残酷な世界
奥から漂う吐き気を催す臭気に、思わず鼻を手でふさぎうずくまった。
「うえ……」
喉の奥からせり上がりそうになる感覚を何とか抑え込む。
(大丈夫? メツが吐いたら私も強制的にツレゲロなんだから我慢して)
ツレゲロって……。そんな言葉きいた事も無い!
「はあ、はあ、……ちょっと落ち着いて来たかも。うぐっ!」
鼻の覆いを外した瞬間、再び強烈な臭気が襲い来る。
(はあ、ダメそうだね。仕方ないなぁ、メツのために少しだけ譲歩してあげるよ)
身体の主がそう言ったと思うと、突然においが薄れて行く。まるで鼻の周りだけ空気の流れが変わったかの様だ。
「あれ? ……もう匂いがしない……? お前、何かしたのか?」
その問いに冗談めかした答えが返る。
(にゃふふぅ。秘密にゃあ。メツには刺激的すぎてまだ早いにゃ!)
何だか分からないけど、匂いがしないのなら活動には問題ないな。
再び奥の壁に目を向けるが、既に音は止んでいて、何かに引っかかった様に、中途半端に開いた仕掛け扉が、奇妙なリズムで上下動を繰り返していた。
「何だ……? 扉、何かにぶつかって止まったのか? 中途半端に下だけが開いてるけど、屈み込めば通れるかな?」
身体の主は、警戒した様子で話しかけて来る。
(メツ。しゃがんで無理やり通るのはおススメ出来ないよ。……それよりも腰にあるポーチの中からグローブを取り出して。この先きっと必要になるから)
腰のポーチ?
その言葉に従うまま、左右の腰回りを手で探り、目的の物体を見つける。
「これか……。中には何が入ってるんだ?」
身体の主は、険のある声で釘を刺して来る。
(余計な物は見つけなくていいから、一番上に畳んでしまってあるグローブを出してくれればいいの)
やれやれ信用されてないなあ。
左腰でベルトにぶら下がるポーチの留め金を外し、中に手を入れると、堅くざらついた感触の何かに触れた。指先が擦れるだけですりおろされて血が出そうな程だ。そのヤスリ状の何かをつまみ、ゆっくりと怪我をしない様に引っ張り出す。
(そう。それだよ!)
目の前に持って来て垂れ下がったそれは、折りたたまれた名残の深い皺がついてはいるが、確かに長いグローブの様だった。相変わらず指先に感じる出血しそうな感触を受け、注意深く動かして手を通す穴を探す。
「なあ、これ。あんなに堅い植物の弦を思いっきり引っ張っても、手に傷ひとつ付かなかったお前の指が、怪我しそうなくらい堅いし、まるで金属のヤスリみたいだ。何で出来てるんだ?」
身体の主は、落ち着いた声で答える。
(素手で触れたらすりおろされそうになるでしょ? 何か気になる? ……それはね……)
勿体ぶった言いまわしに、ごくりと唾を呑みこんだ。
(なんとね! ドラゴンの革だよ! 動きを妨げない極薄に加工しても、並の刃物なんかじゃ傷つかないくらい頑丈なんだから!)
どこか得意気なその声を聞き流しながら、入り口を探した。
(あれ? メツ。反応うすいね。もっと驚かれないと勿体ぶって話した甲斐がないよ!)
ま、まあ。いきなりドラゴンなんて言われても、狼が日本にまだ生き残ってた! なんて話くらいに実感がわかないよ。
腕を通す穴を見つけ、広げると中は起毛した柔らかな素材で覆われていた。とても感触はいいが、寒くもないのにこれをはめると腕に熱が籠って大変な事になりそうだ。
そこで身体の主は、また得意気に話しだす。
(にゃふふ。その中身を一面おおってる毛はね! グリフォンの羽毛なんだよ! 温かくて緩衝材としても優れものなんだから! どう? 今度は驚いた?)
その言葉を再び聞き流し、ゆっくりと手をさしこんで行く。柔らかな感触が肌を撫で、きめ細かく滑らかな細い腕が、徐々にグローブと一体化していく。
(もう、驚かし甲斐がないなぁ。リアクション芸もっと磨いてこ?)
上腕の中ほどまである長いドラゴン革のグローブを両腕にはめると、身体の主は声を落とした。
(……準備完了だね。……メツったら、せっかく私が緊張をほぐしてあげようと気遣ったのに、すげないんだから! そんなんじゃ女の子にモテないよ?)
そんな事たのんだ覚えはないし、言っておくと僕は、ニンゲンの雌なんかに興味はないぞ!
そう乱暴に返すと、驚愕の言葉が漏れ出して来る。
(う、嘘でしょ? その年で? し、思春期だよね!? どうして、そう言い切れるの!?)
慌てた様子の身体の主に、努めて冷静に返す。
「ふふん。僕をそこらへんの雄と同じにしてもらっては困るな。人生にはイレギュラーはつきものさ。精々、精進しなよ」
身体の主は、少し怒った様子で早口になる。
(もう! 雄とか雌とか! ヒトに対する言葉じゃないでしょ? そういうとこ直さなきゃダメだよっ!)
だからモテたいとか思わないし――。
(モテる、モテないは別!)
そう強調する身体の主に、すぐさま反論の言葉は出てこなかった。
「別……? めんどくさい奴だな……」
いまいち呑みこめないその言葉を、とりあえず保留にしておく。
(まあいいよ。今はそんな事で言い争ってる場合じゃないから。……奥の仕掛け扉に近づいてみて。触ったり、叩いたりしたら全部ひらくかもしれないよ)
頭の中の声に導かれるままに、扉へ近づいて行く。向こう側から漏れ出す空気は、手前とは違って冷たく、それが足元から立ち昇る。冷気のせいか、それとも不安や恐怖心がそうさせたのか、背筋を悪寒が駆け上って行った。
(震えてるの……? メツは普通の人だから無理もないけど、勇気を出して……)
べ、別に震えてなんていないぞ!
ゆっくりと扉の近くで屈み込み、分厚い石の下側へ手を伸ばし、縁をなぞってみる。一定のリズムで上下を繰り返す扉から細かな振動が伝わって来た。
「どうするんだ? 突然おちて来て、挟まれたりしないよな?」
身体の主は、慎重ではあるが、相変わらず退く気はない様で、勇ましい言葉が返る。
(そのまま力を込めて、持ち上げてみて、向こう側で引っかかってる何かが外れるかも)
それが何か分からないから不気味なんだよなぁ……。
言われるままに、両手をかけ、ゆっくりと力を込めて持ち上げ様とするが、一向に動く気配はない。
「ん……? もしかすると、これの動きに合わせないとダメかな」
上下動を繰り返す扉が、下がった瞬間は、向こうで引っかかっている物体も一瞬だけ解放されているはず。そのタイミングに合わせて思い切り持ち上げてやれば弾かれて外れるかもしれない。
思いついた通りに、狙いすまして下がった時に、目いっぱいの力をかける。
「ふんっ!」
その品のない掛け声に、身体の主が注意をしようと言葉を紡ぎ出すが、目の前では、それを打ち消す凶事が展開される。
ガタリと大きな音を立てて持ちあがった扉の向こうには、暗い中に何か灰色の影が見えて、それがゆっくりとこちらへ倒れこんで来た。
何だ……? これ……?
身を引く暇もなく、それは右肩へとのしかかり、そのまま尻餅をつく様に、後ろへ倒れてしまう。匂いは消されたはずなのに、その瞬間、強烈な悪臭を嗅いだ気がした。
「うわっ!」
尻餅をつく鈍い音に、身体の主の声が重なる。
(いたっ! もう少しで尻尾を挟む所だったよ!? もう! もっと注意――)
声は途切れ、気が付けば、何かドロリとした液体が、首筋から肩、腕へと伝って行き、床へぶちまけられた様だ。
「え?」
何だ……? 何がもたれて来た……?
その正体を確かめて絶句する。いや、寸時の後には絶叫していた。
「うあッ!? うあああああッ!?」
暗い石造りの室内に、高音の悲鳴が響き渡り壁に阻まれ跳ね返る。
身体をよじり、両腕をばたつかせて、それから離れようと懸命に努力する。力が抜けた様に、両脚は動かなかった。
(落ち着いて! そんなに慌ててたら余計に上手く行かないよ!)
頭の中で響く冷静な声に、酷い違和感を覚えるが、その場にひとりではないという矛盾した感覚が、徐々に身体へ浸透していく。
錯覚かもしれない、けど、孤独なわけじゃない!
「ふうぅぅぅ」
無理やりに長い息を吐いて、ゆっくりとその所在を確かめる様に、四肢に力を込めて立ち上がった。ひとりでに身体から離れ倒れ込んでいた『それ』を横目で観察する。
「どう見ても死体だ……。それも、惨たらしい、目を覆いたくなる様な……!」
ずっと見ていられなくて目をそむけたが、身体の主はこちらを諭す様に、優し気な声をかけて来る。
(怖いかもしれないけど、これから先に潜む危険を察知するには、これをよく観察する必要があるよ。……頭の辺りに大きな傷がある。確かめて……)
身体はその言葉に抵抗していたが、もう一度おおきく息を吐き、ゆっくりと死体の傍へ屈み込んだ。
「ひっ!」
その頭部の状態を目にした時、思わず引き攣った声が漏れる。
(頭……。上半分がなくなっちゃってるね……。『中身』もないみたい……。傷口の縁を指でなぞってみて)
首を振り、その言葉に逆らう。
「どうしてそんな事!」
身体の主は努めて冷静に、そして優し気な声で話す。その余裕がだんだんと恐ろしくなってくる。
(傷は――、襲った。……つまり、そのヒトを殺した相手の情報を残してるよ。だから、知らなくちゃいけない)
二度目の言葉には逆らえなかった。恐る恐る指先を伸ばし、その頭部の傷口に触れた。グローブごしではあるが、柔らかさと堅さが同居する不気味な感触が返る。いや、もし素手で触れていたら、そのまま気を失っていたかもしれない。
「うぐっ。気持ち悪い! まだ離しちゃダメなのか!?」
身体の主は、こちらの叫びを無視し、見分を進めている様だ。頭の中に独りごとらしき声が響く。
(この傷口、一見すると鋭利な刃物で切り裂いたみたいだけど、断面が滑らかじゃない……。そして、歪に並んだくり抜かれた様な痕……)
耐えながら待つが、気が狂いそうだった。
(爪か、牙だ……。先端が鋭くて、根元に向けて太くなってる、それで裂かれたんだ……。でも、こんな威力のある爪や牙。普通の魔物じゃ、持ってるはずもない……。向こうに割れた金属製の兜も落ちてる、相当、危険な……)
声は途切れ、しばしの沈黙の後、再び聞こえ始める。
(敵の正体は、分からないよ。でも、進まなくちゃいけない。……立って、メツ。腐臭にまみれて、縮こまってちゃ、次に餌食になるのは私たちだよ)
思わず声を荒げていた。
「どうしてだ!? どうして、進まなきゃいけない!? 引き返そう! ここから逃げれば――」
その言葉は、頭の中でゆっくりと制止された。
(ダメだよ。外に出ても、道なんて分からない。そのまま日が暮れれば、更に危険を引き寄せる。ここで魔物の正体が分かれば、それが生息する地域も割り出せるかもしれない。自慢じゃないけど、そういう事には人より詳しいから……)
ただただ恐ろしかった。次々と投げ掛けられる言葉が、何を意味しているのか。この身体の主が、何者なのか。何一つとして理解できるモノはない。
身体の主導権は、自分にあるはずだった。だが、ゆっくりと立ち上がり、進み出した先は、外ではなく、奥の扉だった。
(……決心してくれたの? ありがとう。……でも、警戒してね?)
無言で、開ききった扉の奥の暗がりを覗き込む。
「階段だ……」
その先には、まっすぐに下り階段が続いていた。慎重に足をかけ、それを一歩ずつ下りて行く、すると、数メートルも進まないうちに、下で何かが動くのが見えた。
(メツ! 何かいるよ!)
暗がりで動いたのは、人間の手の様だった。
階段の縁へ伸ばされ、かけられた指先に力が入り、何かが擦れる音と共に、徐々にその本体が露わになる。
「――こいつ!?」
動く――死体!?
訳が分からないまま、また尻餅をついて倒れそうになったが、希望的な甘い言葉がちらつく。
まだ死んでなくて、生きている人が助けを求めてるのかもしれない、と。
だが、その希望は易々と打ち砕かれる。近づくにつれて見えだした下半身は、既になかった。
(メツ!? 立ち止まってる場合じゃないよ! 動いて!)
何とか手をついて、倒れるのを避け、階段を押して立ち上がった右目に、信じられないモノが見えた。
「あ、ああッ――!?」
先ほどまで、ただの死体だったはずのもうひとつの影が、起き上がり、ゆっくりとこちらへ歩み来る。その半分になった頭部が動きに伴って激しく上下に揺れる。
(挟まれてるよッ!?)
身体の主の悲痛な声と共に、暗がりは、希望さえ潰える更なる闇へと呑まれて行く――。