第四一話 空に描く道
昼過ぎの陽が、石造りの広場にやわらかく差し込んでいた。
案内されたのは、王城の中庭のさらに奥、重厚な扉の先にある円形の空間。高い石壁でぐるりと囲まれたその広場には天井がなく、空が大きく広がっていた。
「……ここ、だったよね」
ジウイは、以前この場所でアニマの召喚実験を行ったことを思い出しながら、広場の縁に立った、胸の奥に少しだけ緊張が走る。
すでに数人の術者たちが、広場の周囲に等間隔で立っていた。彼らは結界の強化を担当する者たちで、魔力を込めた印を静かに地面へと刻みながら、儀式の準備を進めている。
その配置は正確に六か所。結界の支柱となる彼らの存在が、空間全体を静かに、だが確かに封じていた。
「結界……強化されてる」
カイルが小声で呟くと、ミルフィが横でうなずいた。
そのとき、視線の先に、見慣れた金色の髪が光を弾くように揺れた。それはこの作戦の責任者である第三王子その人だった。数人の近衛を従えて、落ち着いた足取りで広場へと入ってくる。
「ようこそ」
リューンが出迎えると、王子は軽く一礼を返した。その表情は真剣で、どこか張り詰めているように見える。だが、ジウイと目が合うと、やさしく微笑んだ。
「ジウイ、ありがとう。無理はしないで」
「……はい」
王子様はやさしくて、本当に王子さまだわ。そんなことを思っていると
そのやりとりを、少し離れた場所から見守っていた母が、ふとこちらに歩み寄ってくる。
「大丈夫? 緊張してる?」
その声はやわらかく、ジウイの胸の奥まで温かく染みわたった。
「ちょっとだけ。でも……描いてみるって決めたから」
ジウイの声は落ち着いていたが、手の中のスケッチブックを握る指先には、かすかに力が入っていた。
「そう。偉いわね」
母はそっとジウイの肩に手を置き、小さく言葉を添える。
「無理しないでね。うまくいかなくても、今日じゃなくても、何も問題ないんだから」
「うん……ありがとう」
ジウイはこくりとうなずいて深呼吸をひとつした。
リューンが、ゆっくりとジウイのそばへ歩いてくる。
「準備は整っています。描画に必要なものもすべて用意しました。……いつでも始めていただいて大丈夫です」
その声は穏やかで、どこまでも安心感を与えてくれるものだった。
ジウイはスケッチブックを受け取り、足元を見つめる。そして、一歩、また一歩と広場の中央へと歩いていく。
円の中心に進むにつれ、空気がわずかに変わっていくのを肌で感じた。だが足取りは揺るがず、しっかりと自分の意思で踏み出していた。
周囲は静かだった。風が石壁を抜け、遠く空の音が響いている。
ジウイは、そっとスケッチブックを開き、ひざをついて構えた。
ジウイは、広場の中心でスケッチブックを膝に広げ、ゆっくりと筆を取った。
広場の周囲では、結界術者たちが静かに詠唱を始めている。だが、その声すら遠く感じるほど、ジウイの集中は深く静かなものだった。
「今回は……普通の鳥」
自分に言い聞かせるように、小さくつぶやく。
スズメか、カラスか。よく見かける、ごくありふれた小型の野鳥。
目立たず、誰も気に留めない存在。
けれど、ジウイのアニマは絵から生まれる。これまでは、絵そのままの形で動いていた。可愛く、わかりやすく、そして少し浮いていた。
「でも今回は……違う」
鳥に見える絵じゃなくて、本物の鳥に見えるように。
そう思って、ジウイは筆を走らせる。
──小さな丸い体。軽く逆立った羽毛。鋭くも臆病そうな目。細くとがったくちばし。
羽ばたく動きまで想像しながら、線を重ねる。
(遠くまで飛んでもらわないといけないんだ)
王城の高い塔を越え、大聖堂を通過して、さらに王都の東の外れに広がる穀倉地帯まで。
「……目で追えないほど遠く」
今まで、そこまでアニマに“任せた”ことはなかった。
せいぜい、ギルドの依頼で部屋の隙間に落ちた鍵を、ネズミのアニマに取ってきてもらった程度。
だが今回は、命令も、軌道も、消える場所までも、すべてを絵に託さなければならない。
「ルート……ちゃんと描かないと」
鳥の横に、王城の尖塔を描き、そこから空へと上る細い軌道線をなぞるように描く。
続けて、大聖堂の尖った屋根。その向こう、王都の外に広がる穀倉地帯の輪郭も――小さく、けれど丁寧に描いた。
「飛びすぎないように。通過して、最後は……消えて」
想像の中で何度もその鳥を飛ばし、消す場面までを思い浮かべる。
「ここで終わるんだよ」
絵の端に小さな“しるし”を描き加えた。ジウイは心の中で、それは「消滅」を意味する特別な印だと念じる。
そして筆先が止まる。ジウイはそっと息を吐いた。
そこには、一羽の鳥と、その鳥だけが理解できる旅路の地図が描かれていた。
(お願い。描いたとおりに、飛んで……)
彼女の手の中で、スケッチブックの中の鳥が、ほのかに光り始めた。
ふわり、と空気が揺れた。
次の瞬間、スケッチブックの上に描かれていた鳥が、まるで絵から滲み出すように淡く光り、輪郭を確かにしていく。
出現したその鳥は、スズメに似た小さな体を持ち、羽の模様や色合いまで、実際の野鳥と遜色ない自然な姿をしていた。
いや、むしろあまりに自然すぎて、本物と間違えるほど――
「……ほんとに、鳥みたい……」
ジウイが呟くと、鳥はぴくりと頭を動かして彼女を見た。
つぶらな瞳が、ジウイの目をまっすぐにとらえる。
次いで、ふわっと羽ばたき、ジウイの周りを二周、三周と軽やかに旋回した。
その羽ばたきに風が舞い、ジウイの髪がそっと揺れる。
そして鳥は、迷いなくジウイの手にとまり、彼女の顔をじっと見つめた。
ジウイもまた、その視線をまっすぐ受け止める。
(わかってる? ちゃんと伝わってる?)
小さく首を傾げたあと、鳥はジウイの瞳の奥をじっと見つめた。
まるでその奥に込められた“絵の意味”を探るように。
……そして、微かに頭を下げるような仕草を見せたかと思うと――
ぱっと羽を広げ、一気に上空へと飛び立った。
軽やかでまっすぐな飛行だった。小さな影は、王城の壁を越え、塔を越え、空の高みに向かって一直線に進んでいく。
それを見送るジウイの目には、わずかな不安と、それを押しのけるだけの決意が滲んでいた。
「……行ってらっしゃい」
鳥はやがて、空の彼方へと消え、肉眼では見えなくなっていった。
*
その様子を、石壁の陰からじっと凝視しているおぼろげな影があった。
高い石壁に囲まれたこの円形の空間では、外部からの視線は届かない。
だがその人物は、まるで最初からそこに存在していたかのように、壁の装飾のひとつに紛れて潜んでいた。
黒いフードを深く被り、顔は見えない。
気配は薄く、魔法による認識阻害がかけられているのだろう。そこに誰かが立っているという事実すら、周囲の誰にも気づかせない。
(……あれが、創造の力)
低く押し殺した思念が、空気の中に沈む。
その視線は飛び立つ鳥ではなく――それを生み出した少女へと、まっすぐに向けられていた。
無感情のようでいて、どこか苛立ちにも似た熱を帯びた視線。
理解しようとする目ではない。ただ、観察する者のまなざしだった。
鳥が天へと飛翔し、王城の空へ吸い込まれていくのを見届けたその瞬間、
その影は何の音も残さず、すっとその場から姿を消した。
風がふわりと吹き抜け、誰もいなかったかのように、その場所には静寂だけが残された。
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