2-30 帰還と将来とスイッチ
朝から運動することは健康にいいのではないか。そう、ラジオ体操のように。
朝の激戦を終えてそのようなことをふと考えたが、まあ普段から他に運動していれば余り関係ないな、という結論に至る。
それに上下ないし前後の運動ばかりでは、明らかに偏り過ぎであろう。一時的にせよ、今日も思考は冷静に冴え渡っていた。
「あっつ……。」
冷える思考とは裏腹に朝方の部屋の気温は既に高く、たらいの氷は既に解けていた。新しいのを出してもらおうと、メルーミィの両手両足を頭の後ろでひとつに結んでいた布を解いたが、本人はまだ夢見心地のようなのでそっとしておく。
ちょっと変わったことしている自覚はあるが、こういう変化球があることはなんだかんだでお互いに嬉しいし、彼女がこの生活を順調に受け入れてきている証左でもある。
ついでに彼女の身体が想定以上に柔軟だったことも、思わぬ悦びに繋がって嬉しい誤算と言えた。最近ではネルフィアも対抗して頻繁にストレッチをしているほどである。柔軟性を得ることは何かと便利だし、悪いことではあるまい。
「[光刃]っと。」
揃って余韻に浸る奴隷たちは休ませておいて起き出すと、氷室箱に残った氷を取り出し卸金で削っていく。細かい氷の山に昨日も使ったメルーミィ謹製シロップをかけると、仕上げに冷やしておいた果物も卸金で粗めに摩り下ろして加えて完成だ。
「ん……上出来。」
スプーンで一口すると、爽やかな果汁の香りとシロップの濃いめの甘味が混じり合ってちょうどいい具合になる。粗く形を残す果肉も、氷とは違った歯応えがアクセントになっていて良い感じだ。
果汁とシロップの分量を計算に入れて仕上げる必要があるのだが、メルーミィの手際をどうにか真似できた。
シロップの出来栄えについてはもっと誉めてもよかっただろうか。ダブル女子高生につい浮かれてしまったことは汗顔の至りである。
やることリストにメルーミィをちゃんと誉めることを追加しつつ、食べながら考えるべきことに思考を傾ける。
(将来的なこともそろそろ考えんとな……。)
こういった思考は地球にいた頃にはまずしなかったと思い出せる。漫然と歳を重ねることしかできなかったコンビニ店員であった頃に比べれば、思い描けるだけの将来がある今の方が、幾分かマシな気はしないでもない。
(まず地球に戻るというのは無理だろうしな。)
王国への義理もなくなった今、帰還についてはあらためて何度か考えてみたが、手持ちの情報────アンドという偽名の工作員からの知識では、ほぼ不可能という結論に達している。
王国の新式勇者召喚魔法によって召喚された勇者が、元の世界への送還を願い出ることは極稀にしかいないが、元よりそれについてのサポートは特に考えられてはいない。
召喚直後であれば元の世界との繋がりがまだ強いため、最もコストが掛からないという理由で魂を送り返す形にはなるのだが、それ以外は次の勇者を召喚するついでにサーチした異世界へ放棄されて終わりだ。今から地球という特定の異世界を発見し、送還を行うのはほぼ不可能である。
どの道、王国から離反した時点で穏当に送還を願うのも不可能となったが、扱いを考えれば後悔もない。
(それに今更一人で帰ってもなあ。)
仮に何らかの方法で地球への送還の手筈が整ったとしても、ネルフィアたちを捨てて行く気にはなれない。一緒に連れて行ければ考えなくもないが、それには莫大なコストが必要になるという明確な理由が存在しているのだ。
この世界には瞬間移動の魔法が存在している。そんな便利魔法が存在するにも関わらず流通が馬車頼みだったりするのは、ひとえにコストパフォーマンスの問題だ。容量が大きい物質をより遠距離に飛ばそうとするほどに、幾何級数的にコストは増大してしまう。
瞬間移動を補助する大掛かりな専用魔法陣を複数箇所に設置し、特定のポイントからポイントへの限定的な移動であるならまだ実用できるレベルにはなる。だがそれでも瞬間移動とは、王族などの有力者が居城から脱出するほどの危機に見舞われた際、ようやく用いるといった程度のもの。如何にコストが嵩むか分かろうというものだ。
そして送還にもこれと同じことが言える。行き先が異世界というだけでも既に相当なものだが、現時点でも三人だし、もっと増えてしまうことを考えるととてもコストを賄えるとは思えない。そんなに稼げるならこの世界で死ぬまで遊んで暮らせるだろう。
魂だけを引っ張ることで莫大なコストカットに成功した新式召喚は、割と本当に画期的なのであった。
余談だが、新式と言うからには旧式の召喚魔法が当然存在する。こちらの場合は勇者の肉体ごと引っ張ってくるので、とにかくコストが重くて滅多に行えるものではないのだという。
王国のみならず共和国や帝国など、それなりに歴史のある国なら旧式召喚を保有しているのだが、多分に博打性の高いこともあってやはり使われることはまずない。
(勇者ガチャに大金ぶっ込んで、出てきたのが言葉も通じない原始人じゃやってられんわな。)
もっと対象条件を絞り込めばそれも回避できるらしいが、ただでさえ重いコストが更に重くなる上、まともな勇者が召喚できる確実な保証はない。ちょっとした沼であった。
原始人勇者は新式でも結構召喚されるらしいが、こちらはとにかく一回のコストを軽くして数を回していくスタイルである。
旧式が使い捨ての燃料ロケットを飛ばして周回軌道に乗せてから地上に戻すことだとすれば、新式は軌道エレベーターを建ててカゴを上下させるぐらいの差はあるのではないか。
(まあネルフィアたちと家庭を築くってのが妥当か。)
思考が冴え渡る余り余計なことまで考えてしまった気はするが、人生の最終的な目標はそんなところになるだろう。
冒険者としての生活に不満があるわけではないが、この目標を達成するためには根無し草のままでは難しい。
必要なのはやはり家だ。数人で入れるサイズの湯船を所有するにも、ネルフィアたちに子供を産ませて育てるにも、それなりの家が欲しい。
ただし家は金があれば買えるというようなものではない。結界に守られた市井に居を構えるには、市民権を得なければならないからだ。購入には金はもちろんのこと、一定の社会的信用が求められる。特に冒険者上がりで市民権を得るには、最低でも二級が必要とのこと。
腕を上げてどこぞに召し抱えられるというルートもあるのだろうが、抱えてる秘密を考えると誰かに仕えるというのはリスクが高い。やはり自営業でやっていくしかないか。
(この街も悪くはないんだがな。)
住む場所にしても、立地的には都会の方が何かと暮らし易いことは経験済みだ。今すぐ市民になれるというものでもないのだから、この国の中心である帝都を見てから決めても遅くはない。
(よし、ここで三級まで上げてから帝都に行くとするか。)
概ねの方針は決まった。
(となると次に考えるのはこれだ。)
今朝目覚めてからずっと、頭の奥に何かのスイッチのようなものが増えている感覚がある。これを押すと探心の新たな拡張能力が発動するものと思われるが、なんとなく後回しにしてしまっていた。
恐らくこの能力はここで打ち止めだ。完成とも言える。それだけに予感があった。強力ながらも扱い方を間違えるとリスクを伴うという予感が。
(まあ試すしかないんだけど。)
性能を把握できていないものを実戦投入する方が危険であろう。深呼吸をして覚悟を決め、感覚的にボタンを押し込んだ。




