5.おはよう
日曜日。
いつもと変わらない朝がきた。
(……変わらないのに、全然違う)
あかりにしては珍しく、目が覚めてもすぐにベッドから起き上がれないでいた。
緊張の糸がぷつんと切れたことも大きいのだろう。一晩明けても、あかりはどこかぽわぽわとした、不思議な感覚の中にいる。
あかりにとって、昨日までの静は高校生だった。それが途中からぽんと大学生になっていて、知らない間に進級し、受験を終えて、大学という新しい環境に慣れて、今では就職先まで決めているというのだからすごい。非現実もここまで重なると、そんな月並みな感想しか出てこなくなるのだと知った。
対してあかりは、変わったところは特にない。たった一日しか経っていないのだから当たり前だ。強いて言えばお試しではなく本物の彼氏ができたことくらいだろうか。
(か、彼氏……? 静くん、が?)
昨日の帰り、真剣な表情で愛していると告げた静が蘇って、あかりは一人ベッドの中で悶える。夢だと言われた方が納得できるほど、幸せすぎる記憶だ。
あんなに素敵な人があかりを好きだと言ってくれて、しかも休みの日に二日連続で会えるなんて、本当に――
(あれ?)
あかりはぴたりと思考を止める。
そういえば昨日の夜は、ご飯を食べた後に片付けをして、お風呂に入って、髪を乾かしていたらうとうとしてしまって……お肌の手入れもそこそこに寝てしまったような気がする。
『明日も会いたい』
『……駄目?』
(ひゃー!!)
あかりは飛び起きて、昨日の昼から姿すら見ていないスマホを探す。
会う約束をしたくせに、連絡をしないなんて何事だ。ただでさえ寝不足な静が徹夜でもしていたらと思うと、申し訳なさで体が震える。
「あかり、おはよう……どうしたの?」
昨日出かける時に使った鞄の中を探していたあかりは、母から声をかけられて顔を上げた。
「おはようお母さん。ちょっとスマホが見当たらなくて」
「あら大変。こっちはもう出るし、今日のお弁当はいいからね」
「えっ、もうそんな時間!?」
普段、スマホでアラームを設定したり時間の確認をするので、あかりの部屋に時計はない。
考えてみればたしかに今日、いつもお弁当を用意するために設定していた音が鳴らなかった。てっきりまだいつも起きる時間より早いのだとばかり思っていたのに、すでに鞄まで持っている母の姿を見るに、寝坊していたらしい。
「ごめん、昨日も今日も」
「何言ってんの。普段からあかりに頼りっぱなしなのはお母さんなんだから、たまに休むくらい怒んないよ。それより今日出かけるの?」
「……うん」
「そう。遅くなるなら連絡しなさいよ。じゃあ行ってくるから戸締りよろしくね」
「うん、いってらっしゃい。気をつけてね」
スマホ探しを中断して、母を見送る。
いつも頑張ってくれているのは母も同じなのに、あかりが失敗しても優しい。もっとしっかりしなければ、と決意を新たにしたところで、昨日の帰り際に荷物をまとめてくれたのが静だったことを思い出した。
戻ってよく紙袋の中を確認してみれば、畳まれた上着の間に挟まれているのを見つけた。割れ物に対する配慮をありがたく思うのと同時に、どうしてこんなところにあるのかという疑問が頭をもたげる。
(私、たしかおしりのポケットに入れてなかったっけ……?)
あかりの記憶では、スマホを使ったのは昨日の昼、静のマンションへ行くために地図アプリを開いたのが最後だったはずだ。
マンションの前でスマホの電源を落とし、部屋番号を頭の中で唱えながら上着のポケットに入れようとしたあかりは、中にちくりと指を刺す何かがあることに驚いて、スマホをしまう先をおしりのポケットに変えた。
その何かを取り出してみると、あらかじめ一粒分だけシートから切り離しておいた睡眠改善薬で、寝たい時間の三十分前に服用するタイプの医薬品だった。水を持ってくるのを忘れてしまったため、仕方なくそのままソフトカプセルを服用する。
そうして静の家を訪ねたあかりは、お手洗いを借りる口実で部屋を出ることに成功し、ポストにこっそり御守りを入れてから部屋に戻ったのだった。
(それで今まで一度も見てなかったのに、紙袋の中にあるってこと、は……?)
まさか、実はお別れの時に落としていて、他の荷物と一緒に五年前に置き去りにしてしまっていたのだろうか。もしそうなら、料金の支払いや番号被りなど、おかしなことになってしまうのでは。
あかりはボタンを長押しして、スマホが立ち上がるのを固唾を呑んで見守った。
「――ついた。よかった……」
少しの空白の後、ぱっと画面が明るくなる。
軽くいじっても、日付やアプリ、写真などのどこにも異常はみられなかった。どうやら過去に置いてきたわけではないようで、あかりは深く安堵する。
もし薬を用意していなければ、スマホを上着に入れたままの状態で眠っていただろう。そうなれば静はあかりに関する手がかりを得て、ゲームにするまでもなく昔のあかりを見つけていたかもしれない。
どこのポケットに何を入れるのか。
たったそれだけの違いが、過去に大きな影響を与えていた。こんな恐怖を、静はずっと味わっていたのだろうか。
(ううん、もう過去は変わらないんだから、あんまり気にしないようにしなきゃ。それより静くんとの今日の約束の方が大事)
あかりは頭をふるふると降ってから、トークアプリを起動する。
静からの連絡は三件。
『明日、何時から会えそう?』
『寝ちゃった?』
『おやすみ、あかり。今日はお疲れ様』
文字を見ただけで胸がとくんと反応する。静が打ったのだと思うと、なんの変哲もない吹き出しすらかわいく感じてしまう。重症だ。
あかりは挨拶をしてから遅くなってしまったことを詫びて、お昼頃からなら大丈夫である旨を送信した。
この後は家事と出かける準備をしなければならない。時間はわからなくても、掃除と洗濯くらいは済ませたい。出かけるので室内に干して、帰ってきたらアイロンをかけて――。
あかりは頭の中で段取りをつけながら、まずは顔を洗おうと洗面台へ移動した。
(返事来ないな)
部屋でベッドに腰掛けたあかりは、スマホのトークアプリを眺めてため息をついた。
時計はすでに十時を回っている。連絡してから二時間以上は経っているというのに、送ったメッセージは未だに既読になっていなかった。
あかりの準備は大体終えていて、場合によってはご飯を食べてから出たい。できればそろそろ返事が来てほしい頃合いなのだけれど。
もしなんらかの用事が入ってしまって忙しいと言うなら、それはそれで構わなかった。ただ、体調不良なら心配だ。この五年は軽い不眠症だと聞いたし、昨日の夜に連絡を返せなかったことが影響していないとも限らないのだから。
そう考えたらいても立ってもいられなくなってしまい、あかりは目についた電話のアイコンを押した。音声のみかビデオでの通話かを聞かれ、当然ビデオなんて選べないため音声の方ををタップしたら――もう、かかってしまった。
(あれ!? もうワンクッションなかった!?)
友達や家族にかける時はまったく気にしていなかったけれど、心の準備が必要な相手にかけるにはスムーズすぎた。
もう少し、『本当にかけますか?』のような問答を入れてほしかった、などと考えているうちに画面が変わり、静が電話をとったのだとわかる。
あかりはぎゅっと目をつむってから、スマホを耳に近づけた。
『……もし、もし』
「!!」
(寝起きの静くんだ!)
どこかむにゃむにゃとした、寝起き特有の低い声と話し方。それが聞こえた瞬間、ただでさえうるさかったあかりの心臓がばくばくと鳴り出した。
今、昨日寝かせてもらっていたあのベッドに、静が寝ぼけ眼で横になっているのだろうか。
想像しただけでときめく。かわいい。
『……あれ、あかり……?』
「あっ、えと、おはよう」
危ない、無言電話になってしまうところだった。
『ん。おはよ』
声に笑みが混じり、とろんとしながらも優しく微笑んでいるのだとわかる。
会いたい。
自然にそんな感情が浮かんできて、あかりは間違えた振りをしてビデオ通話にすれば良かったかもしれないと後悔した。
『あー……幸せ』
「え?」
『起きて、一番にあかりの声聞けるの、嬉しい』
早々に撤回する。
これは顔を見て言われたらいけない類のものだ。
たしかにあかりも起きてすぐ静の声が聞こえたら嬉しいだろうとは思う。けれどそのためには毎朝電話をするか、同じ家に住まなければいけないわけで。
あかりは一瞬その意味を考えてしまって、うろたえそうになるのをぐっと堪えた。
「起こしてごめんね。後でかけ直そうか?」
『……やだ。あかりから電話してくれたの初めてなのに、切るのもったいない』
(やだって。何それかわいい……!)
静が何をしても勝手にきゅんとしてしまう胸を押さえつつ、あかりから電話をしたことがないのを見抜かれていて驚く。
好きな人にかけるのは単純にためらうし、仮の彼女という立場上、静の時間を無駄に奪いたくなかったのだ。気が向いた時に返事ができて、なんなら返さなくても良いメッセージができるだけで充分だった。充分でなければいけないと、思っていた。
これからはそんな遠慮はしなくて良い。
しかも静が喜んでくれるのなら、頑張ってみようと密かに決めた。
「そっ……か。あ、昨日はごめんね、返事できなくて。自分でもびっくりするくらいあっさり寝ちゃって」
『いや、疲れさせたの僕だから。眠れないより全然いいよ』
「……ありがとう。でも、静くんは? その、不安になったりとか」
昨日の帰り際に見た、静の揺れる瞳。連絡を返せなかったせいでまたあんな目をさせていたとしたら、あかりまで苦しくなる。
けれどそんな心配は、静の小さな笑い声でかき消された。
『大丈夫だったよ。ずっと感触が残ってたから、夢じゃないって確信が持てた』
「感触?」
『おやすみのキス。おかげで夜、久しぶりにすごくよく眠れた』
寝過ぎたくらいだ、とあくびを噛み殺す静に、またもやあかりはきれいに頭から抜けていたそれを鮮明に思い出してしまった。
(そうだった……! 私、なんであんなことしたの!? しかもなんで忘れてたの!? 信じられない)
脳内を昨日の出来事が駆け抜けて行き、キス以外にも同じベッドで寝たり膝に乗せられたり抱きついたりもした自分がいたことに愕然とする。
あれは本当にあかりだったのだろうか。きっと話のスケールが大きかったせいで、つられてあかりの気も大きくなっていたに違いない。
今なら羞恥で死ねるかもしれないと思うほど、あかりは真っ赤に染まった。
『ああ、時間決めないとね。あかりは何時頃なら出られそう?』
時間を空けたいところではあるけれど、やはり会いたい気持ちは抑えられない。
静に合わせるのはできても、自分に嘘はつけなかった。
「私は、すぐにでも」
『……本当? ずいぶん早起きだね』
「え?」
『え?』
十時過ぎに準備を終えているのは、言うほど早くはないけれど――もしかして、静は朝のあかりと同じ状態になっているのでは。
(そっか。ちゃんとできない日が、あってもいいんだ)
そう考えたら、母が朝に言ってくれた「たまには休んだって」という言葉を、そのまま受け入れても良いような気がした。
『あれ、今何時、……っ!? うわ、もう十時過ぎてる』
電話の向こうから、ばさ、と布団から出るような音がして、静が動き出した様子が伝わる。
慌てている声がかわいいなぁと思いながら、あかりは部屋に満ちる柔軟剤の香りを吸い込んだ。
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