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178. ライル・ベルディアン

その時だった。


「うわあああああ! マジでやりたくないんだけどおおお!!」


厩舎の方から壮絶な悲鳴とともに、何かがどたんばたんと転がる音が聞こえてきた。イヒョンの口の端が上がった。


『逃げてはいなかったか』


「くそっ! こいつは一体何者だ! こんな……!」


頭目が噛み締めるように吐き出した言葉の間から、金属音混じりの荒い息が漏れた。


顎を伝っていたねっとりとした汗の雫が睫毛を濡らし、瞳の中へと滲み込んできた。塩気を帯びた痛みに目を固く閉じたが、拭う刹那の余裕すらなかった。


心臓が肋骨を砕かんばかりにどくどくと打ち鳴らし、背筋を伝って凍てつく冷気が流れ落ちた。メイスを握る手のひらがじっとりと濡れて滑った。


『さっさと片付けてずらかるつもりだったのに!』


計画は単純で完璧なはずだった。


深夜の急襲。錠前の破壊。軍馬の奪取。どこをとっても狂いが生じる余地などないと思えた。


警備の手薄なハスケルなら朝飯前のはずだった。それなのに、どこから沸いてきたかもわからない旅人の奴らが、盤面をまるごとひっくり返していた。


「ぐあああっ!」


カンッ! キィィッ!


頭目の前腕に青筋が浮き上がった。重いメイスが空気を引き裂きながら叩き下ろされた。しかし鈍い打撃感の代わりに、鉄が削れる不快な音だけが鼓膜を引き裂いた。


イヒョンが盾を斜めに傾けると、メイスは虚しく滑って地面を叩いた。重心を崩した頭目の体が前へとつんのめった。


『く、くそっ……!』


その刹那、銀色の閃光が視界をかき乱した。腿と前腕に立て続けに、火で炙られるような灼熱感が走った。肉が散り、赤い鮮血が滲み出た。しかしそれだけだった。喉仏を狙って飛んできた剣先は、届く寸前で嘘のように虚空へと引き戻された。


イヒョンは息一つ乱れていなかった。


致命傷は避けながら薄い皮だけを削ぎ取る剣さばき。それは獲物を前にした猛獣の余裕などではなかった。


まるで猫がネズミをもてあそぶように。まるで、時間を稼ぎながら自分をもてあそんでいるのだ。


『時間! そうだ、時間だ!』


頭目の脳裏に衛兵隊の存在がよぎった。このまま手間取れば、すべての計画が水の泡になる。今度は撤退しなければならない。馬もなんもかんも、まず命だけは助けなければならなかった。しかし目の前のこいつが執拗にまとわりついて、逃げる隙を与えてくれなかった。


「お前ら! とりあえずずら——!」


頭目が首筋に青筋を立て、部下たちへ撤退命令を下そうとした、まさにその刹那だった。


「うわあああああ! 兄貴! 助けてくれ!!」


厩舎の方から、耳が千切れるような悲鳴が炸裂した。イヒョンと頭目の視線が同時にそちらへと突き刺さった。


漆黒の闇を切り裂いて、ライルが飛び出してきた。


恐怖で白目を剥きかけた目元には涙と鼻水が混ざり合ってぬらぬらと光り、両手に握った短剣は虚空に向かって狂ったように空を切っていた。


「来るな! 近づくな! この盗賊野郎どもが!」


ライルの悲鳴の後ろから、黒い影が十数個絡みつくように溢れ出てきた。厩舎の前は瞬く間に修羅場と化した。


先頭に立った盗賊が歯を食いしばりながら剣を突き出した。


「止まれ! このネズミ野郎が!」


鋭い刃がライルの裾をかすろうとした刹那、ライルが奇妙なタイミングで腰をひねった。


空を切った盗賊の剣は止まれず、後ろからついてきた仲間の脛を薙ぎ払った。


「痛っ! 俺の足が! おい、前見て歩けよ!」


「お、お前が急に止まるから……ぐっ!」


言い訳していた男の背中に、さらに別の盗賊がつまずいて倒れ込んだ。


ドタンッ。


金属同士がぶつかる甲高い破裂音と鈍い音が混ざり合った。土埃がもうもうと舞い上がり、罵声と呻き声が入り乱れて沸き上がった。その修羅場の中からライルは、毛の先一本も傷つけることなくするりと抜け出して、イヒョンへと駆け出した。


『あいつ……』


イヒョンの目が細くなった。泣き顔で悲鳴を上げ続けているが、ライルの足さばきは精巧だった。盗賊たちを翻弄しながら、同時に彼らの隊列を自ら崩させていた。


「兄貴! 死ぬ! マジで死ぬってば!」


ライルがイヒョンに向かって両腕を広げて突進してきた。その瞬間、頭目の目が光った。


『あいつだ』


今相手にしているイヒョンは、掴めない蜃気楼のようだった。いくら武器を振り回しても届かないのだから、怒りが込み上げてくるほどだった。しかし自ら死にに飛んでくるあのうるさい奴は違って見えた。


ぞんざいに握った短剣、みっともなく逃げ惑う後ろ姿。


挙句の果てにめそめそ泣いているではないか。


『あのネズミ野郎を人質に取るなり、頭を叩き割るなりして隙を作る』


頭目はイヒョンへと振り下ろそうとしていたメイスの軌跡を変えた。体をぐるりと回転させながら、全力で走り込んでくるライルの顔面へと鉄球を叩き込んだ。


「死ね! このうるさい野郎が!」


ブウンッ——!


空気を引き裂く破裂音がライルの鼻先まで迫った。イヒョンが「躱せ!」と叫ぶより早かった。


ライルの目が丸く見開かれた。自分の頭頂目がけて落ちてくる凶悪な鉄の棒。


「ひいっ!?」


ライルが足を踏み外したように、膝が抜けて前のめりに倒れ込んだ。まるで石につまずいて転ぶような、極めて間の抜けた格好だった。


ブウンッ——!


凄まじい轟音とともにメイスがライルの顔面へと飛んできた。まともに食らえば顔面が陥没するだけでは済まない、必殺の一撃だった。


絶体絶命の瞬間、ライルの体が奇妙に後ろへと仰け反った。


彼はまるで泥の中を転がる獣のように、膝で地面を削りながら滑るように体を低くした。薄白い土煙の中、ライルの両目は恐怖に染まり、虚空をぼんやりと見つめているようだった。


「こ……ネズミ野郎が!」


イヒョンの直感が危機警報を発した。


『次が問題だ』


今のライルの体勢は完全に崩れている。膝をついたまま上体が後ろに仰け反った状態。躱す空間も、防ぐ手立てもなさそうだった。頭目の顔に残忍な笑みが広がった。彼は外れたメイスを荒々しく引き戻し、頭上高く振りかざした。


「終わりだ!」


バキッ!


鈍い打撃音が夜の静寂を引き裂いた。イヒョンの眉間が険しくなった。脳漿が飛び散り頭蓋が砕け散るはずの、恐ろしく不吉な音だった。


しかし。


「……え?」


頭目の口から間の抜けた呻きが漏れた。地面。その凶悪な武器はライルの頭ではなく、固い土の地面を激しく打ち据え、半分めり込んでいた。


ライルはそこにいなかった。いや、いたがいなかった。メイスが叩き下ろされた刹那の瞬間、ライルの頭は紙一重で軌跡を外れていた。


「こ、このっ! このドジョウ野郎が!」


理性を失った頭目がメイスを引き抜き、狂ったように振り回し始めた。


ブンッ! ドカンッ! ヒュッ!


左右、上下、斜め。容赦のない乱打が続いた。


かすりさえすれば致命傷になる攻撃が雨あられと降り注いだ。見守るイヒョンの剣を握る手に、砕けるほどの力が入った。背筋を冷たい戦慄が走り抜けた。


『あれは……』


それは武術ではなかった。型にはまった構えでも、訓練で磨かれた技でもなかった。イヒョンの分析的な目がライルの動きを解剖するように追った。


大きな動作はなかった。頭をわずかに傾けたり、肩を少しひねったり、息を吐いて胸の厚みを減らす程度。まるで見えない定規で軌跡をリアルタイムで測り続けているかのような、超精密な回避だった。


『訓練でできる動きじゃない。あれは生存本能か……』


人間が極度の恐怖の中で思考を停止し、ただ「生き残る」という原初の目的のためだけに残された最後の機能。脳が命令を下す前に細胞が先に反応する、獣の領域のようだった。


ライルの瞳は恐怖で収縮していた。明らかに怯えていた。しかしその目は、恐怖に囚われて閉じてしまった目ではなかった。


瞳は狂ったように揺れていたが、その視線だけは正確だった。死の軌跡と軌跡の間に存在する、針の穴ほどの生き道を鮮やかに見つけ出していた。


ドカンッ!


再びメイスが外れて地面を強打した。頭目の呼吸が荒くなり、力をかけすぎた上体が前へと大きく傾いた。


隙。


その瞬間、ライルの手に握られていたおもちゃのような短剣2本が、命を得たように閃いた。


シュッ——!


冷たい風切り音が頭目の顎の下へと切り込んだ。


明らかに殺意を帯びた一撃だった。


カアアンッ——!


鋭い金属音が夜の静寂を引き裂いた。頭目の息の根を止めようとしたライルの短剣は、顎の下数センチの距離で阻まれた。


イヒョンの盾だった。盾の表面から真っ赤な火花が散った。


イヒョンはライルの攻撃を弾き返すと同時に、右手に握ったアーミングソードをしっかりと掴み直し、無防備に晒された頭目の後頭部を、剣の柄頭ポメルで力強く打ち下ろした。


ドスッ!


「ぐっ……」


鈍い打撃音とともに、頭目の瞳の焦点が溶けた。


彼は悲鳴すら上げられなかった。大柄な体が糸の切れたマリオネット人形のように、力なく地面へと崩れ落ちた。完璧な気絶だった。


「と、頭目!」


「こ……こいつらが!」


頭目が倒れるのを見た盗賊たちの目が血走った。


狼狽えていた様子は瞬く間に消え、その場に毒を帯びた殺気が入り込んだ。奴らが剣と斧を引き抜きながら包囲網を狭めてきた。


「殺せ! 全員殺してしまえ!」


状況は最悪へと転がり落ちた。追い打ちをかけるように、イヒョンの隣で「どさっ」という音がした。


イヒョンの盾に阻まれて攻撃が空振りに終わったライルが、張り詰めていた糸が切れたせいか、それとも反動のせいか、泡を吹いて地面へと倒れ込んでしまったのだ。


『いろいろやってくれる』


イヒョンは短く舌打ちをした。


倒れた荷物を背後で庇いながら、盾と剣を握り直した。十数人の怒り狂った盗賊たち、そして気絶した仲間。


イヒョンの瞳が冷たく沈み、生き延びるための最後の計算を終えようとした、その時だった。


ブウウウッ——!


夜空を引き裂く重厚なラッパの音。


「うわあああああ!」


「捕まえろ! 盗賊だ! 一人も逃がすな!」


村の方角から、赤い松明の行列が川の流れのように押し寄せてきていた。数十本の松明を手にした衛兵と村人たち。彼らが長い蛇のように厩舎に向かって列を成して来ていた。


「く、くそっ! 衛兵だ!」


「逃げろ! 捕まったら終わりだ!」


怒りに燃えていた盗賊たちの顔が瞬く間に真っ白になった。


頼りにしていた頭目はすでに気絶して伸びている状況。援軍の猛烈な勢いに、わずかに残っていた戦意まで砕け散った。


「頭目は見捨てろ! とにかく逃げろ!」


義理など欠片もなかった。奴らは地面に倒れた頭目を見向きもせず、急いで馬に乗り込むか、武器だけを抱えて闇の中へと尻尾を巻いて消えていった。


ドドドドッ——


蹄の音が遠ざかり、濃い土埃だけが残された。イヒョンはそこで初めて盾を下ろし、長く息を吐き出した。張り詰めていた肩の筋肉が、安堵とともにほぐれていった。


「はあ……」


生き延びた。そして守り抜いた。馬も、命も、そして試験の資格も。


しばらくして、松明を手にした兵士たちが到着し、気絶した頭目を縛り上げて現場を収拾し始めた。騒がしい中でイヒョンは、地面に大の字になっているライルへと歩み寄った。


「ライルさん。起きてください。状況は終わりました」


イヒョンが足先でつつくと、ライルが感電したようにびくりとして目を開けた。


「うえっ……はっ! お、俺、死んでない?」


ライルは呆然と自分の手足を確かめてから、やがて泣き顔になって地面にへたり込んだ。


「兄貴……俺、漏らした。マジで漏らしたって……」


濡れた自分のズボンの裾を握りしめながら、しゃくり上げた。少し前まで頭目の顎の下へ短剣を突き込もうとしていたあの凄絶な人間は跡形もなく、ぐずぐずと泣きごとを言う臆病者へと完璧に戻り切っていた。


しかしイヒョンはその様子を笑わなかった。むしろその瞳は、深淵を覗き込むように、ライルをじっと見つめていた。


『ただの臆病者じゃない』


少し前のあの動き。理性が麻痺し、恐怖が極点に達したときに飛び出した、超人的な回避能力と致命的な攻撃性。それは訓練によって作られた技術の領域ではなかった。


感情が力になる世界。通常は複数の感情を利用してコルディウムを発現させる。その方向が肯定であれ否定であれ、『前進』しようとする意志が力の源だ。


しかしライルは違った。


『あの男のコルディウムは……恐怖だ』


恐怖が極限に達するほど、生きたいという渇望が暴走し、身体能力を強制的に引き上げるメカニズム。それがライル・ベルディアンという男が持つ力の正体である可能性が高かった。


臆病者だからこそ、死なない男。


イヒョンはズボンを掴んでめそめそ泣いているライルを見下ろしながら、確信した。この荷物のようなパートナーが、もしかするとこの任務における最も強力で危険な変数になるかもしれない、と。


「洗いに行きましょう」


「兄貴……その……臭い、ひどい?」


「さあ、どうでしょう」


イヒョンは淡々とライルの顔を見つめながら、手を差し伸べた。



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。



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