185. 演奏
主人は深いため息をついて、ぼんやりと厨房のほうを見つめた。
「あいつが逝ってから、誰もそのタコを獲りに入ろうとしなくなってな。」
「本当に気の毒なことです。長年の友人を亡くされて、さぞお辛いことでしょう。」
イヒョンは低く沈んだ声で慰めの言葉を口にした。主人は答える代わりに、杯に残ったビールを一気に飲み干した。
ごとん。
空のジョッキが荒々しくテーブルに置かれた。主人の目尻はすでに赤く充血していた。イヒョンの目が光った。
『今だ。』
酒が入って理性の紐が緩んだ隙。そして悲しみに沈んで、誰かに心の内を吐き出したい欲求。もう少しだけそっと触れれば、閉じた口を開かせられそうだった。
「もう一杯、私が奢りましょう。先に逝った友人を偲ぶ意味でも、どうぞ。」
イヒョンが手を上げてビールを追加注文すると、主人がちらりと彼を見た。警戒心はとっくにビールと一緒に消え去っていた。
「ありがとうよ。気っ風のいいお方だ。」
主人は遠慮せずに杯を満たした。
黄金色の液体が白い泡を立ててジョッキを満たした。主人は泡を口元につけながらまたジョッキを傾けた。イヒョンは相手が酒を飲み込むタイミングを待ってから、さりげなく口火を切った。
「実は……干潟の仕事というのは、それ自体が随分と危ないものじゃないですか?体も堪えますが、足を取られたら抜け出せなくなりますし、満ち潮にでも当たろうものなら大変なことになりますから。」
単純な事故死に誘導しながら反応を窺う誘導尋問だった。しかし主人の反応は予想外だった。
「……。」
主人は口をぱくりとさせて沈んだ表情を浮かべると、ゆっくりと首を横に振った。
「いっそ……仕事中に事故で死んだってんなら、俺も運命だったんだと諦めがついたよ。海の男たちは波と干潟を墓場と思って生きてるもんだからな。」
主人の声が奇妙に震えた。
彼は突然ぐるりと顔を向けて、がらんとした1階のホールを見渡した。聞き耳を立てている者がいないか確かめる、ひどく密やかで怯えた仕草だった。
安全を確かめてから、彼はテーブルの上に身を乗り出し、イヒョンとライルのほうへぐっと顔を寄せてひそひそと囁いた。
「実は……みんな口を噤んでいるだけで、わかってるんだ。俺の友人は自殺でも事故でもなかった。」
主人の唇がおもむろに開いた。
「どう見ても『コルディウム暴走』で死んだに違いないんだ。」
「……!」
イヒョンの瞳が一瞬縮んだ。パスタを夢中で掻き込んでいたライルのフォークも、宙でぴたりと止まった。
コルディウム暴走。イヒョンとライル、彼らがここに派遣された本当の理由だった。
イヒョンはわざと驚いた素振りを見せながら声を落とした。
「暴走とは?いったいどういうことですか?」
「あいつの家でだよ。みんな狂って自殺したんだと騒いでるけど……俺は見たんだ。」
主人の目に恐怖が滲んだ。
「この目でしっかりと見たんだよ。」
主人は身震いしながら言葉を続けた。恐怖に染まった瞳が虚空をさまよった。
「あいつの遺体は……人間の姿じゃなかったんだ。まるで床に叩きつけた陶磁器みたいに、全身が粉々に砕けていたんだよ。」
宿の主人は単に肉が裂けたとか骨が折れたとかではなく、「砕けていた」という表現を使った。
それは人間の肉体に使える表現ではなかった。主人の言う通り体が陶磁器のように硬く石化しない限り、決して起こりえない現象だった。
「あの凄惨な光景を見たのは、あいつの女房と俺、それとあと数人だけだった。」
主人は震える手でジョッキを握りしめた。指の関節が白くなっていた。
「数ヶ月前のことだ。あいつの家で……そういう状態になってるのを女房が見つけたんだ。奥さんが悲鳴を上げながら俺のところへ走ってきて、俺はあまりの驚きにすぐ『ビリクス』の旦那に知らせた。」
「ビリクス?」
イヒョンは聞き慣れない言葉に首を傾けた。
「ああ、外の方だとご存知ないかもしれませんね。この村は小さすぎて、領主様が派遣する役人が来るわけじゃない。その代わりに村で人望が厚くて賢い方を自治会で選んで管理役を担ってもらうんですが、その方のことをうちらはビリクスと呼んでるんです。」
イヒョンは頷いた。領主の代わりを務める自治管理人というわけだ。
「それで、そのビリクスという方が来て処理してくれたんですか?」
「そうだよ。来るなり遺体を収めて、すぐに棺に入れて釘を打ちつけちまった。無惨な姿を見せるわけにはいかないって言って……。だから村の人たちはほとんど、あいつが鬱で自殺したと思ってたんだ。でも秘密なんてどこにあるもんか。」
主人は悔しそうにげんこつでテーブルを叩いた。
「誰よりも勤勉で、心の優しいやつだったんだ。女房と子供たちを溺愛してたそいつが自殺する理由なんて欠片もない。それに俺が見たものがある、あれは絶対に人間に起きていいことじゃなかった。」
イヒョンは沈黙の中で、宿の主人の言葉を噛み締めた。
陶磁器のように砕けた遺体。家の中での不審死。そしてビリクスによる迅速で密やかな遺体の処理。
単純な事故ではなかった。何かが組織的に隠蔽されているような気配もした。
『コルディウム暴走だとすれば……その原因が何なのか突き止めないと。』
イヒョンはジョッキを持ち上げて口元を隠しながら、鋭く光る眼差しを覆い隠した。タコ獲りの男の死は、ライレン全体を覆っている巨大な謎の、ほんの始まりに過ぎないように見えた。
安物のろうそくが燃え尽きていく音が、静寂をかろうじて押しのけていた。磯の臭いと古い木の匂いが混ざり合った酒場の中は、重苦しい空気に満ちていた。
イヒョンは古びたテーブルに頬杖をつき、宿の主人を見つめた。主人の肩は、見えない重荷に押しつぶされたようにだらりと落ちていた。
イヒョンは柔らかく、しかし真剣な口調で慰めの言葉をかけた。
「一家の大黒柱があんな形で逝かれたのでは……残された家族は生きていくのが辛いでしょうね。」
単純な感情的な慰めではなく、事実に基づきながらも相手を思いやった、重みのある言葉だった。主人は拭いていたジョッキを置いて、深いため息をついた。眉間に深く刻まれた皺の一本一本に、人生の疲れが溜まっているようだった。
「はあ……言わないでくださいよ。あの家、子供が2人もいるんだ。まだ10歳になるかならないかの子たちを残していっちまったんだから……奥さんはどれほど辛いか。」
「この荒々しい海風の中で、女手一つで干潟仕事をこなすのは容易じゃないでしょう。体よりも先に、心が削られていくでしょうから。」
「全くそうなんだよ。まったく、気の毒な話だ。」
主人は手ぬぐいを苛立たしげにテーブルへ投げ、天井を見上げた。すすけた天井の向こう、見えない何かを恨むような目つきだった。
「こういう時は、神様が本当にいるのか疑問に思うよ。いるとしたら、こんなに無情でいられるものかと。生きてる人間は生かしてくれないとな、まったく。」
彼の嘆きは湿った空気の中へ力なく散っていった。イヒョンはそれ以上言葉を続ける代わりに、顔を向けて隣を見た。
そこにはライルがいた。
「ずるずる、ぱくぱく。」
ライルはこの深刻な雰囲気とはまるで似つかわしくない様子で、湯気の立ち上るタコ粥を口いっぱいに頬張っていた。ハムスターのようにぱんぱんに膨らんだ頬でもぐもぐしている姿は、ひどく軽薄でいながら、不思議なほど生気に溢れていた。
イヒョンの冷ややかな視線がライルの頭頂部に突き刺さった。
おしゃべりで落ち着きのないやつだが、空気を読む勘だけは抜群だった。
ライルは底まで掻き回していたスプーンを止めてイヒョンと目を合わせた。口元についた粥をさっと拭いながら、片目をぱちりとウィンクした。
『任せといてくれよ、兄貴。』
その軽いウィンクに込められた意味を読み取ったイヒョンは、再び主人の顔を見ながら杯を持ち上げた。
――――
翌朝。
エペリア南部と聞いて思い浮かべる眩しい陽光や黄金色の浜辺、そういったものはここライレンにはなかった。空は低く垂れ込めた灰色の雲に飲み込まれており、たっぷりと湿気を含んだ海風が襟元に入り込んでねっとりと絡みついた。
イヒョンとライルは村の広場の隅、古びた噴水台の横に場所を取った。イヒョンは旅人ギルドで厳選した薬草と、夜のあいだに自ら調合しておいた常備薬を屋台の上に並べた。
「こちらが止血剤、これが解熱剤……そしてこちらは関節痛の軟膏です。」
ガラス瓶がぶつかり合い、澄んだ音を立てた。種類ごとにきちんと整列させた薬瓶は、通りすがりの人々の目を引いてもよさそうだったが、現実は厳しかった。風だけが寒々しい屋台を吹き抜けていくだけ。
人々は見知らぬよそ者の露店に目も向けなかった。いや、そもそも行き来する人自体がまばらだった。網を直しに行く漁師が数人ちらりと見やるのが精いっぱいだった。
「閑古鳥が鳴くとはまさにこのことですね。」
イヒョンは腕を組みながら静かに呟いた。このままでは薬草を売るどころか、情報源になってくれそうな村人の顔を覚えることすら難しかった。
「いやあ……これは本当に寂しいな。散々だ。」
ライルが舌打ちしながらがらんとした広場を見回した。イヒョンはあごで閑散とした通りを示した。
「ライル、人を集めないといけません。何かいい考えはありませんか?」
するとライルの口角がにやりと上がった。
「ふふふ。兄貴もようやく俺の天才的な能力を認めてくれるようになったか?そうだろ、この俺抜きじゃ物足りないよな。」
ライルは満足げな表情を浮かべると、自信たっぷりに酒場のほうを指差した。
「昨日見たんだけど、酒場の壁にかなりいいリュートが掛かってたんだよな?弦はちょっと古びてたけど、音は悪くなさそうだった。」
「リュートですか?」
「そう!俺が行って借りてきて、一曲かき鳴らしてみるよ。音楽のあるところに人が集まって、人が集まれば市が立つってもんじゃないか?」
ライルはもう楽しくて仕方がないのか、宙に向かって架空のリュートを弾く仕草をした。指が鮮やかに虚空を掻いた。
「南部の海風に乗せて、吟遊詩人がロマンたっぷりの歌を奏で始める?断言するけど、この陰気な港町の人たちだって、尻が浮かんで堪らなくなるって!」
「……。」
イヒョンは半信半疑の目でライルをじろじろと上から下まで眺めた。その視線に気づいたライルが、むきになって叫んだ。
「もう!その信用できないって目は何なんだよ!俺のリュートの腕前を一発披露したら、干潟に潜ってるアサリもタコも踊り出すくらいだって!まあ、タコは足が多いからステップが絡まって大変だろうけど!」
ライルが冗談を飛ばしてくすくす笑った。その強がりは天を突くほどだった。
「いい方法ですが。」
イヒョンは落ち着いた口調で核心を突いた。
「ライル、リュートは弾けますか?」
その言葉にライルの表情が「なんてひどいことを!」とばかりに大げさに歪んだ。胸に手を当てながら悲壮な勢いで叫んだ。
「兄貴!俺のことを何だと思ってんだ!俺はれっきとした自由都市の吟遊詩人なんだぞ!」
「やれやれ、肩書きがやたら多いですね。」
「いや、本当なんだって!俺のリュートに惚れてついてきた女が、ちょっと盛ったとしてもこの村の人口より多いかもしれないくらいだぞ?見てろよ。今日この広場を、涙と感動の坩堝に変えてやるから!」
自信だけはエペリア大陸随一だった。イヒョンはどうにもならないとばかりに苦笑しながら手を振った。やってみるだけやらせてみればいい。
「そうですか。それじゃあひとつ見せてもらいましょう。タコはともかく、人をちょっと連れてきてくれると助かります。」
「よっしゃ!兄貴は金かき集める準備だけしといてくれ!」
ライルは元気よく答えると、風のように酒場のほうへ駆けていった。
遠ざかっていく彼の軽い後ろ姿を、不安と期待が奇妙に入り混じった目で見送りながら、イヒョンは首を横に振った。
しばらくして、酒場の古びた木の扉が勢いよく開くと、ライルが意気揚々と歩いて出てきた。まるで戦場で勝利を収めて凱旋した将軍かのように、肩に力がこもっており、口元には世界を手にしたような笑みが浮かんでいた。
「じゃーん!兄貴、これを見ろ!やっぱり俺が手に入れてきたぞ!」
ライルが宝でも掲げるように差し出したものを見た瞬間、イヒョンは眉をひそめた。
塗装はすっかり剥げて木の地肌がむき出しになっており、ネックの部分はどれほど触られたのか手垢で黒光りしていた。決定的なことに、弦が一本ぶつりと切れてだらりとぶら下がっていた。楽器というより、薪に近い代物だった。
「……。」
イヒョンはそのがらくたとライルの顔を交互に見た。
「それで音が出るんですか?弦も切れてますが。」
「もう、兄貴は本当に何もわかってないな。」
ライルは舌打ちしながら、リュートを大事そうに胸に抱いた。
「本物の名人は道具のせいにしないもんだよ。それにこの俺みたいな天才吟遊詩人は、弦が一本くらい欠けても観客の心の琴線を震わせられるもんさ。」
「そうですか。」
イヒョンの乾いた反応にもものともせず、ライルは手すりに腰を下ろして構えを取った。慣れた手つきでぎしぎしと軋む糸巻きを巻いたり緩めたりしながら、チューニングを始めた。
ぱん、ぱぱん——
最初は錆びた金属を引っ掻くような音が出た。しかしライルの指がわずかに動くたびに、音は素早く正しい位置を見つけていった。
『この音じゃない……そうだ、ここだ。』
ライルは切れた弦の空白をそのままにしておかなかった。別の弦を押さえて人工的な倍音を作り出すと、巧みに空いた音域を埋めてしまった。
ちりん——
瞬間、驚くほど澄んで清らかな共鳴音が、広場の淀んだ空気を切り裂いた。
「ほう……。」
音楽に疎いイヒョンが聞いても、それは並々ならぬ腕前だった。つい今しがたまで薪同然だったがらくたが、ライルの指先で立派な楽器へと変わる瞬間だった。指板の上を踊るように行き来する指は、水が流れるように滑らかだった。
「思ったより上手いじゃないですか。」
イヒョンが素直に感心してうなずいた。その短い褒め言葉は、火に油を注いだも同然だった。ライルの肩が耳につきそうなほどそびえ上がった。
「ふふふ、ようやくわかってくれたか!兄貴、惚れても無駄だぞ!悪いけど俺は男はお断りなんでな。」
ライルはわざと悲壮な表情でわざとらしく咳払いをしてから、がらんとした広場をまるで満員の観客席でも見るように眺めて、ウィンクを飛ばした。
「さあ、それじゃあこの陰気でじめじめした港に……愛の息吹をひとつ吹き込んでやるか。」
ライルの手首がスナップを利かせて弦を力強くかき鳴らした。
じゃあん——!
軽快なストロークとともに、ライレンの朝を目覚めさせる歌が始まった。
「美しいお嬢さんよ〜 あなたの瞳は朝露のように輝いて〜」
声は罪がなかった。いや、正確には通りがかりのカモメも羽ばたきを止めるほど甘い美声だった。澄んだリュートの旋律に乗せたライルの声は、ロマンそのものだった。しかしイヒョンの表情は、節が重なるごとに奇妙に歪み始めた。
「あなたの頬は赤く咲いたバラの花〜 髪は夜の川のように流れて〜」
ここまではまだ耐えられた。少しくどくはあるが、「吟遊詩人のロマン」という枠に収めてやれる範囲だった。しかしライルの目つきがだんだんとろんと溶け始めると、歌詞の際どさが危険ラインを越えあんとし始めた。
「ああ、我が愛よ、秘密の森へおいで〜 誰の目にも届かない、深く暗いその場所へ〜」
「……!?」
「柔らかな月明かりの下で、かたく閉ざされたあなたの花びらは、我が愛によって開くのだ〜!」
イヒョンの眉間がぐっと寄った。ライルはもう自分だけの世界に浸り切っていた。まるで目の前に架空の恋人でもいるように、宙に向かって濃いウィンクを飛ばしながら声を張り上げた。
「長い夜、あなたの蜜を味わいながら夜明けを迎えよう!熱い吐息が絡み合う、その場所で!野の原に我が情熱の種を蒔こうぞ〜!」
「……!」
こいつ、正気か?これはロマンじゃなくてセクハラじゃないか。ちょうど網を片付けに来ていた女性が顔を赤らめながら足早に立ち去った。
イヒョンは背筋に冷や汗が流れるのを感じた。今すぐ飛び出してライルの口をふさいでやりたかったが、ライルは止まらなかった。いや、むしろクライマックスに向けて容赦なく突き進んでいた。
「あなたの胸は、私が越えなければならない険しい丘!誘惑的で、こぼれんばかりに艶やかだ!」
ライルはリュートが壊れんばかりに弾き鳴らしながら、高音を張り上げた。
「ああ!私の呼びかけにどうか応えておくれ!今夜の我らの喜びを、その熱い愛を〜 新たに刻もうぞ〜!」
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