第十話 境界の森にて
朝焼けの中、三人は町を後にし、街道から外れて北の森へと足を踏み入れた。
カイルの地図とミルフィの一族の記録を照らし合わせたルートは、かつて人が通った形跡のある獣道のような細道。
木々は高く、鳥の鳴き声もまばらになり、空気が少しずつ淀んでくる。
「……この空気。森が、病んでるみたいね」
ミルフィが口を開いたのは、昼近くになった頃だった。
草が黒ずみ、木の幹の一部に、墨を垂らしたような染みがある。
鳥の声もしなくなっていた。
「やばいな、これ。魔物がいるって感じじゃないけど……なんだろう、こう、ぞわっとする」
カイルが剣の柄に手をかけながら辺りを見回す。
ジウイはアニマたちを呼び戻していた。
ネズミはフードの中に、鳥は肩の上に、ウサギは足元に寄り添っている。
すると――
ガサリ。
藪の向こうから、唸り声。
歪んだ鹿のような影が、よろめきながら姿を現した。
角がねじれ、毛並みは斑に抜け落ち、目は真っ黒に塗りつぶされたよう。
「黒ずみ、に……取り憑かれてる」
ミルフィが低くつぶやく。
鹿のようなそれは、声にならない咆哮をあげて突進してきた。
「くるぞ!」
カイルが跳び出し、軽やかに間合いを詰める。
ジウイはすばやく指を動かし、小さな鳥のアニマを鹿の目の前に飛ばす。
「こっちよ、こっち! 気を引いて!」
鳥がくるくると回りながら、鹿を横へ逸らす。
その隙にカイルが一撃を与えるも、肉は粘土のように鈍く、手応えがない。
「……効いてない?」
ミルフィが何かの符を取り出し、術式を唱える。
だが鹿に纏わりついていた黒い穢れがまるで霧のように動き、術を弾く。
「これ、物理でも魔術でもだめなのか……!」
そして鹿の目が、ジウイを捉えた――その瞬間。
ぱちっ。
ジウイの左目に、うっすらと紋章が浮かび上がった。
空気が静電気のようにざわめき、鹿の体がぴたりと止まる。
「え……」
一拍遅れて、“黒ずみ”は音もなく、まるで夜霧が陽に溶けるように、その場から消えていった。
まばらに残る影も、風に巻かれて消える。
残された鹿の肉体は、崩れるようにその場に倒れた。
「な……今の、なんだ!?」
カイルが驚きの声をあげる。
「ジウイ……あんた、何をしたの?」
ミルフィが慎重に問いかける。
ジウイは、目を手で押さえていた。
左目はまだほんのり光を帯びていたが、すぐに元に戻る。
「分からない……わたし、何もしてない。目が……勝手に……」
彼女の肩に止まっていた鳥のアニマが、首をかしげながら距離を取った。
もふもふウサギは彼女の膝に寄り添っているが、どこか怯えたようにも見えた。
「……封じられた力、なのかもしれないな」
ミルフィが呟いた。
ジウイは応えず、ただ黙って立ち尽くしていた。
やがて、カイルが禍々しさが消えた普通に戻った鹿の亡骸を見て、ぽつりとこぼす。
「でも、助けられたんだよな。あの鹿も」
森の空気は静かになっていた。
それはまるで、一つの“毒”が中和されたあとの、沈黙のようだった。
鹿が崩れ落ちたあとの静寂。
しばし、誰も口を開かなかった。
ジウイは左目を押さえたまま、その場に立ち尽くしている。
肩に止まっていた小鳥のアニマは、ビクッと身を震わせて、ふわりと飛び去っていた。
もふもふウサギはジウイの足元に座っているが、その丸い背中はどこか緊張している。
「……やっぱり、変なんだ、わたし」
ジウイの声はかすかに震えていた。
そのとき。
ひゅ、と風を切って、小鳥が戻ってきた。
ジウイのすぐそばの枝に止まり、
しばらく様子をうかがうようにこちらを見て、ためらいがちに――飛び降りてくる。
そのまま、ほおずりするようにジウイの頬に頬を押し当てた。
「え……」
ジウイが驚いて目を見開く。
小鳥はそれでも数秒、じっと寄り添って、
「……ぴ」と小さく鳴いたあと、今度は安心したように肩の上に落ち着いた。
「戻ってきた」
ミルフィが小さく笑う。
「こいつら……感情あるんだな」
カイルも目を細める。
ジウイは肩の小鳥にそっと触れながら、ようやく目を閉じた。
「……うん。分かってる。
“あれ”がわたしじゃないって、分かってくれるんだね」
鳥だけではなかった。
もふもふウサギも、静かに背中をすり寄せてくる。
どちらも怯えは残っているが、それでも――離れたくはない、と伝えてくるようだった。
ジウイはその温もりに身をゆだねながら、思う。
(もし、もうひとつのギフトが“拒絶”されるものだとしても。
わたしは、それを“受け止められる自分”でいなくちゃいけない)
沈みかけた太陽が森の中に光を差し込み、
静かに揺れる葉の隙間から、小鳥のさえずりが戻ってきていた。
肩の上の小鳥が、ふるふると羽を震わせる。その感触が、心の奥にまだ残る不安を、少しずつ、少しずつ、溶かしていく。
「……ありがとう」
ジウイが小さくつぶやくと、もふもふウサギも、どこか満足げに鼻を鳴らした。大きな耳がぴくぴくと揺れる。少し緊張をほぐしたその背中に、ジウイはそっと手を添えた。
「行こっか。まだ、終わってないし」
その声には、さっきまでの震えはなかった。
カイルが短く頷き、ミルフィがにこりと笑う。「あんまり張り詰めすぎないでね、ジウイ」
ジウイは肩をすくめて笑い返す。「あたし、寝るのと甘いのが好きな、ほんわか系だもん」
「それ、自分で言うの……?」と、カイルが苦笑した。
木立を抜けた先、足元は少しずつ乾いた土に変わっていった。空気の匂いも、どこか街道に近い。鳥の声が戻り、遠くで川が流れる音がする。
やがて、低い丘を越えた先に、古びた石柱が並ぶ場所が現れた。
「ここ……だ」
ミルフィが、真剣な表情で口を開く。「この地図だと、ここが“境界”とされていた場所。だけど、地形的にはただの広場に見えるわね……」
石柱は苔に覆われているものの、人工的なものだとすぐに分かる。それも、ただの建造物ではない。ジウイの目には、うっすらと光の残響――結界が残していた痕跡のようなものが見えていた。
「何かが……ここで、消えたみたい」
彼女がそうつぶやいたとき、もふもふウサギがぴたりと足を止めた。耳がぴんと立ち、周囲を警戒するようにくるりと振り返る。
「来るかも」
カイルが背負った剣に手を伸ばす。ジウイも、無意識のうちにスケッチブックに手を添えていた。
けれど、すぐに何かが襲ってくるわけではなかった。ただ、確かにこの場所には、“過去に力が封じられていた痕”があった。
「この先に、きっと何かがある」
ジウイはそう言い切った。さっきまで、自分の力を怖れていた少女の顔ではなかった。肩の上の小鳥も、すでにその声にうなずくように羽を震わせていた。
「うん。じゃあ、明日は朝から調べましょ」
ミルフィが頷き、ジウイの隣に並ぶ。もふもふウサギはその間に割り込み、どっしりと座り込んだ。
「でもさ」カイルがやや緊張をほぐすように言う。「……あんまり怖いのは、ナシで頼む」
ジウイがくすっと笑った。「もう怖くないよ。だって、あたし、ひとりじゃないから」
木々の間から、落ちてくる夕暮れの光が、三人と三匹の影を長く伸ばしていた。
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