第二一話 ミルフィの決意
王都の図書館の空気はまだ脳裏に残っていた。
歴史の重みを感じさせるあの書架、風に揺れる古文書のページ、そして——視た、あの記憶。
「少し……休むわ」
図書館から戻る途中、ミルフィはそう言って二人と別れた。
テントに戻ると、夕方の街の喧騒が遠くから届いてくる。ここは冒険者広場の一角、テントが立ち並ぶ小さな区画だ。
周囲では焚き火の音や調理の匂い、人の笑い声もするけれど、彼女の耳にはまるで届かなかった。
ミルフィはそっとテントの幕を閉じ、荷物の隅に丸めた毛布にくるまるように身を横たえた。
重力が、思考ごと身体を押しつぶしていくような感覚。
——創造と黒ずみ。
ジウイの中にある、相反する二つの力。
あの瞬間、確かに視た。けれど、どう受け止めればいい?
(どうして、ジウイが……)
ミルフィは目を閉じて、静かに息をつく。
創造する力。それは「神祝福」のなかでも特異なもので、本来なら人の身に宿るはずのない規模の力だ。
そして黒ずみ——それは本来、力が破綻したときや、世界の均衡が崩れたときに生まれる「歪み」のはず。
両方を宿しているなら、ジウイは世界の矛盾そのものかもしれない。
(なのに……あの子は、何も知らずに笑ってる)
スケッチをするときの無垢な横顔。
小動物のアニマと戯れる姿。
それらを思い出して、胸が少しだけ痛んだ。
(本当に知らないの? それとも、気づいてるのに隠してるの?)
問いは宙に浮いたままだ。
ミルフィは軽く額を押さえる。視る力を使った反動で、こめかみの奥がじんじんと鈍く痛む。
けれどこの痛みは、自分が誰よりも深くジウイを見つめようとした証でもあった。
(……この先、何があっても)
(私が、ジウイとカイルを守る。そう決めたんだもの)
夜風がテントの隙間から吹き込む。
街の灯は遠く、彼女の中だけに小さな火が灯っていた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
テントの外はすっかり夜の帳に包まれ、かすかに星が瞬きはじめていた。
ミルフィは体を起こし、テントの隅に置いていた小さなランタンに火を灯した。
炎のゆらぎが柔らかい影を壁に投げる。まるで、自分の心の迷いを映しているようだった。
(ジウイの中にある、創造の力と、黒ずみ……)
ミルフィはそっと膝を抱え、顎を乗せた。
(あれは偶然なんかじゃない。必然。あの子がこの旅に出たことも、私たちと出会ったことも)
そんな風に思えてならなかった。
ジウイは笑っている。無邪気に、明るく。
でもその内側には、本人すら気づいていない深い闇が潜んでいる。
そしてその闇の中には、きっと世界の真理に通じる何かがある。
(あの子のことを知りたい。だけど、全部を背負わせたくはない)
それがミルフィの本音だった。
ギフトの真実。封印の意味。王家と大聖堂の緊張関係。
ひとつひとつが、普通の人間には触れることさえ難しい。
でもジウイは、それらの中心にいる。運命に引き寄せられるように、王都にまで来た。
(もしあの子自身が“封印の鍵”だとしたら?)
(ならば、この旅の終わりは——あの子の終わり、にも……?)
思考がそこで止まった。
胸の奥に重くのしかかるものに、息が詰まりそうになる。
けれどそのとき、ミルフィは小さく首を振った。
「違う。終わらせたりしない」
誰にも聞かれない声で、でも強く、そう呟いた。
——私は視る力を持っている。
だからこそ、何かを背負わせる前に、その意味をちゃんと見極めたい。
そのためには、もっと深く、真実に近づかなくてはならない。
(誰に会えば、それがわかるの……?)
目を閉じ、意識を沈める。
闇の奥に、自分の問いが吸い込まれていくような感覚。
——誰かがいる。
すべてを知っていて、けれどそれを語らない誰か。
(探さなくちゃ。私が会いに行かなくちゃ)
(この旅の終わりが、笑顔で迎えられるように)
やがて、ミルフィはそっと立ち上がり、テントの外を見つめた。
静かな王都の夜。
その先に、答えはある。
ランタンの火を吹き消し、テントの布を静かにめくる。
ミルフィは夜風の冷たさに肩をすくめながら、外へと足を踏み出した。
空には雲がかかり、月明かりもまばらだ。
大聖堂までは夜道を抜け、警備の巡回をかわさなくてはならない——けれど、それでも行かなければならない。
(ジウイを守るために。真実を知るために。私が、やらなくちゃ)
自分のギフトが危険を伴うものであることは、誰よりも理解している。
そして、それを使う場所が大聖堂であるなら、なおさらだ。
権威の象徴。聖域。そこに侵入し、ギフトを使うというのは——いわば、罪に等しい。
でも。
(やらなければ、見えないものがある)
ミルフィは呼吸を整え、歩き出そうとした。
「——どこへ行くつもりだ?」
背後から、低く静かな声がした。
ビクリと肩を揺らし、振り返ると、そこには焚き火の影から抜け出したカイルが立っていた。
闇に紛れるようにしていたにもかかわらず、その存在は揺るぎなく、まるで最初から知っていたかのような視線でミルフィを見ていた。
「……気配、隠してたはずだけど」
「隠しきれるほど、今のミルフィは冷静じゃない。焦ってる時の足音って、案外うるさいもんだぜ」
カイルはゆっくりと近づいてくる。
「一人で行く気だったんだろ。大聖堂に」
ミルフィは無言のまま、唇を噛んだ。
「……誰にも迷惑かけないように、って思っただけよ。誰かに危険が及ぶなら、私一人で背負えばいい。そう思っただけ」
その言葉に、カイルは鼻で笑った。
「それが“優しさ”だと思ってるのか?」
ミルフィは、言葉を詰まらせた。
「お前が何を視たかは知らない。だけど、何を知ろうとしてるのかは、だいたい察しがつく。ジウイに関することだろ?」
驚いたように、ミルフィが顔を上げる。
「……どうして」
「俺たちはもう、ただの旅の仲間じゃない。違うか? ここまで来たんだ。一緒に考えようぜ。支えるって、そういうことだろ」
カイルの言葉は、決して強くはなかったが、どこまでもまっすぐだった。
それは、ミルフィが今一番欲しかった言葉だったのかもしれない。
「……ほんと、あなたって、ずるいわ」
ミルフィが小さく笑った。
しばらくの沈黙が流れた。ミルフィの視線はまだ夜の向こう、大聖堂の方向に残されていた。
だが、カイルはそっと手を伸ばし、その肩に触れた。
「——俺も本当は、今すぐにでも行こうって言いたいところなんだけどな」
その手は、戦士らしい硬さと、どこかあたたかさを持っていた。
「でも、ジウイを一人で残すのは……それはそれで、危なっかしい気がしてな」
ミルフィはふっと口元を緩めた。
「……否定は、できないわね」
「だろ?」
カイルは肩をすくめ、少しだけ空を見上げる。
「そもそも、大聖堂は王家にとっても神聖な場所のはずだ。下手に騒ぎでも起こしたら、向こうの目も厳しくなる。今はまだ、時期じゃない」
彼の声には珍しく慎重さが混じっていた。
「だから、こうしよう。大聖堂に潜る前に、王家のほうに当たる。——危険はあるが、あっちはまだ“話ができる相手”かもしれない」
ミルフィが眉をひそめる。
「でも、どうやって王家に接触するの? さすがに私たち、名もなき旅人よ?」
カイルは、ふっと片目をつぶって笑った。
「ジウイのアニマを使う。あいつのギフトなら、城に潜り込む必要はない。メッセージを届けるとか、目立たず何かを動かすくらいなら……やれるさ」
ミルフィは、しばし考えるように目を伏せたあと、小さくうなずいた。
「……たしかに、それなら私たちが動かなくても、王家の反応を見ることができるかも」
「そういうこと。まずはこっちから仕掛けてみる。あとはジウイが——どう動くか、だけどな」
ミルフィはそっと目を細めた。
ジウイが“特別な存在”であることを、もう疑う余地はない。
だからこそ、守るためには——自分たちが先に道を切り開かなければならない。
「……ありがとう、カイル。あなたの言葉で、ちょっとだけ冷静になれた」
「そうかよ。だったら、今日はちゃんと寝とけ。明日が勝負だからな」
そう言って、カイルはミルフィの背中を押し、テントの方へ歩き出す。
ミルフィもその背中に続きながら、静かに心の中で誓った。
(ジウイを守るために、私たちができること——すべてやるわ)
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