149. 曙光
ハルベンが持つニコリアから立ち上る煙だけが、静寂を切り裂きながらゆっくりと広がっていった。濃い煙草の香りが染み付いたその煙は、二人の間に流れる沈黙をいっそう重く、濃密なものへと変えていた。
イヒョンはハルベンの瞳を真っ向から見据え、静かに口を開いた。
「ギルド長。私がルミナール級の試験を申請したのは、単なる好奇心や権力への渇望からではありません」
「誰しも、相応の事情というものはあるものだ」
ハルベンは口髭を優しく撫でながら、イヒョンの顔をじっと覗き込んだ。その眼差しには、妙な好奇心と共に、長年の風雪を耐え抜いて築かれた老練な知恵が宿っていた。
「私は、故郷へ帰るためにこの道を選びました。そして私の故郷は、ここエフェリアではありません。私自身も、正確な理由は分かりませんが……」
イヒョンは自分がエフェリアに堕ちた奇妙な経緯から、これまで切り抜けてきた険しい旅路を、淡々と打ち明けた。一言、一言を噛み締めるような彼の声は、低く重厚に執務室の中を震わせた。
ハルベンは口髭をゆっくりと撫で上げながら、黙々と耳を傾けていた。話が続くにつれ、彼の眉がわずかに跳ね上がり、眉間の皺は次第に深まっていく。やがて彼はニコリアを灰皿に押し付けて火を消すと、腕を組んで深く首を垂れた。深い大河のように静かな思索に耽っているようだった。
しばらくして、顔を上げたハルベンの低く重みのある声が、部屋を満たした。
「……つまり君の言い分は、『地球』という元の世界へ帰るために冒険者ランクが必要だ、ということだな。だが、今になってその試験が予想だにしない危険に満ちていることを悟った。それでも退くわけにはいかんから、ルミナールになるために私に助力を請う、と……そういうことか?」
イヒョンはハルベンの鋭い視線を逸らすことなく、正面から受け止めた。その瞳の中には、折れることのない意志が炎のように燃え盛っている。
「はい、その通りです。ギルド長のお話を伺って一瞬たじろいだのも、申請自体を諦めたいと思ったのも事実です。ですが……私はその責任から逃げ出しはしません。いいえ、目を逸らさないと決めました」
イヒョンは軽く息を整えて言葉を継いだ。その声には、さらに硬質な決意が滲んでいた。
「試験が容易ではないこと、そしてその先にさらなる苛烈な試練が待ち受けていることも、今は理解しています。ですが、今はただ前へと進むのみです。何より、私を信じてここまでついてきてくれた仲間たちがいます。私にとっては血を分けた家族も同然の、大切な人々です。彼女たちがこの地に根を下ろせるよう取り計らってくださったエッセンビア伯爵を、裏切るつもりもありません」
ハルベンの視線がイヒョンを掠め、窓の外へと向けられた。朝陽に反射した街の情景が、眩しく揺らめいている。彼は指先で肘掛けを軽くトントンと叩き、深い苦悩に沈んだ。
室内に残るニコリアの煙が、彼の吐息に合わせて微かに揺れた。その煙が、二人の間の張り詰めた緊張感を代弁しているようだった。ついにイヒョンの瞳を再び見据えたハルベンが、頷きながら口を開いた。
「ふむ……相分かった。それほどの覚悟があるというのなら……君の訓練、私が引き受けよう。だが、やり方は少し考えさせてもらうぞ。数多の弟子を育ててきたが、君のようなケースを導いた経験はないからな。既に成長を終えた身体で若者の修行法をなぞるのは、逆流する川を遡る舟のように過酷な道となるだろうが……」
イヒョンはソファから立ち上がり、ハルベンに向かって深く頭を下げた。
「感謝いたします、ギルド長」
心からの敬意を込めて礼を尽くすイヒョンを見て、ハルベンの眉がぴくりと動いた。彼の口元に、微かな笑みが過る。長年、数えきれないほどの冒険者を見守ってきた老兵にとって、この若者が見せる淡白で、それでいて非の打ち所のない礼節は、ひどく新鮮に映った。
「訓練を始める前に、まずは君の実力がどの程度のものか把握するのが先決だな」
ハルベンは机に肘をつき、余裕のある態度でイヒョンと向かい合った。その低い声には、ベテラン特有の重みが宿っている。
「冒険者として身につけるべき必須技術には、どのようなものがあると思うかね?」
イヒョンはしばし顎に手を当てて考え込み、慎重に口を開いた。
「生存術と、戦闘技術……といったところでしょうか」
「それ以外には?」
「うむ……」
「やはりそう来るか。訓練のカリキュラムはもう少し練る必要があるが、まずは必要なものをざっと挙げておこう。君の言う通り、生存と戦闘は基本だ。だが、それが全てではない。情報の収集と分析、隠密による潜入、外交的手腕のための礼法、交渉能力、そして各地域の風習や文化に対する深い理解も必須だ。ここに雑多な学問と実용的な技術知識まで加われば、今から三ヶ月間、昼夜を問わず没頭したとしても、その全てを修得するのは不可能に近い」
ハルベンは背筋を伸ばし、椅子からゆっくりと立ち上がった。その動きは老練な冒険者らしく、無駄がなく滑らかだ。執務室の空気がわずかに重さを増し、これから始まる道程が決して生易しいものではないことを予告しているようだった。
「では、君が最も自信を持って扱える武器は何だ?」
「……皆無だと思っていただいて、相違ありません」
ハルベンは今更驚くほどのことでもないと言わんばかりに、軽く肩をすくめて言葉を継いだ。
「冒険者に推奨される武器としては、片手剣と盾、短剣、杖、そして弓といったところがある。これらは携帯性に優れ、必要とあらば隠し持つにも都合がいい。特に弓は必須アイテムだ。食料が尽きて狩りをする時や、多数の敵を牽制せねばならぬ状況で大きな力を発揮するからな」
ハルベンは事務室の一角に置かれた飾り棚へと、大股で歩み寄った。扉を開けると、細かな埃が陽光の中で舞い上がる。彼は中を検めながら、低く呟いた。
「どれ……色々とあるが……よっこらしょ、と」
ハルベンは棚から三フィートほどの長さの剣と盾を取り出し、机の上に置いた。剣身が微かに光を反射し、積み重ねられた歳月の名残を露わにしている。
「これは私が愛用している片手剣だ。私にとって最も馴染み深い武器でね。片手で自在に振り回しやすく、盾と組み合わせれば攻守のバランスが極めて良くなる。もちろん、他の武器に比べて取っつきやすいという意味であって、修得まで容易だというわけでは決してない。まともに扱うには、相応の努力が必要になるだろうよ」
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フェラズがモルカインを掴み、闇の中へと退くと、地平線の彼方から顔を出した太陽がアチェラの患部を一枚ずつ剥ぎ取り始めた。
無慈悲な陽光は都市の引き裂かれた傷跡を赤裸々に舐め回し、血生臭さが充満する廃墟の上に黄金色の祝福を注ぎ込むという, 奇怪な光景を演出していた。
北門から城塞へと伸びる大通りは灰色の煤煙に沈み、血に染まった礫道を露わにしている。車輪が外れてひっくり返った馬車の残骸が路地を塞ぎ、石の隙間に溜まったどす黒い血痕は、暁光を受けて宝石のように不気味な光を放っていた。
空気は鉛のように重い。焼け焦げた木材の煤けた匂いと, 焼かれた肉の鼻を突く獣臭が混ざり合い、呼吸をするたびに喉の奥を荒々しく掻きむしった。広場の中心、首の折れた石像が守る噴水には、澄んだ水の代わりに粘りつく鮮血が満ちている。その周囲に転がる死体は無残に折れ曲がったまま硬直し、焦点を失って天を仰ぐ瞳の奥には、吐き出せなかった恐怖が凝り固まっていた。
アチェラは、都市全体が呻いていた。
黒く煤けた壁、鋭い破片と化した窓ガラス、崩れ落ちた屋根の残骸が通りを埋め尽くしている。足を踏み出すたびに砕けた瓦が悲鳴を上げるように軋み、その振動で血に汚れた埃が宙に舞った。
遠くから風に乗って、細い呻き声が時折聞こえてくる。葉一枚残らず炭の塊となった広場の街路樹の下で、主を失った刃たちが冷たい夜明けの光を反射し、最期の殺気を放っていた。
アチェラ城塞の作戦会議室。壁に掲げられた松明がパチパチとはぜ、揺らめく影が張り詰めた緊張感をいっそう引き立てている。
「セリアナ叔母様、彼女たちと共に戦えば、どんな敵も退けることができるはずです」
カシアンはセリアナとヴァレリウスに、共に歩んできた歴戦の英雄たちを紹介し、自信に満ちた笑みを浮かべた。その声には深い確信が宿っている。
「シエラと申します。ヴァレリウス伯爵閣下にご挨拶申し上げます」
シエラは恭しく頭を下げて礼を尽くした。その佇まいには、どこまでも落ち着いた気品と礼節が漂っている。
「セイラと申します。閣下にお目にかかれて光栄です」
セイラもまた、淑やかに挨拶を交わした。
「あ……あの、イアンです」
イアンが気圧されたようにたじろぎながら挨拶をすると、ヴァレリウスとセリアナはカシアンに倣い、彼らへ向けて温かな微笑みを送った。
「本当に感謝する。貴殿たちが現れなければ、アチェラは既に灰燼に帰していただろう。この恩は決して忘れぬ」
セリアナも頷き、言葉を添えた。
「共に戦ってくれた勇気に、心から感謝します。これからも皆で力を合わせ、この街を守り抜きましょう」
ヴァレリウスの言葉が終わるか終わらぬかのうちに、セイラが不意に一歩前へと踏み出した。
「閣下、無礼を承知で申し上げますが、現在は一刻を争う状況にございます。……先に失礼してもよろしいでしょうか?」
ヴァレリウスとセリアナは、驚きに目を見開いた。
「あ……いや、それは……」
いくら援軍として到着したとはいえ、伯爵との初謁見の場で自ら退室を願い出るのは、あまりにも作法に欠ける振る舞いだった。
しかし、カシアンは既に慣れっこだという様子でセイラを見やり、軽く頷いた。セイラはアルゲントール伯爵夫妻とカシアンに深く一礼すると、足早に会議室を後にした。切迫した足音が、閉まる扉の向こうで長く尾を引いた。
ヴァレリウスとセリアナは困惑した表情で顔を見合わせていたが、やがてカシアンへと視線を戻した。
「カシアン、あの子にはもう少し作法を教えねばならんな。いかに戦場とはいえ、最低限の礼儀というものがある」
「はははっ! 叔母様、まずは落ち着いて私の話を聞いてください」
カシアンの豪快な笑い声が室内に響いた。彼は余裕のある態度で説明を続ける。
「あの子こそ、死にゆくアチェラの兵士と市民を救う、真の救世主なのです。我々は彼女を『アルス・メディカ(Ars Medica)』と呼んでいます」
「アルス・メディカ? 一体どういう意味だ、カシアン」
セリアナは聞き慣れない言葉に首を傾げ、カシアンを見つめた。その瞳には好奇心の色が濃く滲んでいる。
「あの子は治癒の儀式も聖なる祈りも介さず、ただ純粋な『技術』のみで人を活かします。直接ご覧になれば、すぐにお分かりいただけるでしょう。今は負傷者たちの命が危うい状況ゆえ、一刻も早く現場へ向かわせたのです。閣下、どうか寛大なご処置を」
カシアンの説明は依然として謎めいていたが、ヴァレリウス夫妻は彼が法螺を吹くような男ではないと知っていたため、それ以上は追及しなかった。代わりに、雰囲気を変えるようにヴァレリウスが声を潜めて尋ねた。
「カシアン殿、広場に現れたあの青い霧は一体何なのだ? 生涯、数多のコルディウムを見てきたが、あのような力は聞いたことも見たこともない」
カシアンはシエラの傍らにぴったりと寄り添っているイアンをちらりと盗み見て、こう答えた。
「あの霧は、まさにあの子の力です。私自身、直接目にするまでは信じられませんでしたが……イアンのコルディウムは、空間の制約を飛び越える能力を秘めているのです」
「空間を飛び越える力だと……?」
セリアナの声に驚愕が混じった。彼女の眉が、信じられないと言わんばかりに高く跳ね上がる。
「はははっ。叔母様、あの子の力がなければ、バセテロンからここまでこれほど迅速に到着することは不可能だったでしょう」
「バセテロンから直通で来たと申すのか? 正に、そのようなことが可能だというのか」
「ええ、事実です」
カシアンはイアンを見つめ、満足げな笑みを浮かべた。彼の視線はセリアナとヴァレリウスを交互に捉える。
「同時に、命を懸けて保護すべき子でもあります。もしあの能力が敵の手に渡れば、大陸全土に取り返しのつかない災厄が降りかかるでしょうから」
「……もっと具体的に説明しなさい」
セリアナが急かすように問うた。その佇まいには、王族特有の重厚さと威厳が滲み出ている。
「シエラの指導の下、イアンの技術を磨いてまいりましたが、まだ完璧ではありません。恐怖のような強烈な感情を媒体として、次元の門を開くようですね。大規模な兵力を移動させたのは今回が初めてですが、ご覧の通り、結果は成功と言えるでしょう?」
「今ここにいる兵たちが、バセテロンからあの青い霧を通って、瞬時に渡ってきたというのか」
「ええ、その通りです」
「説明を聞いても、いまだに信じられぬな。……何にせよ、敵が完全に退いたわけではない。早急に対策を講じねば」
「はははっ、ご心配なく。我らが工兵部隊が、既にその対策を練っている最中です」
カシアンは依然として余裕の笑みを浮かべたまま、会議室の窓の外を眺めた。その瞳には、揺るぎない自信が満ち溢れている。セリアナとヴァ레리ウスの視線も、自然と彼を追って窓の外へと向けられた。
雄大な山脈の向こうから昇った陽光が、アチェラ全域を照らし出していた。無残に崩れ落ちた広場と北部地区、血の色に染まった大通りが、伯爵夫妻の目に悲劇的な鮮明さで刻印される。一晩中繰り広げられた血戦の残像が、生々しく蘇るかのようだった。
だが、大通りに沿って北門へと続く地点に、見慣れぬ「代物」が設置されつつあった。重厚な鉄の塊たちが、朝陽を浴びて冷ややかにギラついている。
「報告によれば、北門は既に完全に崩壊し、城門としての用を成さなくなっています。そこで、あの『大砲』たちを城塞周辺に戦略的に配置する計画です」
「カシアン殿、あの奇怪な代物は一体何なのだ?」
ヴァレリウスの声に、好奇心と警戒心が入り混じった。
「父上は『トニトルス・レクス(Tonitruus Rex)』――雷鳴の王と名付けられました。開発者は単に『大砲』と呼んでいるようですが」
「雷鳴の王……。あの鉄の塊が、その名に相応しい威力を発揮するというのか?」
「あの怪物が火を吹くような事態にならぬことを願うばかりですが……もし実戦に投入されれば、巨大な戦艦とて沈没を免れることはできないでしょう。……閣下、そろそろ戦況の詳細な情報が必要です」
カシアンが真剣な面持ちで言葉を締めくくると、その顔から悪戯っぽい笑みが消えた。
「あ、ああ、そうだったな。――司令官!」
ヴァレリウスは即座にマルチェロ・バレントを呼んだ。会議室内の空気が、再び張り詰めた緊張感に塗り替えられる。
「カシアン、こちらはアチェラの守備を担うマルチェロ司令官だ。現在、この状況を最も正確に把握している男だ」
マルチェロ司令官はカシアンに対し、軍人らしい厳格さと節度の感じられる姿勢で丁重に礼を尽くした。
「司令官、まずは現在の戦況について詳細なブ리핑を願いたい」
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