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祓い屋先輩と呪われた私

作者: みぞれ

 その日は、いつもの湿ったコンクリートの匂いがした。

 ついこの間まで通っていた田舎の中学校とは違って、都会の高校は、どこか人工的な匂いがする。

 それはプールの水も同じで、塩素のツンとした匂いが、私の心臓をいつも鷲掴みにするようだった。


 私がこの街に引っ越してきたのは春休みの終わり頃で、新しい環境に適応しようとすればするほど、何かがずれていく感覚があった。

 まるで、自分が自分じゃなくなっていくような。

 特にプールの授業は、私にとって拷問だった。透明な水が、途端に不透明な何かに変わる。


 初めてそれを見たのは、プールの授業中だった。

 顔を水につけていると、水底に、まるで黒いインクが溶け出したような『何か』が、うごめいているのが見えたのだ。

 形は不定形で、でも確かに(うごめ)いていて、無数の、まるで手のようなものがうねっていた。息が止まった。

 気のせいだ。疲れているんだ、そう自分に言い聞かせた。

 慌てて顔をあげて、再び水底を見たときには、何もなかった。


 でも、それからだ。

 プールどころか、シャワーから流れ出る水ですら、一瞬、青白い顔の集合体のように見える時がある。

 水を飲む瞬間、コップの中で何かが蠢くような気がして、思わず落としそうになったことも数えきれない。

 私の心臓は、薄い氷の上を滑るように不安定だった。

 それは誰にも言えない秘密で、言ったところで信じてくれるはずもない話だから──。


 ある日の放課後、私は誰もいない教室の窓から、グラウンドに水が撒かれているのを眺めていた。

 水が弧を描くたび、その中に歪んだ顔がいくつも浮かび上がり、私の方をじっと見つめているような気がした。錯覚だ、幻覚だ、そう言い聞かせるけれど、心臓の音はうるさいくらいに胸に響く。


「それ、見えてるの?」


 唐突に、背後から声がした。

 心臓が跳ね上がり、振り返る。そこに立っていたのは、一つ上の学年の、美人で有名な(さく)先輩だった。

 すらりと背が高く、長い黒髪を真っ直ぐに下ろしている。表情はどこか掴みどころがなく、けれど射抜くような強い瞳をしていた。

 まるで、この世の全てを諦めたような、あるいは全てを見透かしているような、そんな目。


「え……?」


 声が裏返った。

 まさか、私が見ているものが、この人にも見えているとでも?


「水の中にね、泥がいる。君、それを引っ張ってくる体質みたいだね」


 朔先輩は淡々と言った。

 泥? 私にはそれが、歪んだ顔に見えるんだけど。


「引っ越してきたばかりなんでしょ? 田舎じゃ、そういう水はなかっただろうから、慣れないだろうね」


 その言葉は、まるで私の心を覗いたかのようで、思わず息を呑んだ。


「でも、放っておくと良くないよ。あれはどんどん増えるから。そのうち、君自身が泥に飲まれる」


 彼女の言葉は、真冬に水を浴びせられたかのように、私の思考を凍らせた。泥に、飲まれる?


「何か……できるんですか?」


 私は震える声で尋ねた。

 恐怖よりも、この奇妙な現象から解放して欲しいという微かな希望が、私を突き動かしたのだ。


 朔先輩は私の目をまっすぐ見つめる。

 その瞳の奥には、どこか退屈そうな色が宿っているようにも見えた。


「できるよ。私、そういうの、ちょっと得意だから」


 それが、私と朔先輩の奇妙な関係の始まりだった。


 初めて朔先輩が『祓う』現場を見たのは、数日後、プールの更衣室だった。

 その日は雨で、屋内のプールはいつもより湿気が多く、塩素の匂いが濃く感じられた。

 言われた通りにシャワーを浴びようとすると、排水溝から、まるで生きているかのように黒い髪がうねり出し、私の足首に絡みつこうとした。ぞっとする感覚。体が硬直し、声も出せない。


 ──その時だった。


「おい。そんなに飢えてるなら、私を食べろ」


 朔先輩の凛とした声が響いた。

 彼女は制服のスカートを少し濡らしながら、私の隣に立っていた。そして、掌を排水溝にかざす。

 その手には、いつの間にか、なんだか見ているだけで呪われそうな木の人形が握られていた。


 うねる黒髪は人形にまとわりつき、朔先輩の腕へと這い上がっていく。


 キィイィィィィィィィイイイイイイッ……!


 突然、排水溝の奥から、耳をつんざくような甲高い金切り声が響いた。

 黒い髪は激しくもがき、人形から現れた(いばら)に絡め取られていく。

 茨は髪をまるで餌のように(むさぼ)り、みるみるうちに大きくなっていった。髪が完全に茨に飲み込まれると、茨は排水溝の奥へと流れ込み、そして見えなくなった。


「へぇ、思ったより元気だったな」


 朔先輩は満足げな表情で呟いた。その顔は、ほんの少しだけ楽しそうにも見える。

 私は呆然と立ち尽くしていた。今、一体何が起こった?


「……あの、今のは……」

「私の『茨姫(いばらひめ)』だよ。水の泥を食ってくれる良い子なの」


 そう言って手のひらにある、先程の木の人形を見せてくれた。

 朔先輩は平然としている。イバラヒメ? 水の泥?

 彼女の言葉は、私の理解の範疇を超えていた。


「君の見てるのはね、水に宿る純粋な飢え、なんだよ。水はあらゆるものを吸収してしまう。特に都会の水は、人が多いから(よど)んでしまって泥になる。それを君の体質が引き寄せてるんだ」


 彼女の説明は、あまりにも冷静で、まるで知っていて当然の話をしているようだった。


「その、今の、ってオバケ……なんですか?」

「んー……そうだな。君が『オバケ』って呼ぶなら、それでもいいんじゃない? 私が使役してるのは、そういう分類のモノとしか言えないし。別に幽霊とか、妖怪とか、そういう型にはめる必要もないけどね」


 彼女は私の混乱を全く気にする様子もなく、淡々と説明を続けた。


「まあ基本的には、そういう泥を泥が食って、さらに大きくなる。それだけの存在。君が思ってるより、よっぽど単純な生き物だよ」


 単純……?

 私には全くそうは思えなかった。あの金切り声は、まるで地獄の底から響いてきたようだったのに。


「君に憑いてる泥は、まだちっちゃいから、あんまり強くない。でも、どんどん溜まっていくと、君を水の中に引きずり込もうとするだろうね。都会の水は、どこもかしこも泥だらけだから」


 朔先輩はそう言って、濡れたスカートの裾から、わずかに滲む水滴を見つめた。

 その水滴の中にも、私には何か黒いものが蠢いているように見えた。


「じゃあ……私、どうしたら……」

「……ああ、面倒くさいな」


 朔先輩は、少しだけ顔をしかめた。しかし、視線は私から離さない。


「私が定期的に、君の周りの泥を処理してあげる。その代わり、時々、私の手伝いをしてもらうから。別に好きでやってるわけじゃないからね」


 手伝い?

 私に何ができるというのだろう。口では嫌がるけれど、彼女の目は私を放っておけないと言っているようにも見えた。

 それからというもの、私は朔先輩に呼ばれては、校内のあちこちの水回りを巡ることになった。

 プールの貯水槽、手洗い場の蛇口、非常階段の隅にできた水たまり。


 私が水に近づくと、その水はまるで生き物のように蠢き、奇妙なものが泡のように浮き上がったり、膜のように張られたりする。

 私がその奇妙なものに怯えている間にも、朔先輩は慣れた手つきで木の人形を取り出し、そこから茨や手の形をした『茨姫』を呼び出した。


「こんなに食べたのは久しぶりだね」


 朔先輩は、奇妙なものを貪る『茨姫』を見ながら、時折そんな感想を漏らした。


 ある日、学校の裏にある古びた井戸の前で、朔先輩は立ち止まった。


「ここが一番、溜まってるね。古い土地だから」


 井戸の中を覗き込むと、底には淀んだ水が見えた。その水面全体が、まるで無数の顔が溶け合った、薄気味悪い膜で覆われているように私には見える。

 それは今まで見た中でも最も大きく、はっきりと形を成しているように見えた。

 私の心臓は、警鐘を鳴らすように激しく打ち鳴らされる。吐き気が込み上げてきた。


「この泥は、ちょっと手強いかもしれないな。君の体質も、かなり引っ張られてるみたいだし、巻き込まれたくないなら、近づかない方がいいんだけど」


 朔先輩は、私の顔色を見て言った。

 その言葉とは裏腹に、彼女の視線は私が井戸から離れることを許さないように感じられた。私の手は、無意識のうちに先輩の制服の袖を掴んでいた。


「大丈夫……ですか?」


 私の声は震えていた。


「大丈夫だよ」


 朔先輩は、私の手を見下ろし、それから井戸の中をもう一度見つめた。その表情に、ほんのわずかな集中と、そして、期待のようなものが浮かんだように見えた。


 朔先輩は、いつもより大きな、そして複雑な模様の描かれた布を取り出した。布の上には、いくつもの小さな人形が並べられている。


「これはね、ちょっと変わった子たちだよ。あんまり人前には出したくないんだけど、背に腹は代えられない」


 彼女がそう言うと、人形たちは微かに震えだし、そこから、まるで小さな子供の骸骨のようなものが、ぼんやりと浮かび上がった。

 骸骨は、その空っぽの眼窩で井戸の底を見つめている。


「さあ、行っておいで」


 朔先輩は、小さく指示した。

 すると、骸骨たちは一体ずつ、井戸の中へと音もなく飛び込んでいった。

 ボゴボゴッ、と水面が泡立つ。

 それまで井戸の底を覆っていた膜が、顔が、激しく波打ち、まるで苦痛に歪むように形を変えていく。

 水面から無数の手が伸び、骸骨たちを掴もうとする。しかし、骸骨たちは素早く泥の中を泳ぎ回り、その体で泥を吸い上げていった。


 ア“ア“アア“アアアアアアアアアッッッッ!!!!


 今まで聞いたこともない、凄まじい絶叫が井戸の底から響き渡った。まるで、複数の人間が同時に苦しんでいるかのような声。

 井戸の縁に立っている私の足元が、ガタガタと震える。


「怖い?」


 朔先輩が、私に尋ねた。

 彼女の声は、この騒がしい状況の中でも、なぜか鮮明に聞こえた。


「こわ……い、です」


 正直に答えた。恐怖で全身が硬直し、冷たい汗が背中を伝う。


「まあ、当たり前だよね。でもさ、馴れておいた方がいいよ」


 朔先輩の言葉は、冷たく、そしてどこか突き放すようだった。

 しかしその言葉の裏に、なぜか微かな責任感のようなものを感じた。

 彼女は嫌がっているけれど、私を放っておく気はないのだろう。


 骸骨たちが泥を吸い上げ続けると、井戸の底はみるみるうちに透き通っていった。

 あの無数の顔の膜は消え失せ、残ったのは、ただの淀んだ水と、底に沈んだ本当の泥だけだった。

 やがて、骸骨たちは満足したかのように、ゆらゆらと水面に戻り、朔先輩の手のひらに飛び込んでいく。彼らは再び小さな木の塊に戻り、椿先輩はそれを布に丁寧に包んだ。


「まったく、手間がかかる。もうこんなの付き合わないからね」


 朔先輩は何事もなかったかのように言い放ち、私に背を向けた。

 しかし、その足はゆっくりと、私が追いつける速度だった。


 私はまだ井戸の底を見ていた。もう何もいない。

 でも、さっきまであそこにいた奇妙なモノと、それを貪ったもっと奇妙なモノが、私の脳裏に焼き付いて離れない。


「ねぇ、朔先輩」


 気がつけば、私は彼女に問いかけていた。


「なんで先輩は、こんなことしてるんですか?」


 朔先輩は、少しだけ目を細めた。


「なんでだろうね。昔から、そういうモノが見えたし、そういうモノを扱えたから、かな。あとは……そうだな」


 彼女は井戸の向こうの空を見上げた。青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。


「退屈だったから、かもしれないね」


 その言葉は、どこか私の心に引っかかった。退屈。

 私にとって、奇妙なモノとの遭遇は恐怖でしかないのに、彼女にとっては、退屈を埋めるためのものなのだろうか。


「私、朔先輩の隣にいたら、いつか慣れますか?」


 私は無意識のうちに尋ねていた。

 この異常な世界に慣れること。そして、この掴みどころのない先輩の隣にいることに。

 朔先輩は、一瞬だけ目を見開いたように見えた。そして、ふっと小さく笑った。


「さあね。でも、君が隣にいてくれるなら、少しは刺激的になるかもしれないね」


 その言葉は、まるで水面に落ちた小石のように、私の心に小さな波紋を広げた。刺激的。

 私はまだ奇妙なモノが怖い。水に近づくたび、心臓は跳ね上がるし、吐き気もする。

 でも、朔先輩の隣にいると、この得体の知れない恐怖が、ほんの少しだけ、奇妙な好奇心へと変わっていくような気がした。


 これから私は、朔先輩の隣で、どんな奇妙なモノたちと出会い、どんな奇妙な出来事を見るのだろう。

 都会での生活は、私が想像していたよりも、ずっと奇妙で、そして退屈ではないものになりそうだった。


 ──そして、彼女はきっと、口では嫌がりながらも、私の隣を歩いてくれるのだろう。

初めて短編のホラー書いてみましたが、どうですかね?

ブクマ、評価していただけるとすごく励みになります(/ω・\)チラッ

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