106. 炎
イヒョンのぐったりと垂れ下がった体は、水を吸った綿のように重かった。その上、下水の底から立ち上る悪臭と有毒ガスが、ベルティモの喉を容赦なく締め上げてきた。
「ぐぬぬ……!」
ベルティモは呻き声を漏らしながら梯子を踏んだ。
負傷した太ももの筋肉が悲鳴を上げ、手足がガクガクと震えたが、止まることはできなかった。ここで止まれば、二人とも死あるのみだった。
「ハァ、ハァ。俺が……クソッ。海千山千を潜り抜けてきたが……糞まみれになって男を背負って運ぶのは初めてだぜ」
ベルティモは荒っぽい冗談で自らを叱咤し、辛うじて建物の一階の床へと這い上がった。
肺腑に新鮮な空気が流れ込んできたが、休む暇はなかった。彼はふらつく足に力を込め、広場へと進み出た。
目の前に広がる広場は、巨大な墓場のようだった。あちこちに転がる死体と砕けた残骸が闇に沈んでおり、遥か彼方、丘の上の伯爵の別荘から漏れ出る灯りだけが、唯一の生命の証のように瞬いていた。
ベルティモは冷たい石畳の上に、ソ・イヒョンを慎重に下ろした。
「ちょっと失礼するぜ」
彼は焦る手つきでソ・イヒョンのシャツの内側を探った。湿って濡れた生地の間から、冷たい金属の感触がした。伯爵の別荘を出る前、合図を送るために渡された銀色の狩猟用呼子だった。
ベルティモは血と汗で汚れた手で呼子を握りしめた。そして張り裂けんばかりの肺に、最後に残った空気を満たし、力一杯吹いた。
ピーーーッ! ピーーーッ!
鋭い破裂音が夜の静寂を引き裂いた。
闇を切り裂き船着き場まで伸びていくその音は、単なる合図ではなかった。絶望に沈んだ都市に響き渡る、反撃を告げる希望のラッパの音だった。
合図を送ったベルティモは、ようやく緊張が解けたようにその場にへたり込んだ。彼は荒い息を吐きながら、蒼白になったソ・イヒョンの顔を見下ろした。
彼は手を伸ばし、ソ・イヒョンの胸を一度ポンと叩いた。
「聞こえたか、イヒョン? これからが始まりだ」
ベルティモの口元に、疲労の滲む笑みが浮かんだ。
「もう少しだけ耐えろ。もうすぐ皆が来る」
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「隊長の合図だ! 投げろ!」
闇の中で息を潜めていたベルティモの部下たちが、一斉に火炎瓶に火をつけた。燃え上がる芯が闇を照らした。
彼らは躊躇なく、手にした火炎瓶を下水道の入り口、その深い顎の中へと放り投げた。
ガシャーン! パリーン!
アルコールで満たされたガラス瓶が床にぶつかって割れる音が連続して響いた。黒い汚物の上で、赤い火魔が舌をちらつかせた。
「全部放り込め!」
部下たちは何かに取り憑かれたように動いた。追加で投げ込まれた火炎瓶の炎が、あらかじめ中へ運んでおいた油に移り燃えた。下水道の中で始まった小さな火種は、中に充満していたガスと出会うや、瞬く間に巨大な竜の息吹のように変貌した。
ゴゴゴゴゴ!
地下深くから重い振動が這い上がってきた。足元の地面が揺れ動き始めた。
そして、
ドカアアアアアン――!
天地がひっくり返るような轟音と共に、下水道の入り口から巨大な火柱が突き上がった。
それは爆発というより、噴火に近かった。圧縮されていたガスが一気に噴き出し、プルベラ全体を揺るがした。
「ぐっ!」
爆発と共に押し寄せた熱い衝撃波が広場を薙ぎ払った。ベルティモは反射的に身を投げ、ソ・イヒョンに覆いかぶさった。
ゴオオオッ!
肉を焼くような熱風が背中の上を通り過ぎた。ベルティモはソ・イヒョンの頭を自分の胸に埋め、床に這いつくばったまま歯を食いしばった。耳が聞こえなくなるような耳鳴りが、頭の中でワンワンと回った。
「とんでもねぇ……クソッ、こいつはイカれてやがる!」
一度の嵐が過ぎ去り、ベルティモは煤だらけになった顔を上げて船着き場の方を見た。彼の瞳が驚愕に見開かれた。
「正気かよ……これが本当に人間がやったことだってのか?」
船着き場は、もはや船着き場ではなかった。半分以上が跡形もなく吹き飛び、その場に残ったのは燃え盛る火の海だけだった。
炎は地下下水管を血管として都市全体へ伸びていった。生きている生物のようにうごめきながら地下を飲み込んだ火魔は、下水溝と繋がった地上のすべての穴を通じて空へ突き上がった。
下水道と繋がっていたすべての箇所から火炎が噴き出し、ベルティモがソ・イヒョンを背負って脱出した古い建物も、火炎の嵐で半ば吹き飛んでしまっていた。
「キエエエエッ! ギャアアアッ!」
焦熱地獄と化した地下から、凄絶な悲鳴が響き渡った。
数百、いや数千匹のフェルトゥスたちが炎に包まれ、踊るように身悶えした。奴らの影は炎の中で溶け落ちるように消えていった。闇の中で人間を狩っていた捕食者たちが、最も明るく熱い光の中で灰となって散っていったのだ。
炎は下水管と繋がった民家にも逆流した。
ボン! パリッ!
古い建物の1階の窓が熱気に耐えられず弾け飛んだ。割れた窓の隙間から、黒い煙と共に真っ赤な炎が舌を覗かせた。木の窓枠は瞬く間に炭の塊と化し、街の至る所に火の粉が雪のように舞い散った。
夜空が真昼のように赤く染まった。
ベルティモは熱気を帯びた空気を吸い込み、腕の中のソ・イヒョンを骨が軋むほど強く抱きしめた。
「ハァ……ハァ……」
自分の懐、この小さくて無謀な男の胸からも、微弱だがはっきりとした心臓の鼓動が感じられた。
広場は濛々(もうもう)と立ち込める煙と灰の山で覆われ、肌がちくちくするほどの熱気が漂っていた。だがその熱気は、もはや恐怖ではなかった。それは勝利の証であり、生存のぬくもりだった。
イヒョンの作戦は、完璧そのもの、いやそれ以上に成功した。
地獄から這い出てきた怪物たちは、彼らが作り出したもう一つの地獄の業火の中で、悲鳴さえ残せず燃え上がった。
高い場所からこのすべての光景を見下ろしていたアズレムの目が、裂けんばかりに見開かれた。驚愕は刹那であり、その場を埋め尽くしたのは歪んだ怒りだった。
「こ……この小癪なネズミ共めが……」
彼の瞳が燃える都市を映して真っ赤に充血した。唇の端が抑えきれないほどピクピクと痙攣した。
一瞬だった。閃光が走ったかと思うと、轟音と共に船着き場が地図から消された。都市の血管である下水道を伝って突き上がった火柱は、プルベラを文字通り火炎地獄に変えた。崩れ落ちる建物の悲鳴、そして生きたまま燃えるフェルトゥスたちの断末魔が、アズレムの鼓膜を鋭く引っ掻いた。
自分の完璧な軍隊が、たかが人間ごときの小細工に、虚しく溶け落ちていた。
「おのれ、イヒョン……! よくも貴様……どうしてこんな真似を!」
アズレムの表情は悪鬼のように歪んだ。恐怖と怒り、そして屈辱が入り混じった気配が、彼の全身から噴き出していた。
その時、闇の中からバサバサと羽ばたく音が聞こえてきた。セルファルクだった。カルヌスが送った伝令だった。カルヌスは影の中に隠れ、状況を見守っていたのだ。
セルファルクがアズレムの前に降り立ち、陰惨な眼光をぎらつかせた。主人に次の命令を渇望する目つきだった。
アズレムはイヒョンが倒れている広場を指差した。
「直ちに始末しろ。奴の首を持って来い。息をしている様をこれ以上見ていられん!」
命令は下った。
闇に潜んでいた殺意が実体を現した。
広場は依然として燃え盛る炎と鼻をつく煙で阿鼻叫喚の様相を呈していた。その混乱の中、気を失ったイヒョンと、その傍らに座り込んで呆然と火柱を見つめるベルティモの背後へと、音もなく黒い霧が忍び寄った。
まるで生きた蛇のように床を這ってきた黒い気流は、瞬く間に二人を包囲網の中に閉じ込めた。
熱気に満ちた広場で突如として感じられる冷たい寒気。
数多の戦場を駆け巡り鍛え上げられたベルティモの野性的本能が警報を鳴らした。背筋にゾクリと悪寒が走った。
『これは……?』
ベルティモは反射的に顔を向けた。視界を埋め尽くす不吉な黒い霧。広場で目にしたあの野郎、カルヌスの気配だった。
「くそったれ!」
考える暇もなかった。ベルティモは癖のように背中へと手を伸ばした。彼の分身とも言える巨大な斧の柄を掴むためだった。
虚空を切る手。
「……あ」
指先に触れるものは何もなかった。
その時ようやく思い出した。イヒョンを助けに下水道へ入る前、身軽にするために斧を船着き場に捨ててきたという事実を。
「畜生! よりによってこんな時に!」
ベルティモは悪態をつきながら、急いで腰の短剣を抜き放った。たかだか指ほどの刃。これで、あの怪物どもを相手にせねばならない。
だが、悪いことは重なるものだった。
キーン――
突然、世界がぐるりと回った。過剰摂取した覚醒ハーブの薬効が切れ、抑え込んでいた苦痛と疲労が津波のように押し寄せたのだ。出血による貧血まで重なり、足の力がガクンと抜けた。
「ぐぅっ……」
ベルティモはよろめきながら膝をついた。短剣を握る手に力が入らなかった。指先が勝手に痙攣し、剣を取り落としそうに危なっかしく揺れた。
彼は舌を噛んで意識を保とうとあがいたが、視界はすでに白く霞んでいた。
「駄目だ……今倒れたら……」
目の前の黒い霧が死神のように形を成し始めた。
「クソ……タイミング一度……汚ねぇほど良すぎだろ」
黒い霧が晴れ、カルヌスがその傲慢な姿を現した。赤く燃え上がる眼光が二人を見下ろした。
「ここまでだ」
ベルティモはギリギリと歯ぎしりしながら体を起こそうとした。だが、既に過負荷がかかった肉体は言うことを聞かなかった。脚の筋肉が勝手に痙攣し、視界がぐるりと回った。
スラリ。
金属が擦れる身の毛もよだつ音と共に、カルヌスの両手から双剣が抜かれた。
左手の『センシウム』は魂さえ凍らせるような青い冷気を、右手の『ビタルム』は触れた瞬間肉を腐らせる赤黒い呪いを放っていた。月光を帯びた二振りのアルマ・コルディアが十字に交差し、空気を引き裂いた。
『クソッ。ここで終わりか』
影の中に溶け込むように朧げになるカルヌスの姿。奴が跳躍しようとした刹那だった。
ヒュオオオオッ――ドガァァン!
重い破裂音と共に大地が揺れた。
ベルティモの鼻先、土煙が舞う地面に巨大な鋼鉄の塊が突き刺さっていた。武骨で肉厚な刃、手垢のついた柄。
彼の分身、『あの斧』だった。
「隊長! 受け取ってください!」
遠くから聞こえてくる部下たちの凄絶な叫び。あいつら、よりによってこの重い物を担いでここまで走ってきやがったのだ。
ベルティモの口元に血の混じった笑みが広がった。
「ハッ! 可愛い奴らだ」
彼は考える暇もなく斧の柄をひったくった。掌に吸い付くような馴染んだ重量感。その重みが、消えかけていた彼の野性を再び呼び覚ました。
カルヌスは突如現れた邪魔者に眉をピクリと動かしたが、すぐにベルティモなど眼中にないと言わんばかりに、倒れたイヒョンに向けて剣を突き下ろした。
「死ね」
ガアァン――!
巨大な轟音と共に火花が散った。
イヒョンの首を狙ったカルヌスの剣が、ベルティモの斧の刃に阻まれ、虚空で止まった。
「ぐぅっ! どこを狙ってやがる! 俺をのけ者にして始めちゃ寂しいだろうが!」
ベルティモは破裂しそうなほど青筋を立て、カルヌスを押し返した。つい先ほどまで立っていることさえ辛かった老戦士は、ただ意地一つで死神の前に立ちはだかっていた。
カルヌスの赤い目が初めてベルティモを直視した。
「ほう」
興味というよりは、煩わしい虫を見る目つき。彼はゆっくりと剣先をベルティモに向けた。
ベルティモは残りの生命力を燃やすように斧を持ち直し、喘いだ。
「ハァ、ハァ。そうだ。その目玉。俺を見ろ。手前ぇの思い通りには絶対させねぇ」
「身の程を知らぬな。死ごときでは済まぬ苦痛の中で後悔させてやろう」
カルヌスの声は感情のない氷のようだった。
言葉が終わると同時に、センシウムが青い軌跡を描いて殺到した。
シュアッ!
空気が悲鳴を上げた。ベルティモは本能的に斧を掲げ、胸元を防御した。
ズガァッ!
「ぐうううっ!」
単なる剣撃ではなかった。岩山が激突してきたような衝撃が腕の骨を伝って全身を強打した。膝が悲鳴を上げて折れそうになったが、彼は歯茎が剥き出しになるほど歯を食いしばり、耐えた。
「この老いぼれの死に損ない相手に……たかがこの程度かよ!」
ベルティモは苦痛を咆哮として吐き出し、斧を振り回した。
ブンッ!
肉厚な斧が風を切り裂き、カルヌスの脇腹を狙った。かすっただけでも骨が砕ける威力。だが、カルヌスは幽霊のように柔軟に腰をひねり、攻撃を受け流した。
「遅い」
嘲笑と共にビタルムが蛇のように食い込んだ。
ズブッ。
「ぐっ!」
赤黒い剣先がベルティモの肩を切り裂いた。皮が裂ける音と共に、熱い血が噴水のように噴き出した。肉が焼け焦げるような呪いの激痛が脳を焼いたが、ベルティモは退かなかった。
「この程度! 痒くもねぇぞ、この野郎!」
戦闘は凄絶だった。いや、一方的な蹂躙に近かった。
カルヌスの双剣は雨あられと降り注ぎ、ベルティモは全身血まみれになったまま、一本の斧の柄にすがりついて辛うじて息をしていた。
「ハァ……ハァ……」
瞼の上を流れる赤い血を、手の甲で荒っぽく拭った。息をするたびに肋骨が肺を刺すようだった。脚は鉛の塊をぶら下げたように重かった。
だが彼は倒れなかった。後ろにイヒョンがいた。ここで自分が崩れれば、すべてが終わる。
カルヌスが冷ややかに嘲笑った。
「しつこいな。その腕では子鹿一匹狩れまい」
「ククッ。手前ぇこそ口だけは達者だな。死にかけの老いぼれ一人殺せなくて焦ってるのを見ると、手前ぇの底も見えたぜ! ガハハハ!」
ベルティモは狂人のように狂笑を爆発させた。恐怖を忘れるための、そして敵を挑発するための凄絶な足掻きだった。
彼は血に塗れた手で斧の柄を砕けんばかりに握りしめた。
「来やがれ! この化け物め!」
ベルティモが最後の力を振り絞り、斧を大きく振り回した。
ガキンッ! ギンッ!
虚空で鋼鉄と魔剣が激突して飛び散った火花が、二人の顔を赤く照らした。
カルヌスの赤い瞳が、獲物の喉笛を噛み切る直前の捕食者のように冷たく沈んだ。
「フフフ。もう興冷めだ。そろそろ終わらせよう」
低い呟きと同時に、奴の輪郭が霞んだ。
反応できなかった。ベルティモの脳が危険を感知して筋肉に信号を送ったが、壊れた肉体は言うことを聞かなかった。
「ぐっ!」
避けようとした動作は無為に帰した。
ズブッ!
赤黒い呪いを帯びたビタルムが、ベルティモの脇腹を深く貫いた。単に肉が斬られる痛みではなかった。傷口が腐り落ち、内臓が溶け出すようなおぞましい激痛が全身を強打した。
「グアアアアッ!」
こらえていた悲鳴がベルティモの口からほとばしった。
耐えていた膝の腱が切れたようにガクンと折れた。ドスン、と片膝をつくやいなや、熱い鮮血がどくどくと溢れ出し、乾いた大地を濡らした。
彼は斧の柄を杖代わりにして無理やり体を起こそうとした。しかし、握力が入らなかった。指の節々が勝手に痙攣し、斧を取り落としそうで危なっかしかった。
「……まだ……終わっちゃいねぇ……このクソ野郎……」
「うんざりだ」
カルヌスに慈悲はなかった。奴はベルティモの抵抗を嘲笑い、直ちにセンシウムを振り上げた。青い冷気を帯びた刃が、ベルティモの首を狙って断頭台のように振り下ろされた。
ベルティモは最後の力を振り絞って斧を持ち上げた。これが最後の防御だと直感した。
ドガァァン!
「ガハッ!」
防ぎはした。だが、それは防いだとは言えなかった。岩山に押し潰されたような衝撃が上体を強打し、ベルティモの体は紙切れのように後ろへ転がった。
視界が白く点滅した。口の中いっぱいに生臭い鉄の味が広がった。彼は唇を噛み、薄れゆく意識を繋ぎ止めてカルヌスを睨みつけた。
だが、もはや指一本動かす力さえ残っていなかった。
彼の視線が、横に倒れたイヒョンに向いた。
「……イヒョン。すまねぇ。俺は……ここまでみたいだ」
血の混じった声は、散りゆく風のように弱々しかった。守ってやるという約束、共に杯を交わそうという誓いが、走馬灯のように駆け巡った。
息をするたびに肋骨が肺を刺した。心臓は不規則に脈打っていた。
「もう楽になれ」
カルヌスが死刑宣告を下すようにビタルムを高く振り上げた。赤黒い気が月光を飲み込み、凶々(まがまが)しく揺らめいた。
『終わりか。本当に……終わりだ』
ベルティモは迫りくる死を直感しても目を閉じなかった。最期の瞬間まで敵を睨みつけること、それが戦士の最後の矜持だった。
剣が虚空を切り裂き、振り下ろされるその刹那。
絶望に満ちた広場の空気を引き裂く、清らかで威厳のある叫びが響き渡った。
「Pallum Consolatio!!!(パルム・コンソラティオ)!!!」
読んでくれてありがとうございます。
読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。




