花鳥
その人は、勤務先のサービスセンターで働いていた。
タクトはその頃、すでに技術職について随分と経っていたので、仕事にも慣れ気持ちにも余裕があった。
いつものように、会社のエントランスに足を踏み入れる。すると、先週まではなかったカウンターが、自動ドアの正面に据えられている。
(あれ? なんだこれは)
上を見上げると、『受付』のプレートがぶら下がっている。
タクトは、そろそろと近づいていくと、いつのまに、と呟いた。
そして。
「うわっ」
誰もいないと思っていたカウンターの中から、ひょこっと顔が出てきて、驚く。
「今日からです」
にこっと笑った制服姿の女性。それが、片桐 忍だった。
「社長の案で、今日から来客用のカウンターを作ることになったんですよ。今まで無かったのが不思議なくらいですけどね」
首を傾げながら、ふふと笑う。陽だまりを思わせる明るい笑顔だった。
毎日、会社へ出社すれば顔を合わせることができる。数日すると、名前も覚えられ、タクトはいつしか恋心を抱くようになった。
「食事にでも誘ってみたら? でもまずは、その前に恋人がいるかどうか確認しないとなっ」
すでに結婚を決めている同い年の同僚に、背中をバシンっと叩かれる。
「いいんだよ、そういうのは」
いつもタクトはそう返事を返していた。それは、恋愛面になると自分に自信がまるで持てなくなるという理由もあったが、その笑顔を遠くからでも見ているだけで満足ということもあった。
(笑顔を見るだけで癒される)
淡い恋心。
(それで十分なんだよ、俺にとっては……)
コールドスリープの管理人に手を上げる時、その忍の笑顔を守りたいという理由もあった。
『バカじゃないのか? そんなの自己満足だよ』
同僚の誰かがそう言った気がした。
(いいんだよ、自己満足だろうがなんだろうが)
タクトは瞑っていた目をさらに、ぐっと瞑った。
✳︎✳︎✳︎
「ちょ、おいっ‼︎ 食器を置きっぱにしたの誰だっ‼︎」
タクトは、ダイニングテーブルにごちゃと山盛りになっている食器類を見て、怒鳴り声を上げた。
「フウっ、お前だろうっ」
「違う違う、それハナちゃんの分だよ」
フウが澄ました顔で言い放つ。
「ええー、フウちゃん、ヒドイー」
タクトは、ガチャガチャと音をさせながら皿を運び、シンクの中に放り投げた。水道の蛇口を上げる。勢いよく水が出て、皿に当たって、周りに飛び散った。服に水を浴びながら、タクトは心の中で叫んでいた。
(くっそー、こいつらまじでムカつく)
つい最近、『花鳥風月』の「花」と「鳥」が目を覚ました。
『花』は「織田 花」という十八歳の少女、『鳥』は「佐藤 鳥」という二十二歳の男だ。
目覚めてからは、タクトのマンションの並びの部屋に押し込めてあるのだが、何かにつけてタクトの家へと集まってきては、食べ物を食い散らかして帰っていく。
独りだったタクトの部屋が、一気に騒々しくなった。
ようやく、ツキとフウの破茶滅茶な性格を把握して受け入れたと思ったら、また新手の新人類が二人も増え、それだけでタクトは疲弊した。
「わわっっ、ちょっと待てっ」
隣で、絞っていない水浸しのタオルで皿を拭くハナを見て、タクトは慌ててタオルを取り上げる。その拍子に、Tシャツにべちょっ、と、シミができた。
「おいおいおい、ハナは手伝わんでいい」
生活能力のまるでない若者四人を御するのは、本当に大変だ。
(それにこいつら……)
「トリくんー、タクトに怒られたあ」
ハナがトリに抱きついていく。それを受け止めて頭を撫でると、トリはタクトへと睨みを効かせた視線を投げつけた。
「あんなおっさん、放っておけ」
ピキッとこめかみに力が入るのを感じながら、残りの皿を乱暴に洗う。
(何がムカつくって……こいつら、昼間っからいちゃいちゃと)
四人の様子を見ていると、「ツキ・フウ」「トリ・ハナ」のカップルが出来上がっているようだ。ツキとフウはそこまでではないが、トリとハナは常にべったりだ。
「なあ、お前らいちゃつきたいなら、自分ちでやってくれ」
水を止めてタオルで手を拭くと、タクトが腰に手を当てながら言った。
「ってか、お前ら仕事はしねえのかよ?」
「だって、今日は休みでしょ。カレンダーにも書いてあるじゃん」
フウが口を尖らせながら、部屋の壁に掛けられたカレンダーをぴっと指差す。
「これは俺の休みだっての‼︎」
「会社が休みなら、私たちもお休みだよねー」
ハナが、トリの腕にすがりつきながら言った。
「じゃあ、うちに帰れよ」
「言われなくても帰りますう」
「くそフウ、菓子を勝手に持っていくなっての」
「これ、いただきますう」
じゃあね、と四人がそれぞれに帰っていく。バタンとドアが閉まると、途端に静寂が訪れた。
「はあああ、ようやくゆっくりできる……」
久しぶりの独りに、なぜか懐かしさのようなものまで感じる。
「ゲームでもやるかあ」
電源を入れてから立ち上がるまで待つ。
静寂と引き換えに、思考が頭の中を駆け巡る。
(ずいぶんと、環境も違ってきたな)
チチチ、チチチと窓の外で鳴き声がして目を遣る。ベランダの手すりに、一羽の小鳥が留まっていた。
「これを、あのトリが創り出したなんてな」
どこか飄然として、表情の乏しいトリを思い出す。ツキとフウの仕事ぶりを見についていった時のように、トリとハナの仕事も把握している。
トリが握っていた手を広げると、あっという間に一羽の白いハトが飛び立っていった。ハトはクークーといって、その場にとどまらず、すぐに飛び去っていった。
「男一人じゃ、寂しいだろ」
そう言うと、もう一度手のひらから、今度は黒っぽいハトを一羽出した。同じようにして、黒いハトは白いハトを追いかけていった。
「今のが女なのか?」
タクトが問いかけると、トリはタクトを見ずに言った。
「そうだよ。とにかくカップルにしないとね」
「…………」
「できないだろ、セッ」
次に来る言葉の見当がついたので、うわわわわーと耳を塞いで声を上げてそれを阻止する。
タクトは慌ててトリから離れ、ハナを探した。
「で、ハナは? と」
キョロっと周りを見渡すと、少し遠くの砂利にしゃがみこむハナの姿。何をしているのかは想像できたが、タクトはハナの背中側から覗き込んで、問うた。
「そんでお前は何やってんの?」
「んー、これー」
指をさしたところに、紫色の可愛い花が咲いている。
やっぱりな、と思う。
『花鳥風月』ツキ、フウ、トリの三人の仕事ぶりを見れば、四人目、ハナの仕事はもう9割は決まっている。
「可愛い花だな」
すると、え、と顔を上げた。悲しそうな表情を浮かべるので、何かおかしなことを言ったかと、タクトは狼狽えた。
「な、なんだよ。俺、変なこと言ったか?」
「タクトさん、だったよね? ごめんなさい、わたし、トリと付き合ってるから」
その言葉で、あーはいはい、と納得。
「悪りい、こっちの花のことを可愛いって言ったんだけど」
紫の可憐な花を指す。
「……そ、そうなんだー。やだー」
顔を真っ赤にして、ハナは俯いた。
すると。
辺り一面に、みるみるうちに緑の絨毯がするすると敷かれていくように、植物が次々に生えてきた。芽が出て葉を広げ、そして蕾をつけ、花を咲かせていく。
それは、タクトの視界に収まるほどの広さに、広がっていった。
紫だけではなく、赤や黄色、水色、オレンジ、その色彩は無限に。
「おわああああ、すげー」
タクトが感嘆して声を上げると、ハナはまだ真っ赤な顔をしていた。




