2-2 三週間分の禊
愛を囁いた翌日は未だに気恥ずかしさが残るが、それもひたすら山野を踏破している内にやがて薄れ、魔物を打倒したり避けたりする内に忘却し、夜にはまた囁くのを繰り返す。
「……やっと見えたか。」
そんな旅を続けること三週間余り、カインたちはついに共和国の辺境都市プガンナを目にした。
「ネルフィア、付いてきてくれて本当にありがとう。」
「はい、どうぞこれからもお側に置いてください。」
苦難の旅路に付き添ってくれたネルフィアには、あらためて感謝しかない。思わず抱きしめてキスしてしまう。ロクに洗濯もできなかったこの三週間でそれなりに薄汚れているが、今は喜びの方が大きい。
割とハードな新婚旅行であったが、夫婦の営みには手を抜かずにここまで来たのだ。今更という感もある。
「……ん、それじゃあ行くか。」
ネルフィアを堪能し、いよいよ新しい国に足を踏み入れる。唯一の懸念は、王国との関係が比較的良好らしいこの国に、手配が回っていないかだが、これはもう祈るしかないだろう。
入市審査の列に加わり待つ。まだ昼前だが、結構な長蛇となっていた。夕方はもっと混むだろうし、夜間は入市自体が制限されるのでまだマシなのであろうが。
二、三十分も待つと順番が回ってきた。
「税はこれでよろしいですか?」
納税担当の猫耳───猫人族と思われる女衛兵に若干丁寧に話しかける。王国ではなんとなく尊大な態度を続けてしまったが、勇者でなく一介の戦士となったからには、少なくとも公的な場所では言葉遣いを選ぶべきだろう。相手への印象を変える、という意味合いもあるし。
「はい……二人分、いいですよ。」
結界税の支払いも王国銀貨で済ませられた。王国との境に最も近いこの都市では、普通に金貨か銀貨は使えるようだ。とはいえ共和国の貨幣への両替を勧められてしまった。
「問題なし。次!」
荷物検査の犬耳───犬人族の獣人の衛兵からは、あっさり入市が認められる。止められるとすればここだろうから、とりあえず現時点では手配などはされていないようで一安心。
身分証のない人間であっても、都市に入ること自体はそう難しくない。若干高くはなるが、結界税さえ払えるなら文句はないという感じだ。
魔物の溢れるこの世界において、人と物の流れは極めて重要である。これが滞ることは、人間でいうなら血管が詰まるに等しい。閉塞を起こすぐらいなら、出自の怪しい人間程度は許容範囲ということなのだろう。開拓村出身だとか、いくつか適当なカバーストーリーを考えていたのだが、役立てる暇もなかった。
もちろん盗賊として手配されていないか、禁制品の持ち込みがないかなどはチェックされる。持ち物検査は嗅覚の優れた種族の獣人が嗅ぎ回り、消臭魔法が使われていないかを魔道具を使って調べるという、簡易なものであった。いちいち荷物をひっくり返して入市希望者全員を調べるには、手が足りないのだろう。
王国では勇者の身分証のおかげで、この辺はほとんどフリーパスだった。なんだかんだで優遇されていたには違いないのだということを、今更ながらに実感する。
「文明の香りがするな。」
結界という限られたスペースに人と物を詰め込んで、文化で醸成させた香りを久々に嗅ぐことができた。雑然とした中世的街並みはここでも健在だ。路面の舗装は都市を東西に走る大通りのみ。建物はレンガ造りが多いが、新しい建物だと普通にコンクリート製だったりする。街の規模はヴェーリンダより少し小さい程度だろうか。
まずは猫耳衛兵に勧められた通りに両替商に赴き、王国銀貨と銅貨を共和国のそれに替えてみると、手数料を差し引いても総量はそれなりに増えた。素体による低コスト勇者召喚システムを備え、多数の異世界技術を吸収する王国は、この世界で有数の発展を遂げた国家なのだ。自然、その貨幣価値は高まる。
ちなみに王国だと金銀銅の三種類しか貨幣がないが、共和国だと金と銀の間に大銀貨、銀と銅の間に大銅貨があったりする。この辺の通貨種類も国によってまちまちだ。
金額が大きいほど手数料も嵩むのもあり、王国金貨はそのまま持っておくことにした。共和国に根を下ろすなら替えてもいいのだが、この国は目的地ではなく通り過ぎる予定だ。とりあえずの資金は銀貨以下だけで十分だろう。
両替商を後にし、『いい加減野営料理以外の食事がしたい』というネルフィアの内心に同意しつつ、嗅覚を頼りに手近な屋台に突入。
「適当に二人分、頼むよ。」
「へい、ベッサムでいいですね。ちょっとお待ちを。」
匂いから何かの肉が食べられるだろうと予想はしていたが、想像とは少々毛色が違った。この辺で肉料理と言えば、挽いた肉を平たく形成して焼いたものが一般的らしい。このベッサムという名の料理は、地球でなら紛うことなきハンバーグであった。
「焼いてるのに柔らかくて、肉団子とはまた違った感じでいいですね。」
口に出さないだけで、最近肉にうるさくなりつつあるネルフィアも納得の出来栄えだ。
つなぎは卵ではなくパン粉のようなものだけみたいだが、外をさっと焼き固めて肉汁たっぷりに仕上げており悪くない。細かく刻まれた野菜も混ぜ込まれており、歯応えに程よいアクセントをもたらしている。透明に近いタレはちょっと甘酸っぱい感じだ。大根おろしでも乗せたら立派な和風ハンバーグになるのではないか。
「追加頼める?」
「はいよ。」
「あ、私もお願いします。」
半分程度食べた時点でおかわりを注文しておく。この手のメニューは焼き上がりの時間を計算して注文しておくと、待たずに済むのである。
店主は用意していたタネを焼いている間、手回し式のミンチマシンから挽肉を生成し、手早くつなぎや野菜と混ぜ合わせて新たなタネを作っていた。手際だけ見てもいい腕なのが分かる。今の内に寝かせておいて、後の注文に備えるのだろう。
結局五枚ほど平らげてしまった。自分で調理どころか片付けもしなくていい食事はやはり楽でいい。
店主に公衆浴場がないか聞いてみたら、この辺にもあるらしいので早速足を伸ばす。建物に何か違和感を覚えつつもとりあえず入ると、その正体が分かった。
「ああ、蒸し風呂なのか。」
王国では当たり前のようにあった巨大な煙突が、この建物にはなかったのだ。
「入り方は知ってるか?」
「多分、大丈夫だと思います。」『初めてだけど。』
まあ風呂で滅多なこともあるまいと、ネルフィアを女性用へと送り出す。カインも男性用に入り、汗を流すことに集中した。
これはこれで悪くない、というのが率直な感想である。要は身体が温まれば毛穴が開き、詰まっている垢を落としやすくなるのだ。人間の体表の垢の大半は、この毛穴のものなのだという。そこから垢をどの程度擦るかは好みによるだろう。何にせよ、身体をぬるま湯で拭くだけでは得られない爽快感があった。
(異世界にも張り合って長く入ろうとするおっさんっているんだな……おっ。)
特に意味のない発見もほどほどに汗を流して上がると、果実水が売っているのが目に入った。しかも魔道具を使って冷えたものが用意されている。冷えてる分だけちょっとだけお高いが、迷わず即買いしてしまった。消費者心理を巧妙に突いてくる手口だ。
果実水の冷たさが身体に染み渡るのを実感しながら、ネルフィア待ちも久々だな、と思っていると割とすぐ出てきた。
「お待たせしましたご主人様。」
「……だ、大丈夫か?」
やけに彼女の肌が赤いのは、体温の上昇のためだけではあるまい。三週間以上入浴できなかったことが垢擦りに過度の気合を発生させ、肌へのダメージとなっていたのだった。
差し当たっては冷えた果実水を飲ませながら、[治癒]を掛けるべきだろう。




