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158. 火炎

「この、クソ野郎がッ!」


鼓膜を破らんばかりの鋭い怒号が室内を激しく揺さぶった。エマの手が電光石火の勢いで伸びる。ライルが反応する暇もなかった。「ぐえっ!」という悲鳴と共に、彼女の掌がライルの胸ぐらを力任せに掴み上げた。


そして続いた光景は、その場の全員の予想を裏切るものだった。


ガタンッ、ドンッ!


椅子がけたたましい音を立てて後ろへ弾け飛び、エマが身を越した。


蹲っていた時には察することすらできなかった巨大な影が、一気に突き上がるかのようだった。ライルの胸ぐらを掴んで立ち上がった彼女の背丈は、優に二メートルを超えて見えた 。


無防備だったライルの上半身が、虚空へとひょいと吊り上げられる。まるで怒り狂った大人が子供を片手で持ち上げたかのような、圧倒的な力の差だった。ライルの両足が床から離れ、宙でぶらぶらと泳いだ。


室内のすべての視線が、その異様な光景に釘付けとなった。先ほどまでうつむいていた内気な乙女の姿は、どこにもなかった。そこに立っていたのは、瞳に火花を散らし、獲物を睨みつける猛獣に他ならなかった。頬を染めていたはずの恥じらいは、今や抑えきれない憤怒の炎となって燃え上がっている 。


胸ぐらを握るエマの指の節々は、血の気が引くほど白く強張っていた。彼女が腕を荒々しく振るたびに、ライルの縮れ毛が無残に散らばり、彼の視界を塞いだ 。ライルの目は溢れんばかりに見開かれ、口元に張り付いていた薄ら笑いは、そのまま剥製のように固まってしまった。青ざめた顔には恐怖と当惑がまざまざと浮かんでいたが、驚くべきことに、その不吉な口だけは止まらなかった。


「わ、わわっ? エ、エマさん! 落ち着いて! ぼ、僕が一体どんな大罪を犯したって言うんですか……! はは、それにしても、怒った瞳さえもなんて魅惑的なんだ。本当だよ! まるで雪原に咲く薔薇のように、棘のある姿の方がずっと美しいッ!」


ライルの口から、詭弁が滝のように溢れ出した。生き残るために本能的に飛び出す、阿諛追従だった。彼は息が詰まるような状況の中でも、どうにか事態を切り抜けようと必死に舌を回した 。


「ごめん! 僕が先走りすぎたみたいだ! でも、君みたいな美人を見たら、つい……。あ、心から謝るよ! だからこれ、ちょっと離して言葉で解決しましょう、ね? 雰囲気の最高な茶屋を知ってるんだ。そこでお茶でもどう? いや、夕食にしようか! カレオストラで一番高い店に案内するよ! 自分のすべてを懸けて!」


ライルはエマをなだめようと、胸ぐらを掴んでいる彼女の腕にそっと手を添えた。その瞬間、エマの眉が刃のように鋭く吊り上がった。部屋の空気は凍土の荒野のように、一瞬にして冷たく凍りついた。窓から差し込んでいたはずの温かな陽光さえも、鋭い氷の破片に姿を変えて肌を刺すかのようだった。


イヒョンはこの修羅場を鋭く注視しながら、状況を見極めていた 。


『……面白いな』


状況は極限へと向かっていたが、介入する者は誰もいなかった。髭面の男は徹底して無関心を装い、読んでいた本に顔を埋めた。窓際の男は腕組みを解くことなく、興味深げに二人を観察するのみだった。見えない壁が彼らの間を隔てていた。


単なる無関心ではない。これもまた試験の一部かもしれないという計算、そして下手に手を出して不利益を被ったり、厄介な事に巻き込まれたりすることを避けようとする警戒心が、全員の足を止めていた 。


エマが胸ぐらを掴んだ手を前後へ荒々しく揺さぶるたび、ライルの上半身は糸の切れた人形のように、なす術もなく激しく揺れ動いた。


「その汚い口を今すぐ閉じろ! 貴様ごときが、この私を愚弄するか! 私が甘く見えるのか? この、毛のない猿にも劣る出来損ないがッ!」


エマの咆哮が室内にびりびりと響き渡った。血のように赤い唇から吐き出される暴言は、鋭い矢尻となってライルを切り刻んだ。蒼白だった彼女の肌は、逆流する血で赤く火照り、燃え盛る瞳と胸ぐらに食い込む掌には、今すぐにでも男の息の根を止めてやるという殺気が宿っていた。


やがて、彼女の腕が弓の弦のようにしなやかに後ろへと引かれた。破壊的な一撃を放つための予備動作だ。ライルの顔色は、石灰の粉でも被ったかのように白く強張っていく。冷や汗に濡れた縮れ毛が額に薄汚く張り付いていたが、驚いたことに、その男の口は最後まで止まらなかった 。骨の髄まで染み付いた軟派者の本能は、死の瀬戸際にあっても首をもたげたのだ 。


「わあ、エマさん! 凄い力だ、力持ちだね! 全くファンタスティックだよ。南部の女たちだって君ほど熱くはなかったな! ははっ、本気だよ! 僕が悪かった、悪かったってば! でも、怒った姿があんまり刺激的で……あ、ぐえっ! お願い、一度だけ見逃してよ、ね? 僕が歌を歌ってあげる。南部のロマンチックな旋律に乗せてさ。憤れる乙女の心を溶かす歌なんて、どうだい?」


呼吸が詰まる状況でも絶え間なく続く囀りが、空気をさらに混濁させた。彼は自分の何が彼女を怒らせたのか、結局最後まで理解できていないのは明白だった。


エマの腕が限界まで引き絞られ、拳に凄まじい気迫が宿った。窓から差し込む陽光が彼女の拳を照らすと、奇妙な光彩が放たれた。それはおそらく、彼女のコールディウムであった 。


ライルは狼狽しながらも、どうにか微笑みを作ろうと必死だったが、瞳の奥底には隠しきれない恐怖が深く沈んでいた 。


イヒョンの頭脳は複雑に回転していた。彼はエマとライルの一挙一動を逃さず目に焼き付けた 。


『あの喋り野郎は、本当にただの旅人なのだろうか。それとも、この修羅場自体が我々を試すために仕組まれた高度な演出なのか』


疑念が連鎖し、イヒョンの視線はエマの拳の先へと向けられた。室内には嵐の前の重苦しい静寂が降りていた。


「エマさん、お願いだ! 止めてくれ。僕は……!」


ライルの最後の悲鳴が響き渡る直前のことだった。エマの拳が空気を切り裂き、砲弾のごとく放たれた。


まさにその瞬間。


バンッ!


会議室の扉が突風に煽られた木の葉のように跳ね飛ばされ、壁に叩きつけられた。鼓膜を打つ破裂音が室内を横切ると、ライルの鼻柱を粉砕しようとしていたエマの拳が、虚空でぴたりと止まった。部屋の中のすべての時間が凍りついた。


敷居を跨いで入ってきたのは、ライサだった 。端正に結ばれていたはずの金髪は乱れ、血の気の引いた顔は蒼白を通り越して透明にすら見えた。どれほど急いで駆けつけたのか、彼女はドアノブを掴んだまま激しく肩で息をしていた。ライサの瞳は焦点が定まらぬまま揺れ、室内を彷徨った。ドアノブを握りしめた指先が白く変わるほど力が入っている。彼女は溢れ出しそうな悲鳴を押し殺し、絞り出すように叫んだ。


「火事です! ギルド本部に火が出ました!」


ライサの切迫した叫びが響き渡った。


「皆様、避難してください! 早く!」


エマの拳は依然として空中で停止したままだった。だが、その腕は大きく後ろに引かれたままであり、ライルの胸ぐらを掴んだ指の節々には、今なお青白い血管が浮き出ていた。


部屋の中の空気が百八十度一変した。エマの殺気立った気勢にも微動だにしなかった男たちが、一斉に顔を上げライサを凝視した。


真っ先に反応したのは、赤銅色の肌をした旅人だった。 彼は迷うことなく席を立った。


「火元はどこだ? 消火を手伝おう。尻を捲って逃げ出すのは、俺の性に合わんでな」

彼の太い声に、ライサの顔色はさらに土色へと変わった。彼女の頬に濃い陰が落とされる。


「いいえ、危険です! 火は西館の方から燃え広がっています。 既に火防隊が向かっていますので、試験に来られた皆様はどうか避難を! 命が優先です!」


ライサは地団太を踏んで懇願したが、その切実な叫びさえも、全く通用しない場所があった。エマの視線は、ライサを煩わしい蝿でも追うかのように冷たく射抜いた。彼女には、ライルの胸ぐらを離す気など微塵もなさそうだった。 むしろ掴んだ手に一層の力を込め、ライルの上半身を鼻先までぐいと引き寄せた。宙に浮いたライルの体は、さながら嵐の中のかかしのように危うく揺れた。


「このゴミ野郎を床に叩き伏せるまでは、一歩も動かない。火が出ようが本部が崩れようが知ったことか。この野郎の息の根を止めるのが先だ」

エマの声は、飢えた獣の咆哮のように低く響いた。ライルの顔色は、もはや生きた人間のそれではない。エマの拳を追う瞳孔が、地震でも起きたかのように激しく揺れ動いた。 だが、その絶体絶命の瞬間においても、口に付いたモーターが止まることはなかった。


「エ、エマさん! 落ち着いて! 火事だよ、火事! 君の怒った姿が狂おしいほどセクシーで、僕の心に火をつけたのは分かってるけど、本物の火は危ないって! ぼ、僕が悪かった! 本当に! 君のような強くて素敵な女神に出会えたのは、僕の人生最高の幸運だったよ! ははっ、だから後で火が消えたら正式に謝るから。命懸けで約束する!」

ライルは卑屈な笑みを浮かべながら哀願した。 恐怖と追従が奇怪に混ざり合った、必死の生存本能だった。


部屋の中の光景は、奇妙なほどにバラバラだった。阿鼻叫喚の最中にあっても、頁を捲っていた髭面の放浪戦士は、この騒動のすべてを徹底して無視していた。 ライサの悲鳴、エマの罵倒、ライルの詭弁が入り混じる騒音の中でも、彼は再び頁へと視線を落とした。


スッ。


頁を捲る彼の指先は、不気味なほどに静かだった。あたかも独り別世界に悠々と浮いているかのように、彼は酷いまでの平온を保っていた。 イヒョンの目は、忙しく周囲を巡った。


「英雄気取りに、怒り抑制障害、口先だけの男、そして徹底した傍関者……」


選択の岐路だった。 闇雲に流されて逃げ出すか、あるいはこの状況を利用して点数を稼ぐか。頭の中で計算機が素早く回転した。だが、悩む時間は長くはなかった。何を選ぶにせよ、前提条件は一つだった。


『この泥沼を、まずは整理しなければならない』


イヒョンは判断を下した 。試験であろうと実戦であろうと、この場に集まった者たちは敵ではない。ライルの軽薄な口が災いを招きはしたが、結局は同じ目的を持つ同志であり、今後協力すべき旅人たちだ 。ここで焼け死なせたり、内分を起こさせたりするわけにはいかなかった。


「早く! 何をしているんですか!」


ライサの怒鳴り声が再び響き渡った 。ドアノブを握る彼女の指の節々は、血の気が引いて白く強張っている。


「試験なんてどうでもいい、命が一番でしょう! 炎が廊下まで迫っているんです! お願いです、早くこちらへ!」


その切実な悲鳴にも、エマは微動だにしなかった。彼女の耳には、ただライルの息の根を止めろという怒りの囁きだけが聞こえているようだった。


イヒョンが席から立ち上がった 。まずはあの時限爆弾を解体しなければ、次の段階へは進めない。


重く規則的な足音が、騒がしい室内を切り裂いて入り込んだ。鼻先まで迫った巨大な拳を見て死相を浮かべていたライルが、イヒョンを見つけた 。彼はまるで地獄の業火の中で救世主にでも出会ったかのように、目を見開いた。


「に、兄貴! 助けてくれ! 火事だって言ってるだろ! エマさんがこれを離してくれないんだ! ははっ、兄貴が助けてくれたら、僕が盛大に奢るからさ! なあ? エマさん、お願いだ……僕は焼け死にたくない! まだやりたいことが山ほどあるんだ!」


エマの目は依然として理性を失い、激しく燃え上がっていた。彼女の腕に太い筋が浮かび上がる。ついにライルの鼻柱を粉砕すべく、拳が虚空を裂いて殺到した。


タッ。


鈍い摩擦音が響いた。


ライルの顔を叩き潰す直前、虚空でエマの太い手首が止まった。イヒョンの手が、彼女の手首をひっ掴んだのだ 。


「そのくらいになさい。今はそんなことをしている場合ではないようですが」


イヒョンの低く冷ややかな声が、拳とライルの顔の間に割り込んだ。


瞬間、エマの首が不自然に傾いた。剥き出しの瞳には、明白な不快感と殺意が宿っていた。彼女は自分の腕を掴んだイヒョンを頭の先から爪先まで舐めるように見下ろすと、呆れたように鼻で笑った。


「はあ? あんた、何様?」


彼女は掴まれた腕を荒々しく振り払うと、イヒョンの方へと向き直った。圧倒的な体格差のせいで、巨大な影がイヒョンを飲み込むかのように覆いかぶさった。


「どこの馬の骨とも知れない、ひょろひょろの煮干し野郎が、よくもまあ臆面もなく他人のことに首を突っ込んでくれたわね」


吐き捨てる言葉には、棘どころか猛毒がたっぷりと塗られていた。


だが、イヒョンは眉一つ動かさなかった 。むしろ、燃え盛る彼女の瞳を真っ向から見据え、淡々と応じた 。


「まずはこの場を避けるべきではありませんか? 非がどちらにあるかは、後で問うても遅くはありません。ライルという男も、どこかへ逃げ出すようなタマではないでしょうし」


エマの眉がぴくりと動いた。


彼女は呆れ返ったように荒い鼻息を吐きながら、イヒョンの鼻先まで顔を近づけた。ひどく歪めた眉間の間に、不穏な気配が溢れ出した。


「あんた、この馬鹿な猿と同じで知能に欠陥でもあるの? それとも耳が腐ってるのかしら。私の手で殺されたくて、うずうずしてるってわけ?」



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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