145. 月明かり
バセテロンの夜空は、漆黒のベルベットの上に散りばめられたダイヤモンドのように、玲瓏な輝きを放っていた。
晩冬の鋭い風が、初春の物だるい吐息へと移り変わる季節。闇は街の静かな屋根の上へと降り立ち, すべてを慈しむように包み込んでいる。
『月光の庭園』の店内は、その名の通り、淡い月光を纏ったような照明がテーブルごとに柔らかな光輪を描いていた。甘美な弦楽器の旋律がシルクのように滑り込んでは空間の隙間を満たし、まるで月と星が直接ささやき合うかのような、幻想的な空気が漂っている。
テーブルの上では、焼き立てのパンの香ばしさがハーブの香りと溶け合い、食欲をそそる。こんがりと焼き上げられた仔牛のステーキは、溢れんばかりの肉汁を蓄えて深い風味を醸し出し、赤ワインの満たされたクリスタルグラスは、微かな灯りの中で宝石のように優雅に煌めいていた。
「ぷはっ……! はぁ……」
ワインを一気に煽るように飲み干したセイラが、カツンと音を立ててグラスを置き、深い溜息をついた。
窓際に座るリセラは、外を彩る星光を背にしながら、セイラの瞳を優しく見つめている。母の隣にぴったりと寄り添って座るエレンは、小さな手でパンを少しずつ千切って口に運びながら、興味津々な様子で周囲の美しい景色を楽しんでいた。
セイラは下唇を軽く噛んだ。
「お姉様、正直……ルメンティア様があんな風におっしゃるなんて思いませんでした。カレオストラへ一人で行かれるだなんて。あの長い道のりを、あんなに危険な旅を、なぜあえて一人で行こうとなさるのですか? なぜ、私たちを連れて行ってくださらないのでしょう。私は……私は、そんなに頼りない人間なのでしょうか」
リセラはワイングラスを置き、静かに口を開いた。
「セイラ、あなたの心がどれほど痛んでいるか、よく分かっているわ。私も最初にそれを聞いた時は、胸が締め付けられる思いだった。けれど、それがイヒョンさんのやり方なのよ。いつも自ら道を切り拓いて生きてきた方だもの。あなたがルメンティア様を尊敬し、大切に想っていることは私も知っているわ。その感情、瞳にそのまま表れているもの」
セイラが顔を上げ、リセラを見つめた。彼女の瞳に差した陰りは、窓の外の闇と同じくらいに深かった。
「尊敬、ですか? もちろん、ルメンティア様を心から尊敬しています。それに、私はルメンティア様のことを……本当に……」
リセラは微笑みながら、エレンの髪を撫でた。パンを頬張っていたエレンが、澄んだ湖のように透明な瞳で二人を交互に見つめる。
「ママ、セイラお姉ちゃん、どうしたの? おじちゃんのお話?」
「ええ、おじちゃんのお話よ。セイラお姉ちゃん、おじちゃんのことをとても心配しているの」
リセラがエレンに優しく答えた後、再びセイラに視線を戻した。セイラはやるせなさを吐き出すように言葉を継いだ。
「なのにあの方は……私のことなんて、それほど重要ではないと思っているみたいです。弟子として医学を学び、共に過ごしたすべての時間が、ただのありふれた日常のように感じられているのでしょうか。どうして私を置いて行かれるのですか? 私だって力になれるし、一緒ならもっと心強いはずなのに……。もう、胸の奥が煮えくり返るようで、本当に腹立たしいです、お姉様」
リセラがセイラの手をそっと包み込んだ。手のひらから伝わるリセラの体温は、春の雨のように柔らかく浸透したが、彼女の瞳にもまた、微かな陰りが宿っていた。
「セイラ、イヒョンさんが自分の成すべきことに没頭するあまり、私たちの感情を汲み取りきれていないのは事実だわ。私も、その点については寂しいと思っていたの」
「お姉様もそう思われますか? 私がおかしいわけでは……ないですよね?」
「ええ、当たり前よ。私もあなたが来る前に初めてその話を聞いた時は、どれほど呆れたことか。ふふっ」
「お姉様、この状況で笑えるのですか? 私はこんなに真剣なのに」
「けれど、私は今でもあの人が私たちを心から大切に思ってくれていると信じているわ。エレンに接する態度や、あなたに知識を授けようと尽力してくれた姿から、いつも感じ取ることができるもの」
リセラは再びフォークを手に取り、切り分けられた肉の一片を口に運んだ。セイラは依然として納得がいかないという様子で問い返す。
「ルメンティア様が私たちを本気で想ってくださっているのなら、なぜあんなに重要なことを相談もなしに一人で決めてしまわれたのでしょうか?」
リセラは口元に付いたソースを軽く拭い、セイラを真っ直ぐに見つめて問いかけた。
「セイラ、イヒョンさんがあなたに医学を教えると言ってから、その約束を破ったことが一度でもあったかしら?」
「……いえ、ありませんけれど……」
セルノの村で、イヒョンが自分と住民たちを伝染病の脅威から救った後、セイラが彼に従い医学を学びたいと申し出た時――イヒョンは一日たりとも欠かすことなく、自身の知識を惜しみなく伝授してくれた。
そのおかげで、セイラはエッセンビア伯爵に実力を認められ、故郷にいた頃には夢にも思わなかった安定した生活を享受できているのは紛れもない事実だった。
「私たちが故郷からこの遠い地まで無事に来て、こうして穏やかに過ごせているのは、すべてイヒョンさんのおかげだと言っても過言ではないわ」
リセラは両手を合わせてテーブルの上に置き、セイラの瞳をじっと見つめながら言葉を継いだ。
「セイラ、あの人は本当に独特な方なの。配慮の示し方が、私たちとは少し違うのかしら? 私も最初は、それがとても寂しかった。けれど、傍で見守るうちに気づいたの。言葉よりも行動で証明するタイプなのだと。エレンのコルディウムが暴走した時、我が身も顧みず飛び込んでくれたことや、ご自身が傷ついて伏せっている間もあなたに医学を教えていた姿……。それは単なる習慣ではなく、真心からくる行動だと確信しているわ」
セイラはグラスを握る手に、微かに力を込めた。頬が薔薇色に染まり、瞳が潤んだように煌めく。
「……そうです、お姉様の言う通りです。ですが、あの決断だけはどうしても理解できません。私がそれほど無能に見えたのでしょうか? それとも、私を信じておられないのでしょうか?」
リセラは窓の外に視線を投げ、微かな星明かりを追った。その瞳には、深い思索の色が宿っていた。
「イヒョンさんは私たちを大切に思っているわ。信頼していないわけでもない。それは私が誰よりも分かっている」
「私なら……あんな話を聞かされたら、真っ先にルメンティア様とお姉様に相談したはずです」
「そうね、私だってそうしたわ。けれど、あの人は考え方が少し独特なの。表現が不器用なだけで、心は誰よりも深いのよ。私もそれを理解するまでには、随分と時間がかかったわ。独りで決めてしまったのは確かに寂しいことだけれど、独りで行こうとしたのは、きっと私たちを危険から守りたいという一心からよ。カレオストラまでの道のりがどれほど過酷か、私たちもよく知っているでしょう?」
「私たちはもう、その過酷な旅を共に乗り越えてきたじゃありませんか。カレオストラがどんなに遠くても、一緒なら大丈夫なはずですよ」
「イヒョンさんの立場からすれば、元いた場所へ帰ることは何よりも重大なことなのでしょう。そこは彼が生きていた世界なのだから。おそらく、その決断に込められた重みは、私たちが想像するよりもずっと大きいはずよ」
セイラの肩が小さくすくんだ。彼女はグラスを置き、自分の手を静かに見つめた。
「頭では理解しています、お姉様。ですが、あの方がなぜあんなに急いでおられるのか、なぜ独りでなければならないと考えておられるのか……。心が、どうしても追いつかないのです。まるで棘が刺さったかのように、その言葉が胸を突き刺して……とても痛いんです。先生は、必ず帰らなければならないのでしょうか? 本当に、あちらの場所へ行かなければならないのですか?」
リセラの指先が、一瞬止まった。視線は再び、窓の外の闇の中で瞬く微かな灯りへと向けられた。
「それは、私に答えられることではないわ、セイラ。あの人の選択なのだから。けれど、彼が本当に帰ることになるのなら、それは私たちの願いとは関係のない、彼の運命なのかもしれないわね」
セイラが首を少し傾け、リセラの顔をじっと覗き込んだ。その瞳が、リセラの心中を抉るような、密かな圧力を帯びる。
「お姉様はどう感じておられるのですか? ルメンティア様が去ってしまうことについて。正直に教えてください。お姉様だって、絶対に寂しいはずです。あの方と共に過ごした時間が、既にお姉様の人生を根底から変えてしまったのに。それを単なる思い出として片付けるには、あまりに惜しいとは思いませんか?」
リセラは下唇を軽く噛んだ。
彼女の視線が、隣の席でパン屑を集めて小さな山を作りながら遊んでいるエレンへと移った。子供は特有の純粋な没頭ぶりで、その些細な遊びを楽しんでいた。
リセラの手がエレンの髪を優しく撫でる。その慈しみに満ちた指先から、微かな躊躇いが滲み出た。
「私も……正直に言うわね。私だって、イヒョンさんにここに留まってほしいと思っているわ。長いようで短かったけれど、彼と共に過ごした日々が、私の人生を温かな陽だまりで満たしてくれたのだから。けれど……私の欲を口にした瞬間、あの人がどれほど深い悩みに陥るかしら。そんな言葉が、イヒョンさんをさらに苦しめる『荷物』になってしまわないか……それが怖いの」
セイラの眉間に、微かに皺が寄った。彼女は腕組みを解き、テーブル越しに身を乗り出した。
「では、どうしろと言うのですか? ただじっと座って、待っているだけなのですか? お姉様が仰るように、あの方の選択を尊重することだけが正解なのでしょうか? ですが、私たちの感情はどうなるのですか? 私や、お姉様の心は……?」
リセラは深く息を吐き出し、視線を再びセイラへと向けた。
「結局、イヒョンさん自身が決めるべき問題なのよ。私たちがみだりに踏み込める領域ではないわ。私たちの感情を押し付けることは、あの人の行く末をより険しくさせるだけだと、そう思うの」
セイラは長い溜息をつき、首を横に振った。
「お姉様の仰る通り……信じて待ってみるのが正解なのかもしれませんね。ですが、独りで行かれるというのは私には荷が重すぎます。耐えられそうにないんです。私がこれほどあの方を想っているように、あの方も私を……いえ、私たちを大切に想ってくださるならいいのに。なぜ、何の発信もしてくださらないのでしょう? なぜただ、『一緒に行こう』と言ってくださらないのですか」
リセラはワイングラスを持ち上げ、僅かに傾けた。赤い液体がグラスの中で渦巻く様子を、彼女は物憂げに見つめた。
「セイラ、真に誰かを想うということは、相手を自分の枠に閉じ込めることではないわ。その人が心から望んでいること、必要なことを尊重してあげることなの。イヒョンさんには、独りでその道を歩まねばならない、やむを得ない事情があるはずよ。私たちがそれを理解し、黙って待ってあげることこそが、あの方への最も深い配慮かもしれない。私もエレンを育てながら気づいたの。深い信頼と絆さえあれば、どのような道を歩もうと、最後には繋がることができるのだと」
セイラはリセラの言葉を噛みしめるように、窓の外の闇を凝視した。いつの間にか、尖っていたその瞳が少しだけ柔らかく解けていた。
「お姉様……本当に、そうでしょうか。ですが、もしルメンティア様に万が一のことでもあったら……」
リセラは、セイラの手を少し強く握りしめた。
「今あなたが感じているその不安と痛みこそが、あなたがどれほどイヒョンさんを大切に思っているかの証拠よ、セイラ。時が経てば、自ずと分かるようになるわ。さあ、今はまず、この素晴らしい食事を楽しみましょう」
その時、エレンが明るく笑いながらパンの一片を手に取った。ステーキソースにパンをたっぷりと浸し、リセラ과 セイラを交互に見つめる子供の瞳が宝石のように輝く。
「ママ、セイラお姉ちゃん! ケーキ食べたいな」
重苦しかった会話が穏やかに幕を閉じようとする頃、ウェイターが笑みを浮かべて近づいてきた。彼の銀のトレイの上には、チーズケーキとチョコレートケーキが端然と並べられていた。
チーズケーキは、まるで白い入道雲をそのまま皿の上に降ろしたかのようだった。滑らかなクリームの層の上には、鮮紅色のベリーたちが宝石のように散りばめられ、光を浴びるたびに結露した雫のように透明に煌めいている。それを支える黄金色のクラストは、フォークを入れた瞬間に軽やかに砕けそうなほど香ばしく、その断面で誘惑してくる。
その傍らのチョコレートケーキは、深い夜の色を彷彿とさせる濃褐色の層が幾重にも積み重なり、口の中でとろけるような芳醇な質感を予感させた。細かな篩にかけられた粉砂糖は、冬の夜の初雪のようにその上をふんわりと覆い、生地の間からは粘り気のあるガナッシュが濃密な光を放ちながら、今にも溢れ出しそうに揺らめいている。
リセラがフォークを手に取り、チーズケーキを見つめながら言った。
「これほど美しいケーキを前にして、眺めているだけなのは失礼かしら?」
リセラはセイラに向かって軽く目配せをすると、ケーキをひと口分切り分け、口へと運んだ。
唇の間へと滑り込んできたクリームは、触れた瞬間に体温で溶け出し、シルクよりも滑らかな感触で舌を包み込んだ。重厚なチーズのコクが口いっぱいに広がる頃、弾けたベリーの果汁がその隙間へと入り込む。鮮やかな赤い絵具を落としたかのように、爽やかな酸味が甘いクリームの中へと溶け込み、華やかな味覚の紋様を描き出した。
飲み込んだ後も、余韻は長く残った。鼻先をかすめる軽やかな香りは、花びらを運ぶ春風のように瑞々しい。リセラのまぶたが微かに震え、やがて白く細い指先でそっと口元を覆った。小さく震える肩を伝って心地よい戦慄が広がり、胸の奥深くからは温かな波動が同心円を描くように押し寄せてきた。
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