175. ハスケル
月明かりが森の道の上へ冷えびえと降り積もった。夜虫の鳴き声だけが満ちていた静寂を破ったのは、やはりライルだった。
彼は片時も口を休めなかった。おかげでイヒョンは忘れかけていた知識を改めて思い起こすことができた。
自由都市連合。
貴族の支配を拒み、商人たちが打ち立てた独自の勢力。表向きはエペリア王家と無関係に見えるが、実態は国王の黙認のもとに海賊や部族を管理する二面性を持つ土地。
ライルの故郷はそういう場所だった。
「昼間はさ、港全体が巨大な魚の鱗みたいにぎらぎら輝くんだよ。獲れたての魚の生臭さに鼻を突く香辛料の匂い、船乗りたちの荒っぽい怒鳴り声まで混ざったら、もう頭がおかしくなりそうでさ」
ライルが唇を鳴らし、虚空に向かって手を動かした。まるで目の前にその風景が広がっているような表情だった。
「あそこで潮風に吹かれながら飲む昼間の一杯は……くっ、マジで最高なんだよな」
夜空を見上げる彼の目が、郷愁で細くなった。しかしその夢見るような眼差しは、瞬時に沈んだ。
「まあ……それだけじゃないけどさ。光が強ければ影も濃くなるもんだから」
「影というと?」
イヒョンの問いに、ライルは苦々しく口の端を歪めた。
「日が落ちると港の裏路地は無法地帯になるんだ。密輸業者、賭博師、賞金稼ぎが入り乱れて、毎晩刃傷沙汰が起きるのは当たり前でさ。評議会の連中? 金さえ掴ませりゃ目をつぶるのに忙しいよ」
その声から軽さが抜け落ちた。
「俺もその泥沼の中でもがいてたら剣を握るようになったわけ。自由って言葉は聞こえはいいけど、自分の身一つ守れなけりゃ犬死にするのにうってつけの街だからな」
明るさと暗さが共存する街。それはライルという男と妙に重なって見えた。
一見、何も考えていない軽い喋り屋に見えるが、その裏には荒々しい生存本能と誰にも見せない傷が潜んでいる。
『ただの饒舌な男じゃなかったか』
イヒョンが改めて彼を評価しようとした瞬間、ライルが不意に顔を向けてイヒョンをじっと見つめた。
「だからかな、兄貴みたいにかっちりした王都の人間を見ると、ちょっと息苦しくなるんだよな。でも兄貴はなんか違う気がする」
「何が違うんですか?」
「なんか……最初は頭でっかちな堅物だと思ってたんだけど、さっきの歩き方とか目つきとか」
ライルがにやりと笑いながら、イヒョンの肩をぽんと叩いた。
「兄貴からは俺の地元の裏路地の匂いがするっていうか?」
それはライルなりの褒め言葉であり、仲間として認めるというサインだった。イヒョンはふっと笑いながら、肩についた埃をぱたぱたと払い落とした。
「褒め言葉として受け取っておきます」
2人の影が月明かりの下で長く伸びた。
他愛もない——いや、ライルの一方的なお喋りとともに、2人は西へと足を急がせた。
一晩中続いたお喋りと行軍。
その果てに、いつしか東の空が青みがかって明るくなり始めていた。
夜明けだった。
イヒョンは歩く速度を落とさないまま、懐から指令書と地図を取り出した。
隣から上がる悲鳴は、おまけだった。
「うあああ……兄貴! 人情として、もうちょっと休んでいこうよ、な? 俺の足が俺の足じゃなくなってきた!」
ライルが今にも死にそうな声を上げながら、とぼとぼとついてきた。一晩中1秒も口を休めずに喋り続けたのだから、体力が残っているはずもなかった。
イヒョンは彼の大げさな嘆きを軽く聞き流しながら、地図を広げた。
「まず決めなければなりません」
「決めるもなにも、俺はここからあと一歩でも歩いたらそのまま気絶しそう——」
「目的地は全部で5か所。ラティベルナ、エルノク、ブレサウン、ライレン、そしてドルメア」
イヒョンの指が地図の上を素早く指し示した。
もともと南部を最優先に考えていたが、パートナーができた以上、ルートについての合意が必要だった。
「まず南西の『ライレン』へ向かいます」
「……ライレン?」
死にかけていたライルの目がぱっと輝いた。
「そこ南じゃん! お、兄貴、気が変わったの? やっぱ南部の熱い太陽が恋しくなったんだろ? そうだろ?」
さっきまで足が千切れそうだと言っていた様子は跡形もなかった。単純なのはこういうときには長所だった。
イヒョンは首を振りながら、落ち着いた口調で説明を続けた。
「地理的に最も近い場所ではありませんが、ルートの効率を考えたとき最善です。ライレンを押さえてからその上の『ドルメア集落』を経由して、時計回りに北上します」
イヒョンの指先が地図の上に大きな円を描いた。
「こう動けばルートが交差しません」
「うーん、時計回りか。まあ難しいことはよくわからないけど、とにかく南に行くってことだよな? いいじゃん! 賛成! 大賛成!」
『南』という一言が、彼にとって最高級の回復薬も同然だった。
ライルが嬉しそうに口を開いた。
「ライレンか……悪くないな。ベリウム湾を抱えてて、アベル川が流れ込んでるところだよ」
「行ったことはありますか?」
「ガキの頃に一度? でも兄貴、先に言っとくけど、あそこに行って白い砂浜みたいなロマンスを期待しちゃダメだよ?」
「理由は?」
「砂浜じゃなくて一面の泥地なんだよ。干潟ってやつ」
ライルが足を持ち上げるような仕草をしながら、ぐちゃぐちゃという音を立てた。
「干満の差が半端なくて、引き潮のときは底が果てしなく露わになるんだ。だから大きな商船は入れなくて、漁船ばっかりうじゃうじゃしてる。ロマンスより生臭さが漂う場所って感じかな」
「漁業が発達した街ですね」
「そうそう。干潟で掘り出す貝とタコが絶品なんだよな。くっ、急に酒が飲みたくなってきた」
「酒は常に飲みたがっているんじゃなかったんですか」
「ははは、まあそうなんだけど、今は冷たいビールより布団が恋しいね」
イヒョンは地図を折りたたんでしまった。
『ライレンは物流の中心地ではなく、徹底した生活型の漁業都市のようだな』
情報は十分だった。イヒョンがリュックの紐を直した。
「方向は決まりました。ただ、歩いて行くには遠すぎます」
彼は人気のない道路を見渡した。食料と装備の補充、そして何より機動力が必要だった。
「ハスケル」
イヒョンが地図上の小さな村を指した。
王都カレオストラから南西に下る道の途中に位置する場所だった。
「ここで馬を買って整備を済ませましょう。歩き続けるのは非効率ですから」
「あ、それには全力で賛成。馬でも馬車でもなんでもいい。とにかく俺の足を休ませてくれ」
カレオストラを離れてまる3日。足の裏に水ぶくれができて潰れ、タコが固まり始めた頃、地平線の向こうにぼんやりとした村の輪郭が浮かび上がった。
国王直轄領の管理拠点、ハスケルだった。
「うおっ! やっと村だ! 文明だ、文明!」
ライルが歓声を上げながら駆け出した。しかしその興奮が失望に変わるのに、さほど時間はかからなかった。
近くで見たハスケルは、「国王直轄領」という大げさな看板が泣いて帰るような有様だった。
城壁? そんな贅沢はなかった。まばらに打ち込まれた腐った木柵だけが、かろうじてここが村であることを示していた。
おまけに検問所には、槍を抱えて涎まで垂らしながら居眠りしている衛兵が一人いるだけだった。2人がすぐ真ん前を通り過ぎても、彼はいびきをかくのに忙しかった。身分証の確認どころか、山賊の一団が押し入っても気づかないに違いなかった。
「……なんだよ、この拍子抜けな村。緊張感のかけらもないじゃないか」
ライルが口を尖らせて文句を言った。
「むしろ好都合です。余計な手続きなしに休めますから」
「兄貴はほんとポジティブだよな。俺はなんていうか、もっと賑やかで可愛い娘たちが行き交うような、そういう絵を期待してたんだけどな」
イヒョンは平然と受け流しながら、村の中へと向かった。通りは閑散どころか静寂そのもので、ちらほら見える住民たちの目には生気がなかった。
2人は村の中央にある古びた建物、『疲れた馬の休憩所』へと入った。
錆びついた蝶番が、きいっと鈍い音を立てて開いた。
扉を開けた瞬間、カビ臭さと食べ物の匂い、それから汗の臭いが混ざり合ってどっと押し寄せてきた。
「主人! ここで一番うまいやつを! あ、それとビール! キンキンに冷えたやつ!」
ライルは席に腰を下ろす前から声を張り上げた。数日間、干し肉のかけらで命をつないできた彼の胃袋は、ストライキを起こす寸前だった。
間もなく、湯気のたつ豚肉のシチューとざっくり切ったパン、そして泡が溢れんばかりのビールジョッキが、どすんとテーブルの上に置かれた。
「くっっ! これだよ、これ! 生きてる、生きてるぜ!」
ライルがジョッキを引っ掴むように持ち上げ、一息に飲み干した。
ごくっ、ごくっ。喉仏が激しく上下する音が生々しかった。
空になったジョッキをがつんと置いた彼が、口元の泡を拭いながら目を輝かせた。
「兄貴も一杯やろうよ! こんないい日に素面でいるのは罪だぞ、罪!」
「遠慮しておきます。まだ任務中ですから」
イヒョンはぬるま湯をちびちびと飲みながら丁重に断った。
「あーもう、融通きかないなあ。ほら見てよ。衛兵だって寝てるのに、誰が俺たちを監視するんだよ? こういうときこそ緊張をほぐすもんだろ」
ライルにとって試験などもはや眼中になかった。彼はシチューのスープにパンをたっぷり浸して口いっぱいに押し込みながら、手を挙げてビールのお代わりを叫んだ。
幸せそうなライルとは対照的に、イヒョンの目は静かに落ち着いていた。
彼は黙々とシチューをすくいながら、耳を開いた。
食器の触れ合う音、酔客たちの怒鳴り声、店員の忙しない足音。
居酒屋は情報の海だ。イヒョンはその雑音の中から、自分に必要な「単語」を拾い上げ始めた。
市場のような喧騒の中で、イヒョンの耳が特定の周波数を捉えた。隣のテーブル、農夫姿の老人が2人いた。
「馬の競り市、いつだっけか。今度入ってきたやつらは使えるかのう」
「2日後に開かれるそうだが、さてな。軍馬の納品で落ちたやつらだってから、力はあっても気性が荒いか、足を少し引きずるやつらだろうよ」
「それでも安値で出回るってんならありがたい話じゃわい。市が立ったらすぐ行って選ばんとな」
イヒョンのスプーンがぴたりと止まった。
『2日後。軍馬の競り市』
頭の中の計算が素早く回り出した。
ここからライレンまで徒歩で最低3週間。しかし馬に乗れば1週間から10日で踏破できる。
2日待って馬を手に入れたとしても、結果的には時間を稼ぐ取引だ。体力の温存はおまけとして。
『待つ方が得だ』
結論を出したイヒョンが顔を上げた。しかし目の前の状況は、すでに計算の範囲を超えていた。
「なあ……兄貴……ひっく。知ってるか? 俺たち自由都市の娘たちはさあ……瞳が海の色なんだよ……エメラルド……」
テーブルの上には空になったジョッキが5つも転がっていた。ライルの目はすでに据わっており、顔は熟れたトマトより赤かった。
「もう飲むのをやめなさい。酔ってます」
「あん? 酔ってない! 俺は……ライル・ベルディアンだぞ! 双剣のライル! この程度の酒で……びくともしない!」
ライルが虚空に腕を振り回しながら大声を張り上げた。周りの客たちが眉をひそめてちらちら見たが、いかんせん田舎の村なのか、「また酔っ払いか」とやり過ごす雰囲気だった。
イヒョンは深く息をついた。
『これは仲間じゃなくて荷物だな』
しかし試験が終わるまでは、この「荷物」を放り出すわけにもいかなかった。イヒョンが席を立った。
「立ちましょう。部屋を取りました」
「え? もう? 水臭いなあ……俺まだ飲むのに……」
「2日後に馬の市が開かれるそうです。それまで待機しなければならないので、今日はもう休んでおいた方がいいでしょう」
イヒョンはライルの脇に腕を差し込み、無理やり立ち上がらせた。ぐったりとした体は米俵より重かった。
「おっとっと! 世界が……回ってる? ぐるぐる……」
よろめく男を支えながら、軋む木の階段を上った。イヒョンの眉がわずかに寄った。
2階の隅の古びた部屋。イヒョンはライルをベッドの上にほとんど放り投げるようにして下ろした。
「うーん……お嬢さん……待っててね……」
ライルはベッドのシーツに顔を埋めたとまに鼾をかき始めた。イヒョンは大の字に転がる彼を見下ろしながら、首を横に振った。
『こんな体たらくで、どうやって1次試験を通過したんだ』
しかし思いのほか、こういった単純さがこの世界では強みになるかもしれないという気もした。雑念がないということでもあるから。
イヒョンは窓を開けて換気した。涼しい夜風が流れ込んでくると、部屋中に漂っていた酒の臭いが少し薄れた気がした。
2日。その間に装備を整え、この先の計画をさらに具体化しなければならない。そして何より、あの酔っ払いが問題を起こさないよう見張るのも仕事のうちだった。
イヒョンは椅子に腰を下ろし、手帳を取り出した。ハスケルののんびりとした午後が、そうして暮れていった。
窓の外は墨を流したように真っ暗だった。
部屋の中にはライルの規則正しい鼾の音が満ちていた。ときおり「へへ……お姉さん……」などという寝言が聞こえてきたが、イヒョンの神経は窓の外へと鋭く張り詰めていた。
『おかしい』
村の外れ、闇が濃く垂れ込めた野原の向こうで、光がゆらめいていた。最初は蛍か見間違いかと思った。しかしよく見ると、それは不規則な自然の光ではなかった。規則正しく動く松明の列だった。
1つや2つではない。ざっと見ても十数個、いやそれ以上。
イヒョンの目が細くなった。
『この時間に、あれだけの人数が松明を手に組織的に動いている?』
夜間の狩りでないことは明らかだった。
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