31.特別と日常5
筋トレをする静は、ひたすら色っぽかった。
今、静はお風呂に入っている。
かすかに響いてくるシャワーの音を聞きながら、あかりはリビングのソファで、持っていた本を額に押しつけるようにして項垂れていた。
(静くんって…………すごい)
何がすごいって、それはもういろいろだ。
トレーニングマットをリビングに敷いた静は、軽く体を解してからスクワットや腕立て伏せ、背筋、腹筋をしていった。器具を使ったトレーニングは本部でできるので、この時間にやるのはあくまで軽くらしい。
とはいえ、主に体育とストレッチくらいでしか日常的に体を動かさないあかりにしてみれば、まったく軽いものには見えなかった。一つひとつの動作をゆっくり行うせいで、かかる負荷が高いのだ。見ているこちらが辛くなる。
しばらくすると冬だというのに汗が伝った。
つうと垂れてマットに落ちるか、落ちる前に服で拭われる。無表情の中に滲む煩わしげな色と乱れた呼吸、その雰囲気といったら――「セクシー」とは何なのかを教えられた気分だった。
(本読むつもりだったのに、一ページも進んでない)
だって魅力的すぎるのだ。
腕まくりをして見えた腕の筋も、服の裾からちらりと見えたお腹も、普段の優しく紳士的な姿とは真逆のワイルドさも、あまり見られるとやりにくいと照れる表情も。
そもそもトレーニングをし始めたのだって、もしゲームと変わらないのなら、異形と戦うための体力・筋力作りが理由だったはずだ。それを今も当たり前のように続けて、当たり前のようにこなしている。誰かのための努力を怠らない姿勢は、まさに憧れた主人公の姿だった。
(……私も今のうちにストレッチしよう)
あの様子なら、恐らく腹筋だって割れている。
対抗するわけではないけれど、弛んだ部分を少しでも減らしたいと思うのは、恋する乙女としては至極当然の感情と言えた。
「あかり、おいで」
ついに来てしまった。
洗濯も終わり、そろそろ寝ようかという頃。静は寝室のベッドに座り、あかりを呼んだ。
「……えと、他にお布団があるとかは」
「? ないけど」
「…………ですよね」
お話によくある、ベッドとソファのどちらで寝るか論争すらない。静は隣にあかりが来ることを疑っていないし、他の選択肢を与えようとも思っていない。あかりはそれに対してどんな気持ちになれば良いのかわからなかった。
立ち尽くすあかりの胸中も知らず、静がスマホを取り出していじり出す。
「明日は何時に出る? あかりの家より近いから、いつもよりは遅くていいと思うけど」
「え、あ。八時過ぎにはあっちの駅に着きたいから……」
「ん。じゃあ七時四十分くらいにこっちの駅に着くとして、家を出るのは七時半の少し前ってところかな。朝の準備はどれくらいほしい?」
「お弁当……は作らなくていいから……一時間、くらい?」
「わかった。ならアラームは六時過ぎにしておくね」
あっという間に明日の朝の予定が立った。なんてありがたい。
「あ、そうだ」
静は不意に立ち上がりあかりの腕を取ると、くるりと互いの位置を交換した。そのままの勢いで、あかりはぽすんとベッドに座る。
「ミネラルウォーター取ってくる。先に布団入ってて」
そう言って、静はリビングの方へと行ってしまった。
後ろ姿を見送りながら、あかりは静のいつもと変わらない温度感に目をぱちぱちさせる。
(…………もしかして、考えすぎだったのかな)
恋人の家に泊まる、というワードだけ聞くと、どうしても連想してしまうことがある。
それは保健体育や少女漫画レベルでしかそっち方面の知識がないあかりだけでなく、下着を送った友達でもそうだったはずだ。もしかしたら、パジャマは静の服を借りれば良いと言っていた母も同じだったかもしれない。だから、いつもより過剰に緊張をした。
けれどよく考えてみれば、連想できるからといって、実際にそれが起こるとは限らないのだ。
なぜなら、あかりと静は唇にするキスすらしていない。
それなのに、キスを飛び越えてその先へ進むわけがなかった。
どうやら度重なるハプニングのせいで、しなくても良い心配までしていたようだ。
なんだそっか、とあかりが一人納得して布団の中に入ると、二本のペットボトルを手にした静が戻って来た。
「これ、あかりの分。加湿器あるけど、エアコンつけとくと喉渇くから。好きな時に飲んで」
「わ、ありがとう」
自分の家ならともかく、ここで洗い物を終わらせた後にコップを新しく出すのはためらわれるので、正直とても助かる。しかも新品の固いキャップを、ぱき、と目の前で開けてくれた。優しい。
「電気は暗い方がいい? 小さいのだけ残す?」
「私はどっちでも。静くんはいつもどうしてるの?」
「僕は少し明かりを残すかな。それでいい?」
「うん」
ヘッドボードにペットボトルを置くと、照明のリモコンを手に取りながら静も布団に入ってくる。必然的にあかりは奥へ詰めた。
どくん。
(あれ?)
「じゃ、消すよ」
ピッという音と同時に光がぐっと弱まる。
そのまま横になりかけた静が、様子のおかしいあかりに気がついて動きを止めた。
「あかり?」
「……っ」
返事ができない。
大変困ったことに、あかりは今さら気がついていた。
――同じベッドだと、あまりにも近い、と。
いや、わかっている。わかっていたのだ、頭では。
しかしいざその状況に陥ってみれば、次元が違った。
一応再会の日にも似たような経験をしているけれど、あれは所詮なりゆきだ。「そうなっていた」のと「自分からそうなる」のとではまったく意味合いが違う。
端的に言えば、恥ずかしさで死にそうだった。
(どうしよう、心臓が痛い……っ)
暗くした後で良かった。
自分でもわかるほど、顔が熱い。
勝手に震えてしまう手を止めたくて、あかりはそれを強く胸に押し当てた。
その時。
「……大丈夫だよ」
「っ!」
ふわり、温かさに包まれる。
静があかりを抱き寄せていた。
「戸締まり、さっき全部確認してきた。ドアはチェーンをかけてあるし、窓には補助の鍵と防犯フィルムも貼ってある。誰も入って来れないよ」
「あ……」
「万が一何かあっても、僕が絶対あかりを守る。例えレストアラーの力を使ってでも」
どうやら、静はあかりがストーカーに与えられた恐怖の名残りで震えていたのだと勘違いしているようだ。
そうではない。
そうではない、けれど。
「……うん。ありがとう」
すう、と体から力が抜けていく。
静の匂いに、体温に、優しさに、あかりの心が凪いでいく。
静が心配してくれているように、布団に入るこの時間はいつも怯えていた。
何度確認したって玄関の鍵が開いていないかが気になるし、窓の向こうに人影があるのではと変に想像してしまう。犯人が捕まってからだいぶ良くはなっていても、母のいない夜勤の日は別だ。やっとのことでうとうとしても些細な音や夢で目が覚める。
そうして薬に手が伸びるのだ。
最近、静が電話をしてくれるようになって、それにもようやく改善の兆しが見え始めたところだった。
それなのに。
今日は自分でも驚くほどそのことを忘れていた。静で頭がいっぱいで、怖がる暇もなかった。
(やっぱり静くんはすごい)
そばにいるだけで心に安らぎをくれる人。
あかりは目を閉じて、静の服をきゅうと摘んだ。
すると。
「わ、っ!?」
突然静がふらりと傾き、二人してベッドに倒れ込む。
ゆったりした速度だったので痛みはないものの、あかりの頭が静の腕を下敷きにしてしまった。
「っごめん、大丈夫?」
いくら静が鍛えているとはいえ、一点に重みが集中すれば辛いだろう。
だから慌てて起き上がろうとしたのに、静はそれを遮るようにぎゅっとあかりを抱きすくめた。
「大丈夫。あかりが嫌じゃなければ、このままがいい」
このまま、と言われても。
あかりは硬直する。
だって、客観的に見ればこの体勢は。
――腕枕ではないか。
耳の下の温かさと、すぐそばで感じる息遣い。頭や腰には手が回り、足同士も触れ合っている。
近い。
心臓が爆発しそうだ。
見上げなければかろうじて顔が見えないのが、今のあかりにとっての唯一の救いだった。
「……ねえ、あかり。今日はどうだった?」
「っ! え、な、何が?」
「学校から帰って、僕とずっと過ごして。どこか嫌だなって思うところ、なかった?」
嫌なところ。そんなもの、あるわけがない。
あかりはふるふると頭を振った。
「本当? あかりは僕に甘いからな」
「あ、甘いのは、静くんの方だよ」
これまでどれだけ甘やかされてきたことか。
今日だって迎えに始まり、荷物持ちに勉強にお風呂にご飯。細かいものも含めればもっとたくさん世話を焼かれている。そして、今も。
享受し続ければダメ人間になること請け合いである。なんて恐ろしい人なのだ。
「強いて言えば、私にもご飯とかお風呂掃除とか、何かさせてほしかった、です。もてなされるだけなのはこう、落ち着かなくて」
「うーん……そっか。でもあかりはいつも家でやってるんだし、僕といる時は休んでいいよ」
「だ、だめだよ。て言うか、静くんこそいつもやってるじゃない。台所貸してくれれば簡単なものなら作れるし、休むべきなのは静くんだと思う」
思えばいつもご馳走になってばかりいる。彼女としてはいかがなものかと常々思っていた。
「……あかりのご飯か。それもいいな。一緒に作るのも楽しそう」
「一緒に……? わ、それいいね。二人で……ってなると、餃子とかカレーかな?」
「そうだね。あとは簡単に鍋でもいいし」
「うわぁ……すごい、楽しみ!」
素敵な提案に心が弾む。
「今日のもすごくおいしかったよ。静くん、本当に料理が上手だね」
「口に合ったならよかった。手の込んだおかずじゃなかったから、がっかりさせてないか少し心配だったんだ」
「ええ!? がっかりなんてしないよ」
驚いてつい顔を上げたせいで、至近距離で静と目が合う。
次の瞬間にはそれが愛おしげに細まるものだから、あかりは頬を染めて、自然に空気が抜けていく風船のようにゆっくりと顔を伏せた。
「ありがとう。本当は、せっかくあかりが来てくれる最初の日なんだから、もっと腕によりをかけて作ろうとしてたんだよ」
充分腕によりはかかっていたと思う。
あれでかけていないのなら、本気を出した時、静は一体どんな食事を作るというのか。
「でも、一緒にご飯を食べるのは、いつか毎日のことになる。特別じゃなくて日常になっていくんだって思ったら……それが早くほしくて仕方なくなった」
「……」
「一緒にいるのが特別じゃなくて、僕らにとっての当たり前になるように。そんな日が少しでも早く来るように。そう思って作り慣れてるものにしたんだ」
「そっか……」
あかりにとって、未来と言われて思い浮かぶのは、せいぜいクリスマスやバレンタイン止まりだった。ところが静は夕食ひとつとってもずっと先のことまで見据えていたらしい。
(特別じゃなくて、日常に……)
まだ静といる時間が特別に思えてしまうあかりには、静の言うような日々がいつ来るのか想像もつかない。
ただ、特別を積み重ねて、それが日常というものになるのだとしたら――それはとても、とても待ち遠しい未来だと思った。
「……じゃあ、やっぱり静くんは私をもてなしちゃだめだね」
「え」
「一緒にいるのを普通にするなら、甘やかすんじゃなくて、ちゃんと協力し合わなきゃ。どっちかに任せてばっかりだと、いつか不満が溜まって壊れちゃうよ」
実際そうして壊れてしまった両親について考えていたあかりには、密かに背筋を凍らせた静がいたことに気づけない。
「静くんが大事にしてくれてるみたいに、私も静くんをいっぱい大事にしたいの。……そうやって過ごすのが、あたりまえになったら、いい、なぁ……」
あかりの声に吐息が混じり始める。
あたたかい。
電話では感じられない熱が、あかりを眠りの世界へ連れて行こうとしていた。
「眠い?」
「…………ん、だいじょうぶ。まだおきてるよ」
そう言いながらも、あかりの目は開かない。
お泊まりに気を取られて、昨夜あまり眠れなかったのが原因だろう。
「無理しなくていいよ。おやすみ」
それはまるで子守唄のような声だった。
耳に、肌に、じんわりと染み込んでいくのがわかる。
まどろみの中で、あかりは幸せだなぁと思って、笑った。
「おや、すみ……なさい……」
その言葉を最後に、あかりの意識は深いところまで沈んでいった。
だから、知らない。
――その後、静があかりの頬に口付けたことを。
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