4.おやすみ
あれから、残った距離をゆっくりと歩いた二人は、あかりの自宅アパートの下で立ち止まった。
(お母さん……帰ってきてる)
二階にある自宅に目をやれば、キッチンの明かりが点いているのがわかる。
あかりがバイトの日以外で仕事を終えた母より遅く帰るのは珍しい。心配しているだろうから早く帰らなければと思う反面、まだ離れたくないとしぶる心が、あかりを無口にさせた。
「ご飯、一緒に食べるんだよね。さすがにもう時間切れか」
ああ、そうだ。わざと言わないようにしても、静はあかりの家の位置を知っているのだった。
あっさり終わりを言葉にされて、あかりは繋いでいない方の手で荷物を受け取りながら、しゅんと肩を落とした。
二人暮らしで休みもすれ違うあかりは普段、せめて夜ご飯くらいは一緒に食べたいと、母が夜勤でなければ帰宅を待つようにしている。その代わり夕方に軽く甘いものなどを摘んで、家事やお風呂を済ませておく、というのがいつもの流れだ。
実は説明の間にとった休憩でその習慣を静に伝えたところ、あかりはテーブルの上に用意されていたチョコレートを口に放り込まれる、という事件があった。どうやらお腹が空いていないか心配してくれたらしい。
おかげでお腹の音を聞かれずに済んでよかったと安心して良いのか、それとも「あーん」をされたと恥ずかしがって良いのか、口に指が触れて思考が停止したあかりにはわからない。
さすがにその後、拒否されなかったと解釈したらしい静が心なしか楽しそうに二つ目を手にした時は、慌てて首を横に振ったけれど。
「じゃあ、えっと……またね」
考えてみれば、あかりに合わせて静もご飯を食べていないのだ。寂しいなどと言っている場合ではない。早く帰らせてあげるためにも、これからは静を見習い、別れ際はすんなり離れるようにしなくては。
あかりはそう心に決めながら手を外そうとして――力を抜いても軽く振っても静の手がついてくることに首を傾げた。
(あれ?)
静を見上げると、彼はあかりが離そうとしている手を見つめて、切なげに目を細めていた。
「静、くん?」
「……明日も会いたい」
静が消え入りそうな声で呟く。
同時にまだ繋がっている手を持ち上げ、自分よりひと回り小さなあかりの手の甲を頬へ擦り付けながら――感触を堪能するかのように目を閉じた。
その憂いを帯びた表情と包まれた手の強さが、静のまだ離れたくないという気持ちを伝えてくる。
あかりは目に映る情報を理解した瞬間、ぶわりと顔に熱が集まるのを感じた。
「駄目?」
固まるばかりで返事のできないあかりに焦れたのか、まぶたを持ち上げた静が縋るような目を向ける。
すると、あかりはふと、静の瞳に寂しさだけではなく違う何かが隠れていることに気がついた。
なんだろうとじっと見つめて、静の瞳が揺らいだ時――あかりが静に与えた影響を見つけた。
(私と離れるのを、怖がってる?)
離れる、というより、いなくなることが怖いのだろうか。
ついひどい言葉を投げつけた方に意識が向いてしまっていたけれど、それよりももっと深く静を傷つけたのは、もしかしたら五年前の今日、目の前で消えたことなのかもしれない。
高校生の静は何度も「そばにいて」と言っていた。それを振り切って手の届かない場所へ行ってしまった後、静はあかりの居場所もわからないまま数年を過ごした。
両親と祖父母だけでなく、あかりまで静を置いていったことになる。トラウマを刺激した可能性は充分にあった。
(御守りもないし、もうどこにも行けないことはわかってるはずなのに)
どうしたら安心させてあげられるのだろう、と考えて、すぐに静の真似をしてみれば良いという妙案が浮かんだ。
――この時のあかりは恐らく、怒涛の一日に頭が疲れ果てていたのだろう。
大して悩みもせずに、静の手を引いた。
「静くん、ちょっと、こっち」
あかりはアパートの階段を一段上り、静はそのまま一番下にいてもらって、向き合う。
「私も、明日会いたいな。おやすみなさい」
にこ、と笑って背伸びをして、ちゅ、と静の頬に唇を押し当てた。
そう、安心させる方法がわからないなら、悪い考えを吹き飛ばせば良いのだ。
少なくともあかりは静に触れられると何も考えられなくなる。中でも熱を出した時のキスは相当な混乱を呼んだ。
これで大丈夫だという謎の満足感を抱いたあかりは、背伸びの時に自然と静の肩に触れていた手を引っ込めて振り返り、家に帰るため、階段を上りはじめる。
そして一段一段進んでいくたびに――自分が今、何をしたのか理解して、赤面した。
(え? 私、今、えっ……!?)
いつもの自分ならまずできない行動に、思わず足から力が抜けそうになる。けれど静の視界に入っている間は堪えなければ。
走ったら転びそうな足取りで家のドアにたどり着き、静からもらった上着のポケットに入れておいた鍵を震える手で取り出す。
静の反応を見ないで良かった。
もし嫌がられたり何してるんだコイツという目で見られたら泣く自信しかない。
何度か失敗しながら解錠し、やっとの思いで開けたドアの隙間から体を滑り込ませる。
後ろでドアが閉まった音を聞いたあかりは、とうとう力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
熱い。
恥ずかしい。
気持ちが昂って、落ち着かない。
「あかり? おかえり、遅かったね……って、どうしたの!?」
帰宅に気がついた母が、キッチンから顔を覗かせた途端に息を呑んだのがわかる。玄関に顔を真っ赤にして座り込む娘がいれば、心配するのも当然だ。
あかりは靴を脱ぎたくてこの体勢になっているのだと思ってもらうために、上り口の段差になんとか座り直した。
「まさか、また何かあったんじゃ」
「た、ただいま! 大丈夫、変なことは何もなかったよ」
ストーカーの件で心配させているので、あかりはしっかりと否定した。
と言うより、どちらかと言えば変なことをしたのはあかりの方である。あのまま置いてきてしまったけれど、静はきちんと帰っただろうか。
「そう……? でも顔真っ赤だよ、熱あるんじゃない?」
「ない、と思うけど」
「本当? とにかく上がんなさい。ご飯の準備は今お母さんやってるから、あかりは念のため熱測って」
「あ、ごめん。私やるよ」
「いいから。まず手洗いとうがい」
仕事で疲れている母に申し訳なく思いながら、言葉に甘えて洗面台で言われたことを済ます。
そして部屋に荷物を置くためにキッチンを横切ろうとして、冷蔵庫からおかずを出していた母に声をかけられ、足を止めた。
「あれ? あんたそんな服持ってたっけ?」
「あ、これは……」
「買ったの? 良いじゃない、似合ってる」
静が選んでくれた服を、褒めてもらえて嬉しい。
特に顔に出したつもりはないのに、母はピンときたらしい。
「あんた、彼氏できたでしょ」
「えっ」
「えっ!? 当たった!? え、ほんとに?」
食いつきがすごい。たしかに彼氏ができるのは初めてなので、その気持ちはわかるけれども。
「……うん」
「おめでとうー! 何、もしかして今日彼氏と出かけてたの?」
「と、いうか。今日、彼氏ができた、かな」
今まではあくまでも仮の彼氏だった。もちろんそれは母にも友達にも話していない。
後ろをついてくる母から逃げるように部屋に入り、上着を脱いだ。
「そう、よかったね……なんだかほっとしちゃった。あんなことがあったから、男の人が怖くなるんじゃないかって心配してたんだから」
「ありがとう。でもあれもすぐ助けてくれた人がいたから、今のところ後遺症とかはないよ」
「それなら良いんだけど……。その様子ならあれも大丈夫かな」
「あれ?」
「実はね――」
会話を続けながら熱を測ったあかりは、何の問題もない数字が表示されたそれを母に見せ、結局手を止めてしまっていた母と一緒にご飯の準備をすることにした。
すでに冷蔵庫の中は比較的片付いている。今日は出かける前にどうしてもじっとしていられず、早起きついでにある程度料理の作り置きを済ませていたのだ。これなら、明日も午前中に家事をすれば出かけても大丈夫だろう。
母が選んだのは回鍋肉と春雨サラダだった。今日は中華の気分らしい。
二人は出来上がった料理を並べて、いつもより少し遅い夕食を摂りはじめた。
「――てことだから、よろしく。はい、それじゃ彼氏のこと教えて! どんな人なの?」
「ええ……なんかこういうの、すごく照れる」
「いいじゃない、ひかりは美人なのに全然そんな話出てこないんだもの。いくつになっても女は恋バナが楽しいもんなの」
ひかりとは、あかりの姉だ。離れて暮らしているので母もあかりも、主に電話かメッセージで連絡を取り合っている。
この間判明した趣味のことを思うと、そちらが楽しすぎて男性に時間を使う余裕がないのかもしれない。もちろん姉ならその気になれば、すぐにでも男性の一人や二人を惚れさせるくらいできそうだけれど、あれだけ熱中しているものがあるのだから、妹としてはそういう部分も含めて姉を好きになってくれる人と幸せになってほしい。
「えっと、すごく優しい人だよ」
「うん、それから?」
「気遣いができて、いつも私を助けてくれる」
「素敵じゃない。同じクラスの子なの?」
「ううん……歳上の人」
静のことを思い出すと、自然と頬が染まっていく。
身内にそれを見られるのは慣れないし、恥ずかしい。それでも、最近あかりのせいなのかあまり元気のなかった母が久しぶりに明るく話をしてくれるのを、止めたくはなかった。
「……あんた、よっぽどその彼氏が好きなのね」
「えっ、なんでわかるの?」
「わかるでしょ。好きでたまらないって顔してるもの」
顔が赤くなりやすい体質とはいえ、おかしい。
静と出会ってからだ。ここまで人からわかりやすいと言われるようになったのは。
「あら? じゃあもしかして六月に水族館行った時の相手って」
「うん……その人」
「……そう。春頃から綺麗になっていったのは、その人のおかげだったの」
(今、綺麗って言った?)
母から言われたことのなかった言葉に、うつむきがちだった顔を上げる。
母は、優しい顔であかりを見ていた。
「あんたが選んだ人なら、きっと良い人なんでしょ。いつかうちに連れてきなさい」
胸が詰まって、ご飯が喉を通らなくなる。
母の信頼が嬉しい。そしてその信頼に足る人を好きになれて、本当に良かったと心から思った。
「……うん」
その日の夜は、長い昼寝と興奮の影響であまり眠れないだろうという予想に反して、久しぶりに薬を飲まずにぐっすりと眠ることができた。
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