第七一話 黒の儀式、始動
「……では、始めよう」
バレノスが静かにそう告げると同時に、太陽の間の空気が揺れた。
足元の黒ずみが脈動をはじめ、祭壇を囲う魔法陣が禍々しく光を放つ。
「汝の絶望を、神々に捧げよ」
オルヴァンが低く呟いた瞬間、ミルフィの体を覆っていた黒ずみが波のように動き、彼女の両腕、両脚、腹部、喉元へと這い上がっていく。
「やめて……!」
ジウイの叫びがこだまする。
次の瞬間――
ミルフィの体がびくりと跳ねた。黒ずみがその内側に侵入したのか、喉の奥からかすかな呻き声が漏れる。
彼女のまぶたがぴくりと動き、意識が戻りかけていることが伝わってくる。
「ミルフィ……!」
ジウイの手が前に出かけた、その瞬間。
「まだです、ジウイくん!」
リューンが一歩、強く踏み出し、両手を広げると、青白い光の障壁が展開された。
障壁は、黒ずみの触手の一部を弾いたが、次々に打ちつけられる衝撃で光が揺らめく。
リューンの額に玉のような汗が浮かび、その魔力の消耗が激しいことが見てとれた。
「この程度……まだ、持ちます……っ」
リューンは歯を食いしばり、足を踏みしめる。
その障壁がなければ、ミルフィの命はすでに絶たれていたかもしれない。
「おや、随分と粘りますね」
オルヴァンが皮肉交じりに言った。
「創造の器はすでに揺らいでいる。あとは、その心を折るだけ……。リューンその命の炎でどこまで持ちこたえられるかな?」
バレノスの目には、まるで炎の灯りが消える瞬間を見届けるような、冷酷な興味だけが宿っていた。
ジウイは、リューンの背中越しに、黒ずみに苦しむミルフィの姿を見つめる。
拳を強く握りしめたその手が、震えていた。
「……ごめん、ミルフィ……私、まだ……どうしたら……」
その小さな声は、誰にも届かない。
ただ一人、カイルだけがその震えに気づいたように視線を向けると、壁際へと静かに移動し、背後の壁を確かめるようにその手で触れていた。
ジウイの目に、かすかに光の模様が浮かび始めていた。
それは彼女自身すら気づかぬまま、彼女の奥底で脈打つ力――創造の力の完全なる覚醒へと繋がる兆しだった。
リューンは、それを見逃さなかった。
「……!」
黒ずみの結界を維持する魔力が、容赦なく体力を奪っていく。
すでに膝は震え、視界もぼやけ始めている。
それでも、彼は微笑んだ。
苦しみを隠すような、誰かを安心させるための、優しい笑みだった。
「ジウイくん……」
リューンは、微かに震える声で、しかし確かな意志を込めて言葉を紡いだ。
「決して、自分の心を手放してはなりません……あなたは、この世界の……希望です」
ジウイの肩が、小さく揺れた。
「あなたを絶望させはしません。私が……絶対に、させない」
その一言が、ジウイの中に激しく渦巻いていた感情に、ひとつの楔を打ち込んだ。
涙のにじむ視界の中で、ジウイは微かに頷いた。
(私……まだ、描いてない……何も……)
目をそらしてはいけない。
たとえ今この瞬間が、絶望の淵に見えても――。
リューンは心の中で言葉を続けていた。
(ジウイくんが……ここで力を暴走させれば、封印は完全に解ける……その瞬間、大司教たちはミルフィを……)
だからこそ、ジウイの心が折れるその刹那まで、ミルフィは殺されない。
あくまで彼女の命は、ジウイの心を壊すための「鍵」。
ならば――今は、まだ……まだ時ではない。
リューンは自身の判断にすべてを賭ける決意を固めた。
「……少しだけ、時間をもらいますよ。勝手な、お願いですがね……」
そう呟くと、リューンの両腕がゆっくりと上がる。
詠唱が、静かに、しかし力強く始まる。
「風よ……光よ……我が命の燈火をもって、理を捻じ曲げよ――」
バレノスの顔色が変わった。
「何を……? まさか、おまえ――!」
「封鎖します。ここに流れ込む魔力の、すべてを」
リューンの足元に、複雑な魔法陣が浮かび上がる。
それは彼の一生をかけて構築してきた魔術体系、その極点。
自身の魔力だけでなく、命そのものを燃料とする、禁断の一撃。
「ジウイくん、目を閉じて」
リューンがそう告げた瞬間、太陽の間が青白い閃光に包まれた。
光は黒ずみを押し返し、空間そのものを数秒間、静止させたかのようだった。
祭壇の上のミルフィの苦悶も、黒ずみの動きも、一瞬止まる。
ただ、魔力の余波で周囲の大理石に亀裂が走り、壁がきしむ。
「なっ……馬鹿な……これは――!」
バレノスが身を守るようにマントを翻し、オルヴァンは顔をしかめて一歩退いた。
「……これで、少しだけ……時間が稼げましたよ」
リューンの膝が、がくりと崩れた。
魔力障壁はまだ残っていたが、光の輝きは明らかに弱まっている。
だが、彼の表情は満足げだった。
「間に合え……誰か……」
その声は、誰にも聞こえなかったかもしれない。
けれど、確かにこの一瞬で、彼が全力で戦場を繋いだことだけは――
ジウイも、カイルも、そしてミルフィも、心のどこかで感じ取っていた。
青白い閃光に包まれた空間の中で、すべてが一瞬だけ静止していた。
黒ずみの触手も、呻き声を上げていたミルフィの苦悶も、封印の祭壇にすがるように立つバレノスとオルヴァンの動きも――。
そして、青白い炎をまとうオオカミのアニマすら、その場でぴたりと止まっている。
まるで時が凍りついたかのような、異様な沈黙。
その静寂を最初に破ったのは、カイルだった。
「……今だ!」
壁際に控えていたカイルが、音もなく床を蹴る。
疾風のごとく飛び出し、動かぬ黒ずみに侵された神官たちの間を縫って突き進む。
反応できない彼らを、無駄なく、迅速に――時に剣で払い、時に拳で沈め、蹴散らしていく。
「邪魔だ!」
一直線に、大司教へと距離を詰めるカイル。
その動きには、一切の迷いも、ためらいもなかった。
バレノスが、はっと顔を上げる。
「……ッ!」
だが、次の瞬間。
空間を満たしていたリューンの魔力が限界を迎えた。
「くっ……!」
彼の全身から、バチン、と火花が散るように魔力が逸れていき、静止していた黒ずみたちが一斉に蠢きを取り戻す。
「ちぃっ、間に合わねぇか!」
カイルはすぐさま状況を判断し、即座に跳躍してその場を離脱。
迫りくる黒ずみの触手を紙一重でかわしつつ、宙返りの勢いを利用して安全圏へと戻る。
その顔に焦りはなく、むしろ冷静そのものだった。
「悪ぃ、ジウイ。……もうちょっとだった」
「ううん、ありがとう……カイル」
ジウイは小さく応じたが、その声にはまだ力が戻っていなかった。
それでも、リューンの言葉が彼女の心に楔を打ち込み、カイルの行動が彼女の意志を支えていた。
その刹那。
再びうごめき始めた黒ずみの中で、ミルフィが微かに呻き声を上げる。
バレノスとオルヴァンが、再び掌を重ね合わせ、何かを呟く。
「儀式の継続だ。さあ、絶望をその目に――」
しかし、誰よりも早く動いたのは、リューンだった。
「……まだです。私は……まだ終わってませんよ」
限界を越えてなお、立ち上がろうとするリューンの姿に、太陽の間の空気が再び、張り詰めた。
読んでいただきありがとうございます。
ブックマーク・評価・感想いただけますと大変励みになります。
---------------------------------------
毎日3回程度投稿しています。
最後まで書ききっておりますので、是非更新にお付き合いください。




