第二四話 銀の神官
——もう、逃げ場がない。
スラム街の迷路のような路地裏。
瓦礫の山をすり抜け、水のたまった溝を飛び越え、私たちはただ走り続けていた。
だが、いつの間にか背後からの気配は増えていた。
逃げても、逃げても、包囲は狭まる一方だった。
「ジウイ、止まらないで!」
ミルフィが前を走りながら叫ぶ。
その額には冷や汗がにじみ、視る力を使い続けた負荷に目がわずかに赤く染まっていた。
私は走りながら、カイルの背中に問いかけるように目をやる。
だが彼もまた、口を真一文字に結んでいる。
このままだと——
その瞬間、通りの角を曲がった先に、黒ずんだ目をした男たちが立ちはだかった。
歪んだ笑み。虚ろな視線。
人間でありながら、人間ではないような——黒ずみに取り憑かれた者たち。
「——くそっ、こっちも塞がれてる!」
カイルが立ち止まり、剣に手をかけた。
私の目の力を使ったら、この黒ずみに汚染された人たちを倒すことができるのかもしれない。そう思うのだが、もしあの鹿のように死体だけが残るのだとしたら、その思いからジウイは目の力を抑え込もうとしていたのだった。
だがそのとき——
静かに、だが確かに響く足音が、別の通りから近づいてきた。
ひとつ、またひとつ、重厚な靴の音が、瓦礫の石を鳴らしながら迫ってくる。
そして、闇の中から一人の男が姿を現した。
銀髪をオールバックに撫でつけ、深緑の法衣をまとい、手には一本の杖。
年のころは五十代。
目を細めて柔らかい微笑みを浮かべている、まるで何もかもを包み込むような柔らかさを見せる。
「困っているようだね、君たち」
優しい、だが芯の通った声。
私は思わず一歩引きそうになる。けれど、どこかで見たことのあるような、そんな感覚が胸をよぎる。
男は、私たちに一度だけ視線を送り——それから、杖の先で静かに地を打った。
杖で打たれた地面から光の粒が広がり、黒ずみに汚染された男たちの周囲に輝く光の壁が出来上がっていた。
黒ずみに包まれていた人々が、一瞬動きを止めたが壁を破ろうとしているのか体当たりをし始めた。
「えっ……?」
呆然とする私たちの目の前で、男はひとつ、ため息をついた。
「あまり長くはもちませんので、こちらへ」
その肩に、小鳥のアニマがふわりと降り立つ。
私が描き、送り出した、小さな希望の使者。
男は笑みを浮かべ、私に向かって一歩近づく。
「ジウイくん。はじめまして。……私は《神官リューン》。
かつて王家と大聖堂の両方に仕えていた者だ。話したいことが、たくさんある」
「……今は、信じてついてきてください。君に、真実を伝える時が来たのですから」
案内された先は、スラム街の外れにひっそりと建つ古い煉瓦造りの建物だった。かつては倉庫か工房だったのかもしれない。外観は廃墟同然だったが、中に足を踏み入れると、驚くほど整理されていた。
木製の長机と、使い込まれた革張りの椅子。壁には薬草が吊るされ、窓の隙間からはやわらかな日差しが差し込んでいる。部屋の隅には、アニマのための止まり木や巣のようなものも設けられていた。
「……まるで、隠れ家ね」
ミルフィが周囲を見回しながら、ぽつりとつぶやいた。
「どうぞ、安心してください」
リューンは穏やかに言い、机の上に用意してあった陶器のポットから湯気の立つ飲み物を注ぐ。「魔力の探知結界も張ってありますし、ここを知る者はほとんどいません。少なくとも、今夜は追手の心配はないでしょう」
ジウイたちはしばらく立ち尽くしたまま、お互いに視線を交わす。警戒心が消えたわけではない。だが、ようやく呼吸が整い、心臓の鼓動が少し落ち着いた。
「……助けてくれて、ありがとう」
ジウイが先に口を開いた。慎重に、それでもまっすぐにリューンを見て。
「お礼は後でもいいのですよ。でも、礼を言える余裕があるのは、いい兆候だ」
リューンは微笑み、椅子を勧めた。「少し座って、落ち着いてください。ここなら安心して話ができます」
カイルはまだ剣の柄に手をかけたままだったが、ジウイが静かに頷くと、わずかに肩の力を抜いて椅子に腰を下ろした。ミルフィも黙って席につく。
香草の香りが湯気とともに立ちのぼり、ようやく、張り詰めていた空気がやわらぐ。
小鳥のアニマがリューンの肩から飛び立ち、ジウイの膝にとまった。
「……君が描いたアニマは、まっすぐな心を持っている」
リューンが言った。「だから、私の元に来てくれた。君の力には、まだまだ可能性がある」
「あなたは、私の力のことを知っているの?」
ジウイが問うと、リューンはすこしだけ目を細めて笑った。
「もちろん。知っていることもあれば、知らないこともある。だがまず、君たちに話さなければならないことが、たくさんある。そして、それを話すためには——君たちが“どこまで知っているか”を、先に聞かせてほしい」
ジウイは一度、湯気の立つカップを見つめた。
その奥で、長く封じてきた記憶の扉が、少しずつ開きかけていた。
リューンは、湯気の立つカップに軽く口をつけてから、ゆっくりと顔を上げた。
その目はまっすぐに、だがどこか優しげにジウイを見つめている。
「ジウイくん。ひとつ、聞かせてもらえますか」
「……はい?」
不意に名前を呼ばれ、ジウイは姿勢を正した。
「君は、ご両親と、いつから今の村に暮らしていたか……覚えていますか? 村に来る前、どこで暮らしていたか、どんな景色を見ていたか——思い出せますか?」
問いかけは穏やかだった。けれど、それを聞いた瞬間、ジウイの中に、どこか冷たい風が吹き抜けた。
言葉が、出ない。
「えっと……」
ジウイは戸惑いながら、頭を押さえた。
村での暮らしは、確かにあった。父と母、静かな家、森、アニマたち。
でも、それ以前は——?
……何も、出てこない。
草のにおい、母の声、父の手のぬくもり。それらは確かにある。だが、「それより前」の記憶が、ぽっかりと抜け落ちている。まるで、はじめから存在しなかったみたいに。
「おかしい……」
ジウイはつぶやいた。「言われるまで、考えたこともなかった。なのに……」
「それが普通の反応です」
リューンは静かに言った。「記憶の欠落というのは、日常に埋もれてしまうと、気づかないまま何年も過ぎるものです」
ジウイの手が、そっと膝の上で握られる。
「どうして……? どうして今まで気にしなかったんだろう。おかしいのに。気づいてもよかったはずなのに……」
「気づかせないように、何かが作用していたのかもしれません」
ミルフィがぽつりと言った。「魔法か、結界か、あるいはもっと根本的な……“記憶の結び目”が、作られていたのかも」
「記憶の……結び目……?」
「時間の中で、特定の記憶を封じたり、違う形で“偽って持たせる”技術です。探求の一族では、古い文献に記録があります。……ただ、実行するには、かなり高度な力が必要なはず」
ジウイは言葉を失い、ただ胸の奥にぽっかりと空いた空白を見つめていた。
何かが始まっている。その予感が、鼓動とともにじわじわと迫っていた。
読んでいただきありがとうございます。
ブックマーク・評価・感想いただけますと大変励みになります。
---------------------------------------
毎日3回程度投稿しています。
最後まで書ききっておりますので、是非更新にお付き合いください。




