150. 兵舎
マルチェロ・バレント司令官が一歩前へと踏み出した。
彼は中央に置かれた長机の上の地図を指先でなぞりながら、低く重みのある声で戦況を説明し始めた。
「現状を報告いたします。アチェラ内部に浸透した敵軍は、すべて制圧されたことを確認いたしました。現在、敵の主力部隊は北門から二マイル離れた地点に布陣しており、そこに奴らの指揮本部が置かれている可能性が高いと思われます」
カシアンは司令官の説明を傾聴しながら、地図に視線を固定した。鮮明に引かれた線と印を追うごとに、彼の頭の中では戦略が精緻に組み上げられていく。
「マルチェロ司令官、北門と繋がるこの道が、フェラドンへと続く唯一の通路ですか?」
「左様です。大規模な兵力が移動できる道は、ここしかございません」
マルチェロは地図を指していた手を止め、カシアンと視線を合わせた。その瞳には、戦場を渡り歩いてきた老練な光が宿っている。
「今頃、敵は計画が狂い混乱に陥っているはずです。早急に部隊を再編し、奴らの後方を突くのが上策かと」
カシアンの提案を聞いていたヴァレリウスが、ゆっくりと歩み寄り口を開いた。その声には、疲労と慙愧の念が滲んでいた。
「カシアン殿、現在の我らの兵力で反撃が可能か、甚だ疑わしい。……恥を忍んで申し上げれば、アチェラの主力はほぼ壊滅状態に等しいのだ。先ほどセリアナが率いてきた騎兵隊が、事実上の最後の戦力といえる」
カシアンはしばらく地図を睨みつけるように沈黙していたが、やがて顔を上げ、ヴァレリウスを見つめた。その瞳には、揺るぎない決意が結ばれている。
「ヴァレリウス閣下、アチェラ内部で防衛戦を繰り広げれば、地形の利はありましょうが、都市の被害は甚大なものとなります」
カシアンは再び地図へと視線を戻した。地図をなぞる彼の指先が、複雑な思考の軌跡を描いているかのようだった。
「単に攻勢を防ぎきるだけで終われば、戦の主導権は永遠に奴らの手に渡るでしょう。そのようなやり方では、決して勝利を掴むことはできません」
カシアンは机を突いた手に力を込め、上身を正した。ヴァレリウスとセリアナを交互に見据えるその佇まいには、確信に満ちた指導者の風格が漂っていた。
「今、奴らに息をつく暇を与えてはなりません」
「だが、北門から追撃したところで、敵の本陣に有効な打撃を与えられるというのか?」
「マルチェロ司令官、北門へ向かう道は、本当にこれ一つだけなのですか?」
「軍が機動できる通路は、それしかございません」
「『軍が利用できる道』……。それは、正確にはどういう意味ですか?」
「北門からフェラドンへ向かう経路のうち、騎兵が移動できるまともな道路は一つだけだという意味です。商人が利用する崖道や山の中の小道はございますが、軍用には不向きです。馬一頭が辛うじて通れるほどに狭い脇道ばかりですから」
「地図にも記されていない、そんな小さな道か……」
カシアンは顎に手を当て、深い思索に耽った。彼の頭の中で、新たな戦略の輪郭がゆっくりと形を成し始めていた。
その時、傍らで静かに状況を見守っていたセイラが, 慎重ながらも忠誠心のこもった声で控えめに口を開いた。
「カシアン殿、まずは偵察から始められてはいかがでしょうか。敵主力の規模も不透明で、地形も馴染みがない以上、先んじての偵察こそが最も安全な選択かと存じます」
「お前の言う通りだ。この目で直接確かめるのが得策だろうな。マルチェロ司令官、その脇道を案内してもらえるか?」
「もちろんでございます。副官! この地の地理に明るい兵を直ちに連れてまいれ!」
マルチェロの指示を受け、副官が急ぎ会議室を後にした。カシアンはセイラを振り返り、柔らかくも断호な口調で告げた。
「俺が戻るまでの間、アチェラ城の守備を頼む」
「カシアン殿、私も同行いたします」
「その必要はない。お前は城に残り、砲台の配置と万が一の敵襲に備えてくれ」
「……ならば、部下たちを遣わして偵察させてはいかがですか?」
「だめだ。平時ならいざ知らず、今の俺たちは戦力で劣っている。俺が自ら出向き、正確な状況を把握せねばならん」
「ですが、伯爵閣下からの言いつけもございますし、私が必ずやお側でお守りしなければ……」
「はははっ、案ずるな。俺が信じられないのか? 父上も年を召されて、近頃はどうにも心配性が過ぎるようだ」
セイラは深い憂慮を湛えた瞳でカシアンを真っ直ぐに見据え、言葉を継いだ。
「殿を不信に思っているのではありません。ただ、フルヴェラで目撃したあの怪物どもが混じっているのだとしたら……」
「フェルトゥスのことなら、イヒョンに対処法を聞いてある。そう心配するな」
二人の会話を耳にしていたセリアナもまた、案じるような視線をカシアンに向け、一言添えた。
「カシアン、慎重にならねばいけませんよ。アチェラの軍とて決して弱くはなかった。ですが、あやつらは我らの予想を超越する力を持っていました。単なる海賊や野盗の類だと高を括っては、手痛いしっぺ返しを食らいますよ」
カシアンはセリアナの懸念に対し、自信に満ちた笑みを返した。
「ありがとうございます、叔母様。ですがご心配なく。瞬く間に戻ってまいります」
セイラは依然として不安げな様子で、会議室を出ていくカシアンの後ろ姿を見送った。心の片隅で、不吉な予感がじわじわと鎌首をもたげていた。
「今は、あの子の判断に従うほかないようですね……」
セリアナは会議室の中をゆっくりと見渡し、シエラで視線を止めた。その瞳には好奇心と、わずかな警戒心が混じり合っている。
「シエラ、とおっしゃいましたか?」
「はい、その通りでございます」
「よろしくお願いします。……ところで、先ほどあんなに急いで部屋を出ていったあの子は、今どこに?」
セリア나の問いに、傍らにいた副官が恭しく答えた。
「セイラ卿なら、今は兵舎で負傷者たちの手当てに当たっております」
「治癒神官たちは一体何をしているのです。手が足りないのですか?」
「神官の方々も治癒の儀式を執り行ってはおりますが、負傷者があまりに多く、人手が全く追いつかない状況でして……」
セリアナの顔にわずかな苛立ちが過ぎると、シエラが柔らかな微笑みを浮かべて歩み寄った。
「セリアナ伯爵夫人、直接足を運んで確かめてみてはいかがでしょうか。一度ご覧になれば、きっとお心も休まるかと存じます」
セリアナはしばし考え込み、ヴァレリウスをちらりと盗み見ては、小さく微笑んだ。そうして、シエラと並んで会議室を後にした。
副官の案内に従い兵舎に足を踏み入れたセリアナの視界に、衝撃的な光景が広がった。
空気中には生臭い血の匂いと、鼻を突く薬草の香りが入り混じり、いたる所から漏れる低い呻き声が鼓膜を刺す。苦痛に身を悶えさせながら横たわる負傷者たちの姿に、彼女の胸は鉛のように重く沈んだ。
『これが、戦争の真の姿なのね……』
セリアナは心の中で呟きながら、兵舎の内部を注視した。本来ならば訓練の怒号と熱気に包まれているはずのこの場所は、今や苦悶の呻きと溜息に支配されている。重く淀んだ空気のせいで、呼吸をすることさえままならないほどだった。
兵舎の一角には、急造の病室が設けられていた。兵士の宿舎を改装したその空間には木製のベッドが隙間なく並び、窓から差し込む朝陽に照らされて、埃が乱舞している。凄惨な戦闘の渦中にあっても無事だった兵士たちは、秩序を保ちながら忙しなく動き、負傷者たちの様子を窺っていた。
病室の中央には、負傷者たちが整연と寝かされていた。彼らの顔色は青白く、額には脂汗がびっしりと浮いていたが、セリアナの目には、彼らの中に未だ消えぬ生命の残り火が感じられた。
「セ、セリアナ様! このような場所に一体……。私がご案内いたします!」
兵舎の責任者が慌てて駆け寄り、膝をついた。疲労の色は隠せなかったが、その瞳だけは不屈の意志でぎらついていた。その視線を受け止めたセリアナは、柔らかな微笑を浮かべて手を挙げ、彼を制した。
「構いません。セイラという子がこちらにいると伺ったのだけれど……」
彼女の声は低かったが、周囲を圧倒する威厳が宿っていた。責任者は静かに立ち上がると、兵舎の片隅を指し示した。
「セイラ卿はあちらで負傷兵の看病に当たっておられます。正確にどのような処置をされているのか我々には分かりかねますが、『手術』というものを行っている最中のようです」
「シュジュツ……?」
「はい。今は腕を欠損した兵士の手術中だとのことです」
『手術ですって……? 腕を切り落とされた人間を、生かすことができるというの?』
セリアナは疑念を抱きつつ周囲を見渡した。セイラが連れてきたと思しき者たちが、慌ただしく動きながら兵士たちに指示を飛ばしている。傷口に布を巻く手つきは細やかでいて、恐ろしく速い。誰かはガラス瓶に入った淡い黄色の液体を兵士の腕へと繋いでいた。その未知なる光景に、セリアナの鼓動は早まった。
彼女は高鳴る胸を抑えながら、白い布で囲われた仕切りの方へと足を向けた。
「こっち! 止血帯をもっと締めて。出血が止まらなければ縫合できないわ!」
仕切りの向こうから、セイラの鋭い声が響いてきた。セリアナが足を止め、シエラを盗み見ると、シエラは小さく頷いて入り口を指し示した。
「お入りください。彼女、相当に集中しているようですから」
シエラの物言いは冷静だったが、その瞳にはセイラに対する深い信頼と敬意が滲んでいた。セリアナは慎重に布をめくり、中へと足を踏み入れた。
臨時手術室の中は, 戦場の残酷さがそのまま移されたかのようだった。ランプの薄暗い光が血の匂いと混ざり合い, 奇怪に揺らめいている。床には血痕が乱雑に散らばり, 苦痛を押し殺す兵士の呻きが空気を重く押し潰していた。
セイラは金属製の鉗子と鋏を握り, 切断された腕の患部を覗き込みながら血管を探索していた。向かい側では, 白い布で口元を覆った金髪の青年が彼女を補佐している。
「セルヴァン, クランプ準備! 出血が続けば縫合が難しくなるわ」
セイラの声は, 鋭い刃のように空気を切り裂いた。セルヴァンが急いでクランプを差し出すと, セイラは傷口の中へと手を差し入れ, 慎重に何かを掴んだ。クランプが固定された瞬間, 噴き出していた血が止まり, セイラの口から短い安堵の吐息が漏れた。
セルヴァンの額に浮かんだ汗の雫が, 頬を伝って流れ落ちる。
「血管の末端が見えます, マスター」
「縫合が終わるまで維持して。止血帯は徐々に緩めるのよ」
彼女は持針器を繊細に動かし, 断裂した血管を繋ぎ合わせ始めた。
「よし, 止血帯をゆっくり解いてみて」
「はい, マスター」
「ふぅ……止血はできたわ。次の段階に移りましょう」
傷の中に残った汚染組織は, 腐った葉のように黒ずんでいた。セイラは鋏で壊死した組織を迅速に切り取っていく。組織を裁つサリサリという音と, 兵士の抑え込まれた呻きだけが空間を埋めた。セルヴァンはガーゼで絶えず血を拭いながら, 歩調を合わせる。
「死んだ組織は, この程度で十分でしょうか?」
「ええ, これ以上除去すれば骨に触れてしまうわ。このくらいでいい。……皮膚を閉じましょう」
針の先に繋がれた縫合糸が引かれると, 開いていた皮膚が徐々に噛み合い始めた。セイラは針跡がずれないよう細心の注意を払い, 糸が固く固定されるたびに, 傷口はあるべき場所へと戻っていった。手術室の緊張が緩やかに緩和され, 兵士の呼吸も次第に安定を取り戻していく。
「セルヴァン, これで終わりよ」
セイラの指示に, セルヴァンが結び目を作りながら微かな笑みを浮かべた。
「すぐに次の患者を準備しましょうか?」
そこでようやく額の汗を拭いながら顔を上げたセルヴァンは, セイラの後ろに立つセリアナを見つけ, ギョッとして頭を下げた。
「せ, セリアナ伯爵夫人! 失礼いたしました。ご挨拶もできず申し訳ございません」
セイラもまた, 狼狽した様子で振り返った。
「あ, 伯爵夫人! おいでになっていたとは知らず……。このような場所に一体……」
「ふむ……セイラ, と言ったかしら?」
セリアナが柔らかな声で彼女を呼んだ。セイラは顔を上げ, 驚きに満ちた眼差しで彼女を見つめた。
「はい, 伯爵夫人。先ほどは会議室で無礼な振る舞いをしてしまい, 本当に申し訳ありません。状況があまりに切迫していたもので, つい……」
「構わない。お前がしていることが正確には何なのかは分からぬが, 我が街の民や兵士を救うために献身していることだけは、はっきりと理解できた。……よほど並外れたコルディウムの持ち主のようだな?」
セリアナの称賛に, セイラの頬がわずかに赤らんだ。彼女は静かに首を横に振り, 答えた。
「いいえ。私はコルディウムを使うことができません。これはすべて, ルーメンティア様のご指導のおかげです。私はまだまだ未熟者……。この兵士たちは結局, 神殿へと運ばれ治癒の儀式を受けねばなりません。私にできるのは, それまでの間, 彼らの命を繋ぎ止めておくだけなのです」
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