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144. 慰め

イヒョンの背中に、リセラの視線が静かに留まった。先ほどの刃のようなセイラの眼差しとは質の違う、ふわりと立ち上る温もりが込められた視線だった。


彼が一歩踏み出すたび、古びた木の階段が低い呻きのような声を上げ、その重みを受け止める。わずか一階分を上がるだけの足取りだったが、イヒョンの後ろ姿は巨大な山を背負っているかのように、ひどく疲れ切って見えた。


廊下の突き当たり、格子窓から忍び込んだ午後の陽光が、部屋の扉を濃密なオレンジ色に染め上げている。黄金色の埃を纏ったドアノブは、まるで宝石のように煌めき、彼を誘っているかのようだった。


イヒョンが温かな金属の質感を握りしめ、扉を押し開ける。隙間が広がった瞬間、階下の安らかな温もりを断ち切るように、凍てつく冷気が溢れ出した。頬をかすめていく空気は、見えない氷の針が肌を刺すように冷たく、乾燥していた。


部屋の中は、潔癖に近い静寂が支配していた。ベッドのシーツは研ぎ澄まされた刃のようにぴんと張られ、皺一つ許さない。窓辺の机に並ぶ本は、定規で測ったかのように完璧な垂直を成していた。その隣のインク瓶やペン軸さえも、約束された座標から一ミリたりとも外れることなく置かれている。


それは秩序というより、むしろ剥製に近かった。塵一つない滑らかな家具の表面は、差し込む陽光を吸収する代わりに、冷ややかに跳ね返している。


空気の中には、ただ崩れ落ちそうなほど乾いた古い紙の匂いが希薄に漂うのみ。誰かがここで息をつき、眠りについたという生気の痕跡は、どこにも見当たらなかった。


ここで過ごした数ヶ月の間で、イヒョンは背筋を這い上がる奇妙な悪寒を、この馴染み深い空間で初めて覚えた。


『この感覚は……』


記憶は六年前のある日へと、荒々しく引き戻された。妻と娘を冷たい土の中に埋めて帰ってきた日。玄関を開けた瞬間に胸を押し潰した、あの圧倒的な静寂。


開いた窓の隙間から、遠くの市場の活気ある声や子供たちの笑い混じりの叫びが微かに聞こえてきたが、その騒音は透明なガラスの壁に遮られたかのように、イヒョンの耳元で虚しく散っていった。


世界という巨大な歯車から零れ落ち、地図にもない孤島に一人取り残されたような孤独感。つい先ほどまで見慣れていたはずの部屋の静寂が、じわじわと粘り気のある液体へと変わり、彼の首を絞め始めていた。


彼は椅子に身を預けるように崩れ落ちた。肘掛けから伝わる木目の冷ややかな感触が、手のひらへと染み込んでくる。窓の外の空は眩しいほどに晴れ渡っているが、暗い部屋の中とは鮮明な境界線で隔てられたかのように、異質な対照を成していた。


『関係、か……』


自分とエレン、セイラの間にどのような絆が結ばれているのかと問うたリセラの言葉が、脳裏を波紋のように巡った。まずリセラの顔が浮かぶ。瞳に宿る温もり、そしてイヒョンとエレンへ向ける微笑みの裏に隠された、喪失への恐怖までも。


イヒョンは指先で額を押さえた。


リセラとの出会いは偶然に始まったものだったが、今では運命のように感じられた。イヒョンが彼女とエレンの支えとなったように、彼女の存在もまた、見知らぬ地で彼が踏み止まるための安息所だったのだ。疲れ果てた心を溶かす炎のような微笑みと、自分に向けられた真実の懸念。しかし彼は、そのすべての想いを単なる慰めとして片付け、そこに込められた深い真意から目を背け続けてきた。


「俺は……彼女の言葉に、正しく応えたことがあっただろうか」


自分の世界である地球へ帰る日ばかりを渇望するあまり、傍にいる彼女の感情を汲み取る余裕さえなかった。


続いて、セイラの姿が自然と浮かんできた。幼くして両親を亡くし、イヒョンに従って故郷を離れ、ついには最後の肉親である祖父までも失った少女。どんな苦難の中でもイヒョンを信じ、医学を学び、彼に新しい生を授けさえしたセイラ。いつも明るく活気に満ちていた彼女の声が、耳元で響くようだった。


世俗に汚れのない純粋な歌声と、イヒョンに向けられた揺るぎない尊敬。セイラこそが、エフェリアで医師としての才能を最も開花させる器であることに疑いの余地はなかった。鋭い手つきと情熱的な態度。だが、彼は彼女の献身と愛情を、あまりにも当然のこととして受け止めていた。


己の孤独な道に没頭するあまり、彼女が耐え忍ばねばならなかった孤独と、その中で育んだ希望を放置していたのだ。


イヒョンは手を上げ、胸をさすった。心の奥底で重い澱が蠢いているような気分だった。


エフェリアに足を踏み入れてから今に至るまで、どれほど多くの人々の助けと犠牲が彼を支えてきたことか。リセラやエレン、セイラだけではない。セイラの故郷の人々、コランで出会ったドランとマリエン、アンジェロ、レオブラム侯爵、プルベラのベルティモ、そして今バセテロンにいるエリンセンドに至るまで。


数多の縁の重みが、ようやく、実感として彼にのしかかり始めていた。


------


いつの間にか日は地平線の彼方へと姿を消していた。冬の日は短く、夕食時になる頃には、街はすでに深い闇に包まれていた。


セイラの足音が聞こえてきた。一日の疲労が肩を重く押しつぶしているのか、敷居を跨ぐ足取りはいつもより鈍く、重い。顔には疲れの色がありありと浮かび、目元には暗い影が落ちていた。彼女は固く口を閉ざしたまま、視線を床に固定していた。


台所で夕食の支度をしていたリセラが手を止め、彼女を振り返った。


「お姉ちゃん!」


エレンがセイラを見つけるなり、嬉しそうに駆け寄って抱きついた。家の中には、香ばしいシチューの香りが淡く漂っている。


「セイラ、お帰りなさい」


「はい……」


「夕食、まだでしょう? もうすぐできるから、少しだけ待っていて」


「はい……」


リセラはセイラの表情を注意深く見守りながらも、それ以上は何も追求しなかった。あえて聞かなくても、昼の間にイヒョンと何があったのか、十分に察しがついたからだ。セイラは何も言わずに自分の部屋へと向かった。扉の閉まる音が、冷ややかに家の中に響き渡った。


リセラはしばらくの間、竈の前に立ち、煮え立つ鍋を見つめていた。踊るように燃える炎の中で、シチューがコトコトと音を立てている。彼女はふと手を止めると、鍋を火から下ろし、セイラの部屋へと向かった。


扉を開けると、明かりのついていない室内には濃い闇が降りていた。窓から差し込む微かな月光が床に長い影を落とし、セイラは外套も脱がないままベッドに突っ伏していた。背中を伝って流れ落ちた髪が、波のように乱れている。リセラは静かに扉を閉めて歩み寄り、セイラの傍らに腰を下ろした。そして、温かな手をその肩に置いた。


「セイラ、何かあったの? ずいぶん疲れているみたいだけど」


柔らかな声がセイラの耳に染み込んでいく。リセラの手が、優しく肩を叩いた。セイラは顔も上げず、ベッドのシーツに顔を埋めたまま答えた。


「お姉様……ごめんなさい。ただ、少し疲れているだけなんです。夕食はいりません」


声は穏やかだったが、その中に閉じ込められたもどかしさが、図らずも滲み出ていた。リセラは小さく微笑み、彼女の背中をゆっくりと撫でた。


「そう? でも、お腹が空いていると心までもっと辛くなってしまうわよ。美味しいものを食べれば、少しは元気が湧いてくるかもしれないわ」


リセラは少し考え込むように首を傾げると、言葉を継いだ。


「エレンと一緒に、外に食べに行きましょう。ムーンライト・ガーデンには貴方の好きなデザートケーキもあるはずよ。ね、いいでしょう?」


セイラがゆっくりと顔を上げ、リセラを見上げた。その瞳には、期待と戸惑いが入り混じっている。


「お姉様……でも、ルメンティアは?」


まだ抜けきらない幼さと共に、イヒョンを案じる気持ちがそのまま溢れ出していた。イヒョンの無頓着さに傷つきながらも、結局は彼の夕食を心配するセイラを見て、リセラはにっこりと笑った。セイラの目元に浮かんだ微かな涙を拭うかのように、温かな眼差しを送りながら言った。


「あんな石っころみたいな人には、一日くらい一人で食べさせておきなさい。私たちだけで行きましょう。エレンもきっと喜ぶわ」


悪戯っぽい口調だったが、その中にはセイラを包み込んであげたいという優しさが込められていた。


「それに、たまにはこうして女同士で出かけるのも楽しいんじゃないかしら? 貴方はどう思う?」


そこでようやく、セイラはリセラの顔を見て、あどけない微笑みを浮かべた。彼女はゆっくりとベッドから身を起こした。


「じゃあ……一緒に行きます、お姉様」


リセラは頷き、セイラの手を取って引き寄せた。


「エレン、上着を着なさい。セイラお姉ちゃんと一緒に外で美味しいものを食べましょう!」


リセラの明るい声が家の中に響くと、エレンが部屋からパタパタと飛び出してきた。


「お母さん、本当!? セイラお姉ちゃんと一緒に?」


軽快な足音と共に、子供の瞳が好奇心で輝いた。


「どこに行くの?」


「とっても美味しいものを食べに行くのよ。セイラお姉ちゃんが大好きなケーキを売っているお店なんだけど、エレンもきっと気に入るわ」


「わあ、やったあ! おじさんも呼んでくるね」


「エレン、いいえ。今日は私たち女同士で行くのよ」


「女同士? じゃあ、おじさんは?」


「イヒョンおじさんは、今日は一人で食べるんですって」


エレンは上着を着込んで出てくると、セイラの手をぎゅっと握りしめた。


「エレン、そこに行くの初めて!」


セイラはエレンの小さな手を握り返し、優しく微笑んだ。


「ええ、エレン。お姉ちゃんも、今日はとっても楽しみだわ」


声はまだ少し沈んでいたが、子供の明るい顔と活気に触れ、セイラの心も少しずつ解けていくようだった。リセラはその光景を見て、口角をわずかに上げた。世界の痛みは、時にこうした些細な瞬間に、さらりと霧散することもある。まるで夜明けの霧が、朝日に溶けていくように。


家を出ると、まだ肌寒い夜風が彼女たちの頬をかすめた。通りはすでに深い闇に沈み、点々と置かれたオイルランプが道の上をかすかに照らしている。だが、繁華街に差し掛かると、まだ店を閉めていない商店や深夜まで灯りを灯す酒場から漏れる光が、街路を明るく彩っていた。


エレンは両手でリセラとセイラの手をぎゅっと握り、元気いっぱいに歩いた。


「セイラお姉ちゃん、今日のお仕事はどうだった? さっきはちょっと疲れ気味に見えたけど」


エレンが顔を上げてセイラを見上げると、セイラは子供の小さな手に少し力を込めて答えた。


「ええ、少し大変だったけど……もう大丈夫よ。エレンのおかげで元気が出ちゃった」


やがて『ムーンライト・ガーデン』に到着すると、レストランから漏れ出す温かな灯りが三人を出迎えた。扉を開けて中に入ると、立ち上る香ばしいステーキと芳醇なハーブの香りが鼻先をくすぐる。


テーブルにつくなり、セイラの視線は磁石に引き寄せられるようにデザートのショーケースへと向かった。整然と並べられたケーキやプリンが甘い光を放ち、誘惑するように煌めいている。リセラはメニューを広げながら、優しく語りかけた。


「セイラ、好きなものを選んで。デザートもいいけれど、まずはメイン料理から注文しましょうか?」


エレンはメニューを指でツンツンと突きながら、弾んだ声で尋ねた。


「お母さん、私はこのチョコケーキ! セイラお姉ちゃんは? お姉ちゃんは何にするの?」


セイラはメニューに目を通し、ようやく軽やかな笑い声を上げた。


「お姉ちゃんはチーズケーキにするわ。二人で頼んで、一緒に分けっこしましょう」


彼女の声は次第に明るさを取り戻し、食卓を彩っていった。


「お食事は子牛のステーキにしましょうか?」


「うん、お姉ちゃん!」


夕食が始まると、それまで抑え込まれていた会話が水のように自然に流れ出した。リセラは柔らかいステーキを切り分け、エレンの皿に置いてやりながら、さりげなく尋ねた。


「セイラ、最近スコラのお仕事はどうかしら?」


リセラの問いに、セイラは持っていたフォークを置き、わずかに項垂れた。


「はい、お姉様。楽しいことは楽しいんです。でも……時々、少し荷が重く感じてしまって」


言葉に宿る深い陰りが、リセラの目に留まった。リセラは温かい抱擁のような声でセイラをなだめた。


「辛い時こそ、こうして美味しいものを食べて元気を出さなくちゃ。私たち三人が一緒なら、何だって乗り越えられるわ。そうでしょう?」


その隣でチョコケーキを大きく頬張ったエレンが、キャッキャと笑った。


「そうだよ! お母さんの言う通り、私もこれから難しいことをしに行くんだもん。どこかはよく分かんないけど、セイラお姉ちゃんみたいに頑張るよ!」


天真爛漫なエレンの言葉に、セイラは少し驚いたようにリセラを見つめた。


「お姉様……エレンにお話しされたのですか?」


「ええ、話したわ。幸いなことに、エレンはカレオストラに行くのをもうあまり心配していないみたいなの。むしろシエラさんが一つ一つ丁寧に説明してくれたおかげで、期待している様子だわ」


リセラはワインを一口含み、言葉を継いだ。


「おかしいわよね? 私はエレンが馴染めないんじゃないかって夜も眠れなかったのに、実は私の心こそが一番の問題だったのよ。エレンは私よりずっと強いのかもしれないわ」


「お姉様、エレンはまだ幼くて状況がよく分かっていないからですよ」


「そうかもしれないわね。でも、少し前までは私自身、その覚悟ができていなかったの。今回のことで、むしろエレンに教えられた気分だわ」


リセラはワイングラスを卓に置き、セイラと穏やかに視線を合わせた。


「今日、イヒョンさんがスコラに行ったのでしょう?」


リセラの控えめな問いに、セイラは握っていたフォークをゆっくりと置いた。


「はい……」


「さっき家に帰ってきて、少し変な話をしていたわ」


「お姉様に、すべてお話しされたのですね」


「ええ。あの人の性格上、隠し通すのは難しかったでしょうから」


すると、セイラは突然ワインを一気に煽り、グラスを『コトッ』と音がするほど強く置いた。


「ルメンティアは本当に……ひどいです。本当に、ひどすぎます!」



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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描写が丁寧で、読んでいると物語に引き込まれます。 これからも更新楽しみにしてますね。
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