151. 作戦会議
空気の中には血と汗の生臭さが染みついており、その隙間に薬草のほのかな香りが混じり合って、兵舎全体を重苦しく包み込んでいた。たった今手術を終えたばかりの兵士が、担架に乗せられてベッドへと運ばれる準備を整えている。
セリアナの視線が、白い布で覆われた机の上、横たわっている兵士の顔へと向けられた。蒼白な肌の上を、苦痛に歪んだ汗の雫が流れ落ちる。僅かに開いた唇からは荒い息が漏れていたが、兵士の瞳にはまだ生を諦めていない、粘り強い生命力が宿っていた。
その姿をじっと見つめていたセリアナは、ふと戦闘で重傷を負い、力尽きていった数多の兵士たちのことを思い出した。通常、治癒の儀式を受ける前に過多出血で命を落とすのが戦場の常識だったからだ。
しかし、目の前の負傷兵たちは違った。死の淵で必死に踏みとどまり、儀式を待つこの光景は、彼女の記憶のどこにもない、見慣れぬ、それでいて驚異的な姿であった。
まるで灰の中から咲いた花のように。死に対抗するその切実で美しい抵抗は、セリアナの心に深い印象を残した。
セイラが傍らに置かれた水桶に手を浸すと、赤い血が水の中で霧のように広がっていった。
セリアナは、コーディウムの力なしにこれほどの奇跡を成し遂げるセイラの姿に、強く惹きつけられた。 『ルメンティア』と呼ばれる存在が伝授した技術が、このすべての不可能を可能にしたに違いない。その事実に気づいた瞬間、セリアナの胸の内では好奇心が柔らかな炎のように燃え上がった。
「セイラ、そのルメンティアという御方のことだが……。一体どのような御方なのだ? お前にこれほど驚くべき技術を授けるとは。コーディウムもなしに、いかにしてこのようなことが可能なのだ?」
セイラは手を拭いていた手拭いを置き、セリアナを見上げた。その目元には疲労が滲んでいたが、瞳の中にはイヒョンへの深い尊敬が星のように輝いていた。
「その方の御名は、ソ・イヒョン様と仰います。私が死の危機に瀕していた時、救ってくださった方なのです。それ以来、尊敬を込めてあの方をルメンティアとお呼びしています」
セイラは手拭いを横に掛け、セリアナと視線を合わせた。
『イヒョン』という名を聞いた瞬間、セリアナの脳裏を作戦会議室での会話がかすめた。カシアンにフェルトゥスの対処法を教えたという人物と同一人物であると直感し、好奇心はさらに色濃くなった。
「私はそれからルメンティアに従い、知識と技術を学びました。最初は単純な憧れと好奇心だったのです。退屈で仕方のなかった小さな村で、あのような奇跡のような光景を目の当たりにしたのですから」
「奇跡、か……」
「はい。私の故郷セルノはとても小さな村で、治癒神殿すらありませんでした。神官様たちは、本当に必要な時には傍にいてくれなかった。そんな絶望的な状況で、ルメンティア様は自ら薬を調合し、輸液を作って人々を治療してくださったのです」
セリアナが再び周囲を見渡しながら答える。
「なるほど。私の目にも、今のこの状況は奇跡に近いものに見える」
「ルメンティア様はその後も数多くの人々を救われました。文字通り、世界を変えてしまうような出来事の連続でした。私が学んだことは、あの方が持つ知恵に比べれば、ほんの小さな欠片に過ぎません」
情熱を帯びたセイラの声に、頬が微かに上気した。
セリアナにとって『イヒョン』という男は、今や霧の中に隠された魅惑的な影のように感じられた。彼がいかなる存在なのか。なぜエフェリアに来たのか。そして、その驚異的な技術の根源はどこにあるのか。重苦しい空気が漂う兵舎の中で、彼女の心には新たな好奇心の波がうねり始めていた。
セリアナは一段トーンを落とした声で、傍らにいたシエラに尋ねた。
「シエラ卿、貴殿はこのイヒョンという人物について、どれほどのことを知っている? セイラの師だというが、一体何者なのか気になるな」
ずっと二人を見守っていたシエラが、柔らかな微笑みを浮かべて答えた。
「私も詳しい内情までは存じ上げませんが……。ただ、本当に素晴らしい方であることだけは確かです。エフェリア全土を探しても、彼に比肩する者を見つけるのは困難でしょう。彼の判断がなければ、カシアン公も私共も、これほど早くここへ到着することは叶わなかったはずです」
穏やかな口調ではあったが、シエラの瞳に宿る密かな尊敬の念は隠しきれなかった。セリアナはその言葉を聞き、胸の中の炎がさらに激しく燃え上がるのを感じた。まだ対面すらしていないイヒョンという男が、もしかするとエフェリアの運命を握る決定的な鍵かもしれないという予感が、彼女を捉えて離さなかった。
「セイラ卿、これからよろしくお願いしますね。必要なものがあれば、何なりと言ってください」
セリアナはセイラに向かって温かな微笑みを浮かべ、軽く会釈を返すと、臨時手術室の仕切り幕を跳ね上げて外へと出た。彼女は、傍らに付き従うシエラに再び問いかける。
「その方は、ここには来ていないのですか? これほどの技術を伝授した者がどのような姿をし、また、いかなる信念を抱いているのか……実に興味深いですね」
「残念ながら、今回は同行しておりません」
セリアナは兵舎の責任者へと視線を転じた。彼女の手招きに応じ、数歩離れた場所で控えていた責任者が慌てて駆け寄ってくる。
「セイラ卿が必要とするものは、すべて最大限に支援しなさい。薬草であれ、布であれ、あのガラス瓶であれ……何事も滞りなく準備するように」
セ리아나の断固としていながらも柔らかな指示に、責任者は深く頭を下げた。
「はっ、セリアナ様。仰せの通り、直ちに手配いたします」
セリアナは頷いて彼を下がらせると、シエラと共に兵舎を後にし、作戦会議室へと向かった。廊下には依然として微かな血の匂いが漂っていたが、彼女の心は、アチェラがこの巨大な危機を克服できるだろうという希望に揺れていた。
セリアナはシエラの横顔をちらりと盗み見ると, 胸の内から湧き上がる好奇心を抑えきれなくなった。自然と歩みを緩めた彼女は、声を潜めて尋ねる。
「シエラ、そのイヒョンという男に、ぜひ一度会ってみたいものです。セイラ卿の技術を見るに、彼の知恵がいかに深く広いものか、この目で確かめたいという思いに駆られますね」
言葉を紡ぐセリアナの瞳が、爛々と輝いた。シエラは彼女と歩幅を合わせながら、口元に薄い笑みを浮かべる。
「申し訳ございません。私も今、あの方がどこで何をされているのか正確には存じ上げないのです。私が知っているのは、冒険者二級試験のためにカレオストラへ発ったという事実だけです。……伯爵夫人、もしや作戦会議室で見かけませんでしたか? イアンという少年を」
「ええ、見かけました。緑の外套を羽織った、小さな少年でしょう?」
「その少年をここへ送り込んだ人物こそが、イヒョン卿なのです」
「……彼は、このような状況を予見していたというのですか?」
シエラが小さく笑って答えた。
「そこまでは、私にも分かりかねます。今は試験を受けていると聞いているだけで、具体的にどこで何をしているのかは、私自身も預かり知らぬことなのです」
その言葉を聞くと、セリアナの好奇心は波濤のようにさらに激しくうねり始めた。
「カレオストラでルミナール等級に挑戦するとは……。そのような挑戦自体、稀なことでしょうに。いつか彼がアチェラを訪れてくれると良いのですが」
シエラは静かに頷き、セリア나の後を追った。廊下の薄暗い灯火が、二人の影を長く伸ばす。戦火の緊張感の中にあっても、新たな可能性の種が静かに芽吹くような気配が、廊下の隅々まで染み渡っていった。
朝の陽光が作戦会議室の窓際に差し込み、卓上の地図に長く柔らかな影を落としていた。ヴァレリウス伯爵は地図上の要塞の位置を指先で軽く追いながら、マルチェロ司令官と共にアチェラの防衛線構築について議論を交わしていた。
「都市内部への敵の再侵입を防ぐためには、北門西側の絶壁の上を徹底して死守せねばならぬ。そこから北側の敵の動きを監視しつつ西側への迂回を遮断し、もし奴らが北門を通じて再び進撃してくるならば、弓兵たちが効果的に対応できるはずだ」
ヴァレリウスの声は低く、沈着に響き渡った。司令官は頷き、地図の上に新たな防衛線を書き入れて見せた。会議室の中は緊張感に満ちていたが、窓を越えて届く朝の光が、その重苦しさを僅かばかり和らげているようだった。
その時、扉が静かに開き、伯爵夫人セリアナとシエラが中へと入ってきた。セリアナの甲冑が陽光を浴びて眩しく輝き、その足取りはいつものように優雅でありながらも決意に満ちている。会議室に入った彼女の視線は、自然と卓上の地図へと向けられた。
ヴァレリウスが顔を上げ、夫人を迎えながら尋ねた。
「夫人、兵舎の状況はどうだったかな? あの子は、何をしていたのかね?」
セリアナは柔らかな微笑みを浮かべて卓へと歩み寄った。傍らに立つシエラもまた、静かに地図を見下ろして戦況を推し量る。
「セイラ卿のことでしょうか? 実に素晴らしい方でしたわ。詳しい話は後ほど。今は防衛線の構築が先決ですから」
兵舎を訪れた後のセリアナの声は、以前よりも一層柔らかく、温かな響きを帯びていた。その変化を察知したシエラが、慎重に議論に加わった。
「まずは残存兵力の正確な規模を把握する必要があるかと存じます、閣下」
シエラはマルチェロ司令官を真っ直ぐに見据えて問うた。
「現在、アチェラの残存部隊はどの程度でしょうか?」
マルチェロ司令官は腕を組み、顎に手を当ててしばし考えに沈んだ。やがて、彼が口を開く。
「歩兵は事実上の壊滅状態だ。近接歩兵、重歩兵、槍兵がそれぞれ一個中隊ずつ残っていると把握している。不幸中の幸いなのは、軽騎兵と重騎兵の二個小隊ほどが健全な戦力を維持している点だな」
「敵の規模が正確ではない以上、我らの援軍を合わせたとしても、依然として劣勢である可能性が高いでしょう」
シエラは地図をしばらく見つめ、深い思考に没頭した。やがてマルチェロ司令官を再び見つめ、問いかける。
「先ほど西側の迂回を監視すると仰いましたが、北側からの迂回経路は具体的にどのようになっているのですか?」
マルチェロ司令官は、北門の西側にそびえ立つ険しい岩山を指差した。
「敵が陣地を構築中なのは、北と西に分かれる分岐点の少し上だ。西側の山裾にある森を通過すれば、アチェラの西の城壁へと続く街道に出ることになる」
「……ならば、固定式の大砲は西の城壁に配置するのがよろしいかと。北の城壁は既に崩れており、騎兵の突進は困難でしょう。重歩兵と重騎兵は都市内部に陣地を築いて待機させ、西側には機動力に優れた部隊を投入すべきです」
「次の攻撃が西側から始まると見ているのか?」
「カシアン公がお戻りにならねば確信は持てませんが、現状ではその可能性が最も高いと判断いたします」
マルチェロ司令官は真剣な眼差しでシエラを注視し、再び問うた。
「その理由を聞かせてくれるか? 敵の騎兵隊は前回の市街戦で相当な打撃を被ったはずだ。既に壁の突破された北門へ再進撃してくる確率も、無視できぬのではないか?」
「私の考えは少し異なります。より正確に言えば、敵の本隊が西側に陣を敷いた後、北側との挟撃を試みる可能性が高いのです。これにはいくつかの理由があります。第一に、都市内部で消耗した敵兵力の大部分は狂戦士の部隊でした。騎兵隊も被害は受けましたが、主力は依然として健在でしょう」
「……第二の理由は何だ?」
「以前はアチェラが城門を中心に籠城していたため、敵は先鋒のみを投入して狭い北の城壁を狙ったのでしょう。しかし、今や本隊が動くとなれば、そのような狭隘な通路は避けたいはず。従って、展開するに十分な広さを持つ西側へ迂回する可能性が高いのです」
説明を聞いたマルチェロは、依然として疑念の残る表情でシエラを見つめた。
「卿の言う通り西の城壁に敵の本隊が現れるならば、機動力重視の部隊のみを配置するのは、かえって危険ではないか?」
「ですから、固定式の大砲を西の城壁に設置しようとしているのです」
「以前口にしていたあの大砲のことか? 果たしてそれだけで大軍を防ぎきれるものか、些か疑わしいな」
「説明するよりも、後ほど直接その威力をご覧になれば納得いただけるはずです」
シエラの自信に満ちた表情を見たマルチェロは、しばし苦慮した末、やがて頷いた。
「ふむ……分かった」
「さらに、私が敵の指揮官であれば、西の城壁に本隊を集結させて威勢を誇示した後、北門側へと機動隊を急派するでしょう。それこそが、私がこのような配置を提案した理由でもあります」
傍らで傾聴していたヴァレリウス伯爵が膝を叩き、感嘆の入り混じった声で口を開いた。
「流石だな! カシアン公がアチェラの防衛を全面的に任せるだけの人物だ!」
続けてヴァレリウス伯爵はマルチェロ司令官を振り返り、指示を下した。
「マルチェロ司令官、シエラ卿と協力し、直ちに都市の防衛線を再構築せよ」
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