1-44 死亡フラグと命令拒否
「ぃよっ、と……。」
荷物を詰め込んだ収納袋を背負う際、思わず声が出た。これだけ様々な野営用具が増えると、流石に収納袋の容量も限界が見えてくる。もうちょっと容量が大きいものを購入してもいいが、今はリストに追加するだけだ。今回の準備だけで結構な金が飛んでしまった。討伐が成らなければ赤字だが、ネルフィアに区切りさえ付けられればそれでいいとも思う。
早朝の山中は薄暗い霧に包まれていたが、出発する分には問題ないだろう。道に迷ったりはしない。どこを歩いてきたかは思い出せるのだから、最悪でも来た道を引き返せばなんとかなる。
「お、来たか。」
ノアの十回目の成長は霧も晴れた昼前、ファットボアを倒して起こった。そろそろだとは思っていたので驚きはない。
「おめでとうございます、これで確実に盗賊を仕留められますね。」
「……そうだな……。」
ネルフィアの戦意の高さとは別に、戦いになるかは微妙なところだ。まだ探心にもそれらしい反応すらない。三日は探索を続ける予定だが、このまま発見できない可能性もある。
(それにしても育ったよなあ。)
これといった進展もないので、つい雑念が入ってしまう。ネルフィアの豊満なそれは、この上なく夜の楽しみに役立っているが、きっと本来の役割───授乳器官としても十分活躍するはずだ。
根無し草に近い現状では無理だが、いずれネルフィアに子供を産んでもらうということは、十二分に有り得る。この世界での十八歳は、もう子供がいてもおかしくない年齢だ。どちらかと言えばネルフィアの方こそ、避妊魔法を使うことをちょっと残念がっているぐらいである。ノアとて、そんなそう遠くない将来の話を考えなくもない。
(俺が人の親になるか……まあ普通はその前に結婚だが、それも障害が多そうなんだよなあ。)
身分が奴隷のままでは結婚できない。一度解放する必要があるのだが、借金の問題があるので、勝手に話を進めるわけにもいかないだろう。
現状が事実婚のようなものではあるが、流石にこの世界でも、奴隷に子供を産ませるのは風聞が悪い。主人が未婚であっても、婚姻関係を結べない奴隷のポジションは、言うなれば愛人のそれだからだ。
夫婦の一方を主人、もう一方を奴隷とすることで、明確な上下関係を構築する奴隷婚なんて風習もあるが、やはりまずどちらかが奴隷のままでは無理である。
(また王都に行ったら主任に話を通すか。ひとまずネルフィアには指輪でも贈るかな。街に戻ったら適当なのを……はっ!?)
俺、この討伐が終わったら結婚するんだ……的な死亡フラグが、危うく立ちそうになったのを思い留まる。本当に起きるとも思わないが、縁起は悪そうだ。
思うにこの手の死亡フラグとは、戦いの中でその後のことを夢想するような奴は、集中できてないのですぐ死ぬ、という戒めなのではないか。
ひとまず将来的な展望のことは一切忘れ、探索に集中するのだった。
見知らぬ人間の反応を探知したのは、その日の昼下がりのことだった。他に手掛かりもないのでそちらに向かってみる。ある程度進んでみると、反応が増えていく。何らかの集団なのは確かだろう。
(これは当たりかな?)
人数は九人。村か何かというには少ない。こんな山の中にいるとすれば、冒険者か盗賊でほぼ間違いないはずだ。
感情を探ってみると、大半の人間は『楽しんで』いるようだが、そこに節度や配慮などといったものとは無縁だ。明らかな『暴力性』を伴っている。
そしてただ一人だけが、『苦痛』や『絶望』を感じている状況だ。
「……む。」
「どうしました?」
「いや、あっちに何かあるような気がしてな。」
浮かれている連中が盗賊だとするならば、ロクな状況ではあるまい。移動のペースを上げてみようにも、山林はそれを容易に許さない。そしてノアたちを阻むのは、何も自然だけではなかった。
残り五百メートル程度の距離まで接近した時である。
『っ! 足元に何か……!』「ご主人様!」
「……ああ。」
木と木の間、足を引っ掛ける高さにロープが張られている。その先を辿ると、枝に太い木杭が括り付けられていた。ロープが引っ張られると、あれが振り子のように突き刺さってくるのだろう。盗賊の仕掛けた罠だとは思うが、目標は人か魔物か……まあ両方だろう。
正直全く気付かなかったが、ネルフィアの感覚が鋭くて助かった。
「どうやら盗賊は近いようだな、注意して進もう。」
「分かりました。」
点在する罠を避けつつ進み、残り三百メートル辺りまで来たが、既に『苦痛』に喘いでいた誰かの反応はない。間に合わなかったのだろう。もっとも、助ける手段があったとも思えんが。
「あそこ、何かあるな。」
進行方向には結構な高さの岩壁があり、遠目には分からなかったが、その根本に人工物らしき何かがあるのだ。反応もその辺りから感じられる。
それこそはこの山岳地帯がまだ王国でなかった頃、岩壁をくり抜いて作られた隠し砦跡なのだが、ノアには知る由もなかった。
「! 隠れろ。」
場所の来歴はともかく、二人の人間の反応が岩壁の中から近付いてきていたので、身を隠す。ほどなく二人の男が姿を表した。
「ッ……!」
男たちが運んでいた荷物を目にしたネルフィアが、思わず口を押さえる。運ばれていたのは血塗れの死体だ。この距離ではもう男か女かさえ分からない。多分男だと思うが、今となっては大した差はないだろう。
そのまま急斜面になっているところまで運ばれた荷物は、勢いをつけて放り出された。そうして男たちは岩壁の中に戻っていく。
どんな理由であの荷物ができたかも、あの連中が本当に賞金首ガーアン・ビッツの一味かも分からないが、これだけは分かる。
「いるもんだな……こんなに邪悪な人間ってのが……。」
荷物を始末する段階となってさえ、男たちの感情は『気軽』なものだった。むしろどれだけ勢いよく転がっていくかを、『楽しんで』さえいたのだ。
地球にいた頃は、コンビニでロクでもない客に応対し、この世界に来てからというもの、それなりに悪人の心に触れてきたように思う。だが嬲り殺しにあったであろう死体のグロさよりも、人間の心の邪悪さに吐き気を催したのは、流石に初めてのことであった。
正義の味方を気取るつもりはないが、それでも義憤と思しき感情が湧き上がってくる。奴らを赦してはならない、と。
だがその一方で、ノアの冷静で臆病な面が警告を発してもいた。
(敵は八人……多いな。)
賞金首の他にも、何人か手下がいるとは聞いていた。誰かの危機を感じ、思わずこんなところまで接近してしまったが、この人数差はやはり厳しい。ひとりひとりの強さは分からないが、楽観はしない方がいいだろう。
アジトの場所は分かったのだ。金は目的ではないし、一度撤退して戦力を募り、それからまた来るのも悪くない。勇敢と蛮勇は違うのだ。
「よし、一度退くぞ。」
「……聞けません。」
「……なに……!?」
「ご主人様、その命令は聞けません……!」
勇敢さなどとは関係なく、憎悪に身を焦がしたネルフィアに命令を拒否された。『今すぐにでも盗賊たちを皆殺しにして、これ以上誰かが犠牲になるのを止める』という意思に支配されている。
ノアでさえ義憤に駆られそうになったのだから、親を殺されたネルフィアの憤激は尚の事である。盗賊の蛮行を目にしなければ、彼女が命令を拒否できるほど、心の底からそう思うことはなかったかもしれないが、今更だ。
(これは、まずい……!)
死亡フラグなどよりも遥かに明確な危機が訪れた。




