第五五話 ―大聖堂にて―
重厚な扉が静かに閉じられると、部屋の中には緊張が張り詰めた空気が広がった。
ここは、大聖堂の奥にある大司教専用の私室。その静けさは、あたかも外界の騒乱を拒むかのようであった。
窓辺にはひとりの男――オルヴァン・カイレ大司教が、手にした報告書を読みながら立っていた。
淡くゆらめく燭火が、その理知的な顔に深い陰影を落とす。
「……まさか、創造の力の“アニマ”が、ここまでの影響を及ぼすとはな」
静かにそう呟いたオルヴァンに対し、部屋の奥に控えていたもうひとりの大司教が、苦々しく応じる。
「鳥の姿をしたアニマが現れた直後、研究施設は襲撃を受けた。あれは偶然ではない。いや――意図的だ」
その男は、長身で鋭い目を持つ、いかにも権力に染まった雰囲気を漂わせる人物だった。
黒と銀の刺繍をあしらった法衣を身にまとい、オルヴァンとは違い、まったく笑みを見せない。
――名は、バレノス・デ・ヴェイル。
これまで“黒幕”と目されていた、大聖堂の実質的な実力者にして、三大司教のひとりである。
「研究施設の隠蔽魔法は、通常の探知では見破れぬはずだった。……だが、確かに奴らはそこに辿り着き、我々の“成果”であるトロールを打ち破った」
バレノスの声には怒りよりも、分析に近い冷静さがあった。
「撤退した部下が言うには、背後から“白い光”が放たれたという。詳細は掴めていないが、恐らく――アニマが絡んでいる」
「それだけで、あのトロールを倒したというのか?」
「そうとしか考えられん。密偵の報告によれば、トロールの死体は“黒ずみ”が剥がれた状態で発見されていた。
まるで……浄化されたかのようにな」
オルヴァンが眉を寄せた。
「黒ずみの“力”を、打ち破った?」
「そして、それを目撃された可能性が高い。既に、ジウイという少女が“創造の力”を操っているという情報は、我々の耳にも届いていた」
「……それが黒ずみの“対抗手段”であるなら」
「ならば、放置する理由はない」
部屋に重たい沈黙が落ちた。
オルヴァンは視線を横に向ける。
室内の隅、鉄格子越しに設けられた小さな部屋に、憔悴した様子のガリエル大司教が静かに座っていた。
目を閉じ、祈りを捧げるように両手を組んでいるが、その指はわずかに震えている。
「……彼が解放されたら、我々の計画は露見する。今こそ決断すべきではないか?」
バレノスは、表情ひとつ動かさず言った。
「研究施設に繋がっていた魔法陣は破壊したが、痕跡は完全には消しきれなかった。あれで、王家は“何か”を察しただろう。
……いずれにせよ、もう我々が“隠れて行動する”段階ではなくなった」
「正面から、動くということか」
「ああ。ジウイという少女――彼女が“鍵”だ。黒ずみに対抗しうる力があるのならば、必ず我らの手に取り込む。
拒むのならば……その力ごと、封じるまでだ」
オルヴァンはしばし黙っていたが、やがてゆっくりとうなずいた。
「その場合、彼女の側にいるであろう者たちが黙っているとは思えないが……」
「我らに時間はない。王国がこの創造の力を希望の力として表に出せば、間違いなく民の意識はそちらに傾く」
バレノスの目が細く光った。
「……希望を見せる者は、導く存在にもなるが、同時に最も狙われやすい存在でもあるのだよ」
オルヴァンは再び窓の外を見た。
バレノスの言葉に、オルヴァンは少しだけ逡巡の色を見せた。
だが、それもわずか数秒のこと。
長く“正義”を信じてきたはずの心は、既に揺らぎ、現実の重みに沈んでいた。
「……やはり、リューンは裏切っていたと見ていいな。
あの男が王子に付いていた時点で、懸念はしていたが……創造の力が絡むとなれば、間違いなく噛んでいる」
「王家も、そしてジウイという少女も。すべて彼の“導き”の上にあると考えるべきだろう。
……だとすれば、今こそ“因果”にケリをつけるときだ」
バレノスが、ゆっくりと足を動かす。
そのまま、部屋の一角――格子で区切られた牢の前に歩み寄る。
オルヴァンも黙ってそれに従った。
中には、未だ祈りの姿勢を崩さないガリエル大司教の姿がある。
その痩せた横顔には、清廉さが残っていた。
長い間、民のために祈りを捧げ、力を使い、病者や貧者に救いの手を差し伸べてきた聖職者。
だが、今や彼は“大聖堂の理念”に反する存在として、同僚によって幽閉されている。
「哀れなものだな。……まだ祈っている。どこへ届くと思っているのか」
オルヴァンの呟きに、バレノスはわずかに笑った。
「祈りは届かなくとも、意志は利用できる」
「……あれを使うのか?」
「ああ。“黒ずみ”は、もはや“汚染”などではない。“力”なのだ。
誰がそれを持ち、どのように使うか……それだけのこと」
オルヴァンが眉をひそめた。
「彼を“コマ”にするのは、さすがにやりすぎではないか?
……我々にも、分別というものがあるはずだ」
「分別などと笑わせるな。奴は既に裏切った。
この大聖堂に牙を向けた時点で、“人”としての道を捨てたのだ。
ならば、こちらも“情”を捨てて応じるだけだ」
檻の前でバレノスが立ち止まる。
薄く笑いを浮かべ、懐から小さな漆黒の小瓶を取り出した。
瓶の中では、ねっとりとした黒い液体が揺れていた。
それはただの液体ではない。意志を持つかのように、瓶の内側を這い回っている。
「ガリエル。……お前の“善意”も“信念”も、すべて黒ずみの底に沈むがいい。
そして――お前が信じた者たちを、この手で引き裂いてやれ」
扉が、無言で開かれた。
二人の大司教が、黒い小瓶を手に、沈黙のままガリエルの元へと足を踏み入れる。
静寂の中、ろうそくの炎がかすかに揺れた。
そして、大聖堂にまたひとつ――取り返しのつかない罪が、積み重ねられようとしていた。
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