足枷
ツキは、マンションの屋上で寝そべっていた。真っ暗な夜空には星々がちかちかと輝いている。こうして仰向けに寝転んでいると、暗闇と自分の境界が曖昧になってきて、思わず目を瞑った。目を瞑っても暗闇だということは、わかっている。
(どっちが、マシなんだか)
ツキは手を上げた。瞑った目には見えないが、右の中指にはシルバーリングがはまっている。
四人を繋ぐ、リング。
ツキはそれを外して、この屋上から放り投げたい衝動に駆られた。
大人の年齢に近づいても思い起こすのは、研究所にいた頃の自分。
ツキは、少しだけ肌寒さを感じながら、深い眠りに落ちていった。
「ツキ、待って、ツキ‼︎」
ツキの後を、小さな手を伸ばしてフウが駆けてくる。
「…………」
それを無視して、ツキは廊下を早足で歩いていった。廊下の突き当たりを曲がると、さらに長い廊下。曲がった瞬間、突然駆け足で走った。
(追いつくわけがない)
心も走っていた。いつもまとわりついてくる鬱陶しいフウの束縛から、逃れたい。何も考えていないハナと何を考えているかわからないトリから逃れたい。規律の厳しい、この研究所の束縛からも逃げ出したい。
何もかもを捨て身軽になって、自由にひとりで生きていきたい。
ツキは後ろを振り返らずに、精一杯走った。
「ツキ、待ってえ」
フウの声はすでに遠い。
(このまま行けば、玄関から外へと出られる)
ツキの足が軽くなった。いや、身体が軽くなっていた。廊下を力強く蹴ると、ふわ、と身体が宙に浮いた。足を懸命に動かす。
(月の重力は、こんな感じだったのかな……)
あと少し駆ければ、外へと飛び出せる。
そう思った時、後ろでバタンと音がした。
ちらと振り返ると、フウが廊下の中央で倒れている。転んだと分かるような声で、フウは泣き始めた。
「痛い、えっえっ、痛いよう」
ツキは、軽やかに運んでいた足を止めた。全身で振り返ると、途端に足の裏が地面にくっついて、徐々に重くなっていくのを感じた。
鉛のように重い足。鎖で繋がれているように動かない足。
ツキは、しばらくの間、放心状態でフウを見ていた。
ごそと、フウが起き上がって体育座りをすると、少し距離のあるツキにも、その膝から血が流れているのが見えた。
心が冷えていく。
ツキは重い足を動かして、フウの元へと歩いた。
(ああ、俺はいつになったら自由になれるんだろう)
近づいてくるツキを見つけると、フウは泣きながらツキを見上げた。
「ツキ、痛いよう」
「わかってる、俺がおんぶしてやるから。治療室に連れてってやる」
フウが嫌がることをわざと言う。
「やだっ、治療室なんてやだよ‼︎」
涙でぐしゃぐしゃな顔を、さらに歪めた。
「じゃあ、俺の部屋な。バンドエイドがあるから」
フウのほっとした顔。
「うん」
ツキは伸ばしたフウの手を握ると、しゃがみ込んで風を背中に乗せた。体重を感じないのは、フウが風をうまく使って身体を浮かせているからだろう。
「ツキ、」
背中で囁く声に、返事をする。
「なに?」
「ツキ、どこにもいかないで」
ツキは唇を噛んだ。後ろに背負っているフウには見えないから、血が出るまで噛んでも平気なはずだ。
「ん」
やっとの事で、小さな返事を絞り出した。それほどに、ツキはこの研究所で疲弊していた。
「珍しいな。俺が夢を見るなんてな」
目を覚ますと、先ほどまで見ていた暗闇が、そのままだった。闇が重さを増しているだけで、なんの変わりもない。
うとうとして、その短い間に夢を見るのは久しぶりだ。
疲れていた。
リアキアに引力や重力をもたらすのに、かなりの力を使っている。
あまり睡眠を必要としないツキでも、それでも重苦しい疲労感に襲われていた。
「ふわああ、眠む」
今度は本格的な眠気がやってきて、ごろんと横になる。
(このままここで眠ったら、明日の朝には死体になっているだろうか……)
防護服なしで外に出れば、タクトなどはすぐに死んでしまうだろう。リアキアを再生中だといっても、まだまだ完了するのには時間はかかる。
(研究所で環境対応の訓練を受けていたとはいっても、俺も一日中外に出てりゃ、死ねるかもな)
膝を曲げ、腕を枕にして目を瞑って、丸くなる。
するとまぶたの裏側に浮かんできたのはフウの顔。
『ツキ、ツキっ‼︎ 死なないでよお、ツキ、目を開けてええ』
泣き顔は何度も見てきたが、自分の死体を見つけた時のフウの顔は凄まじいものだろうなと思うと、ツキの胸が絞られるように痛んだ。
目を開けると、よいしょと起き上がる。
「死ねねー」
ツキはくくっと苦笑すると、屋上のドアを開けて中へと入った。




