燥して柔らかな粉は、指先に触れるとサラサラと散った。
イヒョンはしばらく考えに沈んだ。
彼の頭に、昔読んだ本の場面が浮かんだ。1785年、イタリアの製粉所で起きた粉塵爆発事故。小麦粉が空気中に漂い、わずかな火花で巨大な爆発を引き起こした、人類が粉塵爆発の恐ろしさを初めて知った凄惨な事件。可燃性の粉塵が一定濃度で空気中に浮遊すると、たった一つの火花で爆発を引き起こすという事実が脳裏をよぎった。
イヒョンは目の前の状況とその記憶を素早く結びつけた。硫黄の粉、香料の粉、そして乾燥した神殿の静かな空気。火種さえあれば、爆発を起こす条件はすべて揃っていた。
「セイラ、バッグを貸してくれ」
「バッグですか?」
セイラが不思議そうな表情で尋ねた。
「そうだ、バッグ。あいつと戦うには俺たちにも武器が必要だ。うまくいくか分からないけど、できることは全部やってみる」
セイラはためらうことなくバッグを差し出した。イヒョンは彼女のバッグからアルコール瓶と包帯を取り出し、自分のバッグに移した。そして包帯を小さく裂き、硫黄と香料の粉を混ぜ、セイラのバッグにできる限り詰め込んだ。
「これ、なんですか、ルメンティア?」
セイラが好奇心を込めて尋ねた。
「爆弾だ」
イヒョンは淡々と答えた。
「爆弾? それって何ですか?」
「条件が揃えば爆発を起こす。まあ、この粉だけじゃ爆発しない。でも、火種があれば… 十分いける」
彼は一瞬言葉を止めた。
「問題は火だ。火種がなきゃ爆発を起こせない。さっきの焚き火はもう消えてて使えないんだ」
セイラはまだ理解できないという表情でイヒョンを見つめた。
「とりあえず、俺が先に行く。お前はここで待っててくれ」
「ダメです、ルメンティア! 一人で行くなんて危なすぎます。それに、リセルラ姉さんとの約束も…」
セイラの声は心配で震えていた。
イヒョンは彼女の不安げな顔を見ながら、落ち着いて、なだめるように言った。
「セイラ、気持ちはありがたいけど、運がずっと味方してくれるとは限らない。俺が先に行って状況を確認する方がいい。安全になったら必ず迎えに来る。約束するよ」
彼は敵が自分を狙っていることをよく分かっていた。もしセイラが敵の手に捕まったり、標的にされたりしたら、今の自分では彼女を守る力が足りなかった。セイラを安全な場所に隠すのが最善の選択だった。
「それでも、ルメンティア…」
セイラの声はまだためらっていた。
「無茶はしない。心配しすぎるなよ」
イヒョンは柔らかく微笑んで彼女を安心させた。
準備を終えたイヒョンは、セイラに身を低くして隠れているよう目配せした。そして、慎重に扉の外を窺った。彼は深く息を吸い込み、首をわずかに出して、闇に沈んだ神殿を見渡した。
神殿の中は濃く重い闇に覆われていた。かすかな月光を頼りに、彼は慎重に大回廊に向かって足を踏み出した。つま先で床をかすめ、小さな石ころさえ踏まないよう細心の注意を払って動いた。一瞬のミスが命を奪う状況だった。
回廊にたどり着いたイヒョンは、身をできる限り低くした。祭壇に続く廊下の突き当たりで、彼は頭を少し出して回廊の気配を探った。
回廊は壮大で広々としており、かつての栄光を物語る繊細な彫刻の石柱が両側に並んでいた。しかし、時の風雨に耐えきれなかった痕跡が明らかだった。柱の上に続くテラスはところどころ崩れ、瓦礫や破片で床を乱していた。月光が崩れた屋根の隙間から差し込み、長く不気味な影を落としていた。
イヒョンは柱や瓦礫の間を慎重に観察した。闇のどこかに、奴が隠れて、見えない距離から自分を狙っているはずだった。このまま無謀に進んだら、抵抗する間もなくクロスボウの餌食になるのは明らかだった。
『奴を闇から引きずり出す方法を見つけなきゃ』
イヒョンは頭の中で素早く状況を整理した。
闇の中からクロスボウを放つ敵に対し、このままでは勝ち目がない。まず奴の位置を特定しなければならなかった。
『賭けに出るしかないか』
彼は漆黒の闇を凝視しながら決意を固めた。
『クロスボウに当たらずに、奴の位置を突き止めなきゃ』
イヒョンは覚悟を決め、自分を晒すことを決意した。奴が自分を見つければ、間違いなくクロスボウを放つはずだ。その瞬間、音が響く方向さえ分かれば、敵の位置を大まかにでも推測できるだろう。
『危険だけど… これ以外の方法はない』
彼は深い息を吐き、闇の中で次の行動に備えた。彼の心臓は速く鼓動していたが、眼光は鋭く、落ち着いていた。一瞬のミスがすべてを終わらせる状況で、イヒョンはすべての感覚を研ぎ澄まし、好機を伺った。
廃神殿の空気は冷たく重かった。イヒョンはゆっくり、非常にゆっくりと足を踏み出した。古びた大理石の床に足が触れるたび、積もった埃が舞い上がり、彼の足首を柔らかく包んだ。
一歩一歩が生死を分ける瞬間だった。彼は息を整え、闇の中でわずかに輝く好機を見つけるため、すべての感覚を研ぎ澄ました。
イヒョンは一つの音も聞き逃すまいとすべての神経を耳に集中させ、ゆっくりと身を起こした。上体をわずかに前に傾け、彼は瓦礫の山に向かって慎重に足を踏み出した。
奴が位置を変えていなければ、神殿の入り口近くのどこかで自分を狙っているはずだった。
一方、セルカインは回廊の2階テラスに身を潜め、ネルバをしっかりと握り、いつでも引き金を引く準備をしていた。彼の目は闇の中でも鋭く光っていた。
『いつでも来い』
心の中で繰り返しながら、彼は息を潜めた。
イヒョンは知っていた。どんなに強力なクロスボウでも音速を超えることはできない。暗い回廊の中で、彼の目が届く範囲には敵の影すらなかった。ならば、奴は少なくとも10~20メートル以上離れた場所にいる可能性が高い。
彼は息音さえ抑え、いつでも前に倒れてボルトを避けられるよう、緊張した姿勢を保った。すべての感覚を研ぎ澄まし、闇の向こうから感じる敵の視線を肌で感じ取った。小さな音一つ、微かな揺れ一つが即座に死に繋がる可能性があった。
――カチッ!――
短く鋭い発射音が神殿に響いた。イヒョンはその音を聞いた瞬間、反射的に身を前に投げ出し、床に倒れ込んだ。
――ドン!――
クロスボウのボルトが彼が直前まで立っていた石の床を叩き、深い痕を残した。イヒョンは素早く身を起こし、瓦礫の陰に身を隠した。奴がボルトを再装填する前に動かなければならなかった。
斜めに飛んできたボルトが残した床の痕のおかげで、イヒョンは敵のおおよその位置を推測できた。心臓は激しく鼓動していたが、頭の中は冷たく計算していた。
『やっぱり神殿の入り口近くだったか』
イヒョンはドキドキする胸を抑え、崩れた石柱の山の後ろに身をかがめた。息を整えながら、彼は神殿の入り口の方を鋭い目で睨んだ。身をできる限り低くし、一歩ずつ慎重に進んだ。
――カチッ!――
再び鋭い発射音が闇を切り裂いた。
イヒョンは瞬時に反応し、横の柱の後ろに身を転がして隠れた。彼の動きは本能のように素早かった。
徐々に、彼は敵の位置を絞り込んでいった。頭の中で、短い発射音の方向とボルトが飛んできた角度を精密に描き出した。そして、ついに確信に至った。
『神殿の入り口、回廊の2階、右側のテラス付近だ。あそこなら神殿の内部を完全に支配できるな』
イヒョンは柱の後ろに身を隠しながら、2階のテラスを見上げた。
『あれをどうやって…』
読んでくれてありがとうございます。
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