108. 治癒の意識
湖の彼方、水平線の上に赤い太陽が顔を覗かせた。黎明がフルベラの朝を呼び覚ましていたが、ベルティモの目には、その美しい風景など映ってはいなかった。
「はぁっ、はぁっ、クソッ……」
肺を引き裂くような冷たい早朝の空気が押し寄せるも、ベルティモの背筋には滝のように冷や汗が流れ落ちていた。
背負ったイヒョンの呼吸音は不規則で、今にも途絶えそうに続いていた。その微弱な温もりが、まるでカウントダウンのようにベルティモの足を急き立てた。
止まるわけにはいかなかった。
いや、止まった瞬間、背後の命も止まってしまいそうだった。
その横に、銀色の髪をなびかせながらシエラがぴったりと並走した。彼女の表情はいつもの沈着さを失い、強張っていた。
『どうして……どうして通じないのですか?』
彼女は走っている最中も、混乱を隠しきれずにいた。
[治癒の涙]は、死者を除いてあらゆる傷を癒やす彼女のコルディウムだった。病気には効果が遅いとしても、このような物理的な外傷に反応しないケースなど、前例がなかった。
だが、今は原因を分析している場合ではなかった。生かすことが先決だった。
「イヒョン! 息をしろ! 止まるんじゃねぇ、この野郎!」
ベルティモが息も絶え絶えな声で怒鳴った。荒い呼吸の合間から、切迫感が滲み出ていた。
「ベルティモ様、あそこです! 神殿が見えます!」
シエラが指先で丘の上を指し示した。彼女の声もまた、湿り気を帯びていた。
「はぁ、はぁ……神官の野郎ども……いやがるといいんだが。」
「伯爵様の別荘から、私たちより先に出発しました。今頃なら到着しているはずです。」
「いなけりゃ、髪の毛引っ掴んででも引きずり出すまでだ!」
低い丘の上、朝陽を浴びて神聖な輝きを放つ神殿の尖塔が目に入った。
不幸中の幸いか、神殿の入り口は慌ただしかった。伯爵の命を受けた神官たちが、負傷者の治療のために急ぎ復帰し、準備を整えていたのだ。
「よかった……。」
安堵感から、シエラの表情がほんの少しだけ明るくなった。
二人が神殿の入り口に雪崩れ込んだ時、ちょうど指示を出していた老神官が彼らに気づいた。
フルベラの高位治癒司祭、ベナトゥス・サナトルであった。歳月の流れが顔にそのまま刻まれていたが、瞳だけは青年のように澄んで深い人物だった。
彼は駆けつけてきたシエラに気づくと、慌てて腰を折り礼を尽くした。
「おお、シエラ様! ご無事でしたか。都市に大きな異変が生じ、案じておりまし……」
「挨拶は後です、ベナトゥス様! この方の命が危ないのです。直ちに治癒の儀式の準備を!」
シエラが言葉を遮り、切羽詰まった様子で叫んだ。
ベナトゥスは、ベルティモの背中に背負われた男を見て目を丸くした。
「いや、シエラ様には[治癒の涙]があるではありませんか? なぜ神殿の儀式を……」
ベナトゥスにとっては、理解しがたい状況だった。
シエラが唇を噛み締めながら答えた。
「残念ながら……私の[治癒の涙]が、全く効かないのです。」
「えっ? そ、そんな馬鹿な。そのような話は聞いたこともありませんが。」
「私にも理由はわかりません! ですが、今は説明している時間さえ惜しいのです!」
シエラの声が鋭く裏返った。いつもの静けさはどこへやら、焦燥感が声に滲んでいた。
その時、もどかしさに耐えかねたベルティモが、荒々しくベナトゥスの肩を突き飛ばして神殿の中へと押し入った。
「ったく! 爺さんは御託が多いんだよ! 時間がねぇって言ってんだろ!」
ベルティモはベナトゥスを睨みつけ、唸るように言った。
「人が死にかけてるってのに討論でもしてやがるつもりか? さっさと準備しやがれ!」
「な、なんてことだ……。わ、分かりました! 直ちに準備いたします!」
シエラの異例な反応と、野獣のようなベルティモの殺気に、ベナトゥスはようやく事態の深刻さを骨身に沁みて実感した。
彼は慌てふためき、神殿の奥に向かって叫んだ。
「非常事態だ! 治癒の神官たちは全員祭壇へ集合せよ! 直ちに治癒の儀式の準備を! 急げ!」
招集された神官たちが慌ただしく動いた。床を擦る重いローブの裾音が緊張感を煽る。
やがて厳粛な空気の中で、治癒の儀式が始まった。
祭壇の周囲に焚かれた香草が燃え、煙たくもほのかな香りを放ち、巨大な石柱に刻まれた古代の文様がコルディウムに反応して低い唸りを上げながら光を放ち始めた。
イヒョンの状態を診ていたベナトゥスの眉間が深く寄った。
「これは……状況が良くありません。奇妙なほど外傷はないのですが、生命力が底の抜けた甕のように抜け出ています。肉体が魂を繋ぎ止められていないのです」
「それは、どういう……」
「ひとまず、魂が肉体と完全に断たれないよう、結束する儀式から進めなければなりません。急がねば」
ベナトゥスの診断に、シエラは唇を噛み締めた。彼女は祭壇の横で儀式の準備をする老神官に向かって切実に言った。
「ベナトゥス様。どうか……失敗は許されません。どんな手を使ってでも、助けてください」
命令口調ではあったが、その裏には今にも崩れ落ちそうな恐怖が潜んでいた。彼女の瞳は潤み、不安げに揺らめいていた。
ベルティモは胸に抱いていたイヒョンを、祭壇の上に慎重に横たえた。羽のように軽くなった同僚の重みが、胸を押し潰すようだった。
彼はイヒョンの冷たい手を一瞬強く握りしめ、そして放すと、低く囁いた。
「イヒョン、諦めるなよ。てめぇがこんなにあっけなく逝くような奴じゃねぇってことは、知ってんだからな」
ベルティモが後ろに下がると、十二人の神官が祭壇を取り囲んだ。
「儀式を執り行う!」
ベナトゥスの先唱が厳粛に響き渡った。
「Lumen Sacra, Vita Aeterna!」(聖なる光よ、永遠なる命よ!)
呪文と共に神官たちの合唱が続いた。雄大な聖歌が天井を叩いて降り注ぐと、イヒョンの周囲に黄金色の粒子が雪のように舞い降りてきた。
暖かく柔らかな光が祭壇を満たし、冷たい死体のようなイヒョンの体を包み込んだ。それはまるで、切れかけた命の糸を無理やり繋ぎ合わせようとする神の手のようだった。
ベルティモは祭壇から離れ、腕を組んでその光景を見守っていた。ブーツのつま先が、焦燥感を現すように床をトントンと叩いていた。
彼は焦る内心を隠すかのように、わざとぶっきらぼうに呟いた。
「無茶な野郎だ……。さっさと起きやがれ。目ェ覚ましたら、死ぬほど殴ってやるからな」
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湖の水平線の彼方から赤い太陽が昇った。朝の日差しがフルベラを照らし始めたが、広場の風景は惨憺たるものだった。
本隊と共に到着したエッセンビア伯爵は、馬上で廃墟と化した広場を見下ろした。鼻を刺す煙と生臭い血の匂いが、早朝の空気に混じっていた。
「……奴らは完全に引いたようだな」
伯爵は視線を転じ、黒く焼け焦げた船着き場の方を凝視した。
「あちらで、まるで星が落ちるような閃光を見た。そして地震に近い振動まで。一体全体、何があったというのだ?」
伯爵は髭を撫でながら、理解できないといった様子で眉をひそめた。傍らに控えていたラマンが頭を下げた。
「申し訳ありません。私にも正確な原因は把握できておりません」
「酷い土煙で視界が遮られ、歯がゆい思いをしたぞ。お前が見たままを報告せよ」
ラマンは空唾を飲み込み、口を開いた。
「閣下もご覧になったかと思いますが、最初に現れたカルヌスという者……。ベルティモ隊長とイヒョン卿を攻撃するのを辛うじて防ぎましたが、想像を絶する実力者でした」
「お前の口から『想像を絶する』という言葉が出るとは、並大抵の輩ではなかったようだな」
「はい。ベルティモ隊長と挟撃して、辛うじて追い詰めることはできましたが、奴はひたすらイヒョン卿の命だけを狙っていました。もし私が奴と一対一で剣を交えていたなら……」
ラマンは少し言葉を切り、重々しく付け加えた。
「私の首は、既に地に落ちていたことでしょう」
伯爵の眉がぴくりと動いた。ラマンは自身の騎士団長の中でも指折りの実力者だ。そんな彼が敗北を認めるとは。
「ほぉ……」
「ですが閣下。真の問題は、その後現れた者です。『アズレム』と呼ばれたその者の力は……恐れながら、推し量ることさえできませんでした」
ラマンの声が低く沈んだ。
「全力を尽くした私の奇襲を、たった指一本で弾き返したのです」
「指で剣を防いだだと?」
「防いだのではありません。まるで服についた埃を払うかのように、私の剣を弾き飛ばしたのです」
ラマンはその時の記憶が蘇ったのか、身震いした。剣を握る彼の拳が、白くなるほど強く握りしめられていた。圧倒的な恐怖は、依然として彼の指先に残っていた。
伯爵は沈黙した。彼は無言で広場に横たわる市民たちや兵士の遺体を見渡した。
「フェルトゥスという怪物どもだけでも手一杯だというのに、奴らを使役するさらに強力な存在か……。事態は思ったより深刻だな」
「はい。そのアズレムという者が登場するや否や、戦況が覆されました。ですが、どういうわけか奴らは戦闘を止め、黒い霧の中へと消えました。奴らに従っていたフェルトゥスの群れも一斉に姿を消しました」
伯爵は深い溜息をついた。今は敵の正体を把握することより、急ぐべきことがあった。
「うむ……分かった。話が長くなりそうだから、後でまた詳細を聞こう。今は情報も不足しているし、頭を冷やす時間も必要だ」
伯爵の眼差しが鋭く変わった。
「まずは生存者の捜索に総力を挙げろ。瓦礫の下敷きになっている者がいないか、しらみつぶしに探せ。一人でも多く助け出すのだ。負傷者たちは直ちに神殿へ搬送し、治療を受けさせよ」
「命、承りました!」
伯爵の命を受けたラマンは、即座に振り返り兵士たちに向かって朗々と叫んだ。
「全員、捜索開始! 生存者を探せ! 石ころ一つたりとも見逃すな! 動け!」
兵士たちが一糸乱れず動き始めると、伯爵が再びラマンを呼んだ。
「あぁ、そういえばベルティモとシエラが見当たらんな」
「お二方はイヒョン卿を連れて、神殿へと急行しました」
「イヒョン卿を? 怪我をしたのか?」
「はい、左様です。我々が到着した時、既に彼は意識を失った状態で、正確な容体は分かりかねますが……」
ラマンは少し躊躇ってから言葉を継いだ。
「シエラ様のお話によれば、[治癒の涙]が通じないとのことでした」
伯爵の目が大きく見開かれた。
「シエラの力が通じないだと? まったく、今日は驚くことの連続だな」
「ですので、神殿の治癒の儀式が必要だろうとのことで、急ぎ発ちました」
伯爵は興味深そうに頷き、手綱を引いた。
「ふむ。イヒョンか……。やはり只者ではないな。[治癒の涙]が通じない体とは」
伯爵は神殿のある丘の方へと馬首を巡らせた。
「神殿へ向かう。この目で直接確かめねばならん。彼が目覚めたなら、問いたださねばならんことが山ほどある」
伯爵は収拾作業に追われる広場を背にし、数名の兵士を帯同して神殿へと馬を走らせた。彼の背後から朝日が昇り始めていたが、都市に落ちる影は依然として長かった。
神殿の奥、儀式の間は張り詰めた緊張感で満たされていた。
Lumen Sacra, Vita Aeterna.
Lux quae initium tenet, umbras solve, carnem leva.
Spiritus qui respirat mundum, flatus tuus ossa replet, sanguinem quietum facit.
Manus nostrae non sunt salus, sed porta tantum sumus.
Per nos fluat lux antiqua, per nos maneat vita data.
Lumen Sacra, Vita Aeterna.
Quod fractum est, reconcilia.
Quod lassat, requiesce.
Quod deficit, sustine.
Non contra mortem pugnamus, sed tempus concedimus.
Donec anima iter meminerit, donec corpus iter sequatur.
Lumen Sacra, Vita Aeterna.
Mane, respira, permane.
聖なる光よ、永遠なる命よ。
始まりの光よ、闇を解き放ち、肉体を持ち上げたまえ。
世界を呼吸させる霊よ、その息吹で骨を満たし、血を安らげたまえ。
我らの手は救いにあらず、我らはただの門に過ぎない。
我らを通じて古の光を流し、委ねられし命を留めたまえ。
聖なる光よ、永遠なる命よ。
砕かれしものを再び繋ぎ、疲れしものを休ませ、消えゆくものを支えたまえ。
我らは死と戦うにあらず。
ただ、時を借り受けるのみ。 魂が道を思い出すまで、肉体がその道を辿るまで。
聖なる光よ、永遠なる命よ。
留まりたまえ。 息をしたまえ。 続かせたまえ。
ベナトゥスと神官たちの詠唱がクライマックスへと達すると、祭壇の中心から噴き出す黄金の光が、目が眩むほどに輝きを増した。だがその光は、温もりというよりは危うさを孕んでいた。
「……何か、予感が良くありません」
シエラの瞳が不安げに揺れた。彼女は唇を噛み締め、焦燥感を隠せずにいた。
その横では、ベルティモが檻に閉じ込められた猛獣のようにうろついていた。彼は腕を組み、わざと平然を装っていたが、ブーツの踵で床を叩くリズムは次第に速くなっていた。
「心配すんな。俺の人生で、治癒の儀式が効かねぇ奴なんて見たことねぇ。息さえありゃあ……すぐに何事もなかったかのように、ケロッと起き上がるさ」
「ベルティモ様。お気づきになりませんか? すでに儀式が何度か繰り返されています」
「あぁ? 繰り返してるだと?」
「あの光をご覧ください。コルディウムが体内に吸収されず、散らばっています。私はアモリス様の権能をお借りすることはできませんが、この儀式の流れ程度なら読み取れます」
シエラの指摘に、ベルティモがぎくりとして祭壇を見つめた。果たして、イヒョンを包む光は彼の体に染み込むことなく、虚空を彷徨っていた。
ギィィッ。
その時、重厚な神殿の扉が開き、重々しい足音が聞こえてきた。エッセンビア伯爵と彼の護衛兵たちだった。
「状況はどうだ?」
伯爵は入るや否や、祭壇の方へ視線を固定したまま尋ねた。
シエラが驚いて飛び上がり、伯爵に向かって深く頭を下げた。
「伯爵様、いらっしゃったのですか? 先にご報告できなかったこと、お許しください。イヒョン卿の状態が重く、急ぎこちらへ……」
「その件は来る道すがらラマンから聞いた。それより……」
伯爵の目つきが鋭くなった。
「まだ儀式は終わらんのか?」
祭壇の上は依然として黄金の光に満ちていたが、その中心に横たわるイヒョンは、蝋人形のように蒼白な顔色で身じろぎ一つしなかった。生命の気配が感じられない、死のような静寂だけが漂っていた。
伯爵は沈着ながらも厳しい声で問いただした。
「ベナトゥス神官。答えよ。なぜイヒョン卿が目覚めんのだ?」
ようやくベナトゥスが詠唱を止め、祭壇から降りてきた。彼の額と背中は冷や汗でびっしょりと濡れていた。天下の高位神官ですら、当惑を隠せない表情だった。
「閣下……面目次第もございません。何かがおかしいのです。」
ベナトゥスは空唾を飲み込み、言葉を続けた。
「アモリス様の慈悲深い権能が、まるで壁にぶつかるかのように弾かれています。コルディウムが通じない肉体など、私の司祭人生において、このような事態は初めてです。」
「シエラの力も、神殿の力も通じぬということか? ガデサとアモリス、二柱の神の力をいずれも拒絶するとは。」
伯爵の問いに、ベナトゥスは口をつぐんだ。否定できない現実だったからだ。
儀式は中断された。
神官たちが呪文を止めると、祭壇を包んでいた黄金の光が嘘のように消え失せた。光が消えた場に残されたのは、冷たく冷え切っていくイヒョンの肉体と、息詰まるような沈黙だけだった。
誰も不用意に口を開くことができなかった。この絶対的な沈黙は、どんな悲鳴よりも恐ろしく彼らにのしかかった。
ドンッ!
重い静寂を破り、儀式の間への扉が乱暴に開かれた。乱れた髪に泥だらけになったスカート。リセラとセイラ、そして幼いエレンが、息を切らして入ってきた。
彼女たちの視線が、示し合わせたかのように祭壇の上へと向かった。
黄金の光が消えた冷たい石の祭壇。その上に、まるで壊れた人形のように力なくぐったりとしたイヒョンの姿があった。
「あぁ……」
リセラの口から、嘆きのような悲鳴が漏れた。彼女の顔に宿っていた微かな希望が粉々に砕け散り、その場を黒い絶望が埋め尽くした。
「イヒョンさん!」
リセラはよろめきながら祭壇へと駆け寄り、その場に崩れ落ちた。彼女は血の気の失せたイヒョンの顔を両手で包み込んだ。
「だめ、お願い……こんなの嫌です!」
手のひらに触れる感触は、ぞっとするほど冷たかった。まるで既にこの世の人ではないかのような冷気。リセラは溢れ出る涙を抑えきれず、彼の胸に顔を埋めた。
「お願い……目を開けてください、イヒョンさん。こんなふうに逝ってしまうなんて、あんまりです……うぅっ。」
後から続いたセイラもまた、足の力が抜けたようにイヒョンの傍らに膝をついた。彼女は虚空を彷徨っていた手で、恐る恐るイヒョンの手を握った。温もりなど感じられない、冷ややかな手だった。
「嘘……ルメンティア、こんなの違うじゃないですか。このまま逝ってしまうなんてこと、ないですよね?」
セイラの頬を伝って、大粒の涙がとめどなく流れ落ちた。彼女の声は涙混じりの嗚咽へと変わり、途切れ途切れに続いた。結局、彼女はイヒョンの手を額に当て、慟哭した。
目の前が霞んだ。そのぼやけた視界の向こうに、イヒョンの姿が走馬灯のように過った。自分を救うために昼夜を問わず努力していた姿、患者を生かすために夜通し悩んでいた眼差し、そして彼女に医術を教えながらかけてくれた温かい言葉の数々。
その全ての記憶が鋭い刃となって、胸を抉った。
「お母さん……?」
エレンは、その悲痛な光景が理解できないといった様子で、一歩下がった場所に立ち尽くした。子供は怯えた表情で、リセラのスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「お母さん……おじさん、どうしたの? 寝てるの? ねぇ?」
エレンがリセラの服の裾を引っ張ってせがんだが、リセラは答えの代わりにエレンを抱きしめ、ただただ泣き崩れるばかりだった。
その時、イヒョンの冷たい手を握っていたセイラが顔を上げた。涙に濡れた瞳が、祭壇を取り囲む神官たちに向けられた。
「儀式は? なぜ手を止めて見ているだけなのですか? 治癒の儀式をしなければ!」
彼女の絶叫に、ベナトゥスは深い溜息をついた。老神官の顔には、無力感が色濃く滲んでいた。
「すでに数回試みました。ですが……全く効果がありませんでした。神の権能さえ、彼を拒絶しているのです」
「そんな、どういう……」
「我々の力ではどうすることもできません。もしかすると……既に魂が肉体を離れてしまっているのかも……」
ベナトゥスの声は、死刑宣告のように重く沈んでいた。他の神官たちもまた、項垂れて沈痛な面持ちを浮かべるだけだった。
神さえも見放した状況のようだった。
誰もが絶望に飲み込まれようとしていたその瞬間、セイラの眼差しが変わった。
悲しみに揺れていた瞳に、光が宿り始めた。彼女は袖で涙を乱暴に拭うと、勢いよく立ち上がった。
「それで? ダメだからといって、皆さん諦めて手を引くつもりですか?」
セイラの声に籠もった鋭い気配に、ベナトゥスがぎくりとして顔を上げた。
「我々の能力では……」
彼女はもはや、泣いているだけの少女ではなかった。
彼女は、イヒョンの弟子だった。
「師匠なら……あの方なら、絶対に諦めなかったはずです。神が諦めたとしても、あの方は最後まで諦めなかったはずですよ!」
セイラは拳を強く握りしめ、周囲を見渡した。彼女の眼差しは、いつになく鋭く輝いていた。
「だから私も、絶対に諦めるわけにはいきません」
本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。
ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。
読んでくれてありがとうございます。
読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。




