1-32 何もしないをする日
金を払って服屋を出ると、姐さんと待ち合わせをして別れる。
宿に戻れば夕食にはちょうどいい時間だった。追加メニューを何品か頼んで席に着く。成長の影響か、明らかに食欲は増加傾向にあった。身体が魔物と戦うためのカロリーを欲しているのだろう。
食事はいつも通りの塩中心の味付け。なまじ野菜が美味いせいか、調味料の類はそれほど発達しなかったのかもしれない。香辛料ならあるようだが相応にお高いようだ。
異世界定番ネタとして味噌や醤油を作ったりするが、大豆があったとしても作るための知識はノアにはなかった。あらためて現代日本での生活は、文明という名の巨大な外部記憶装置に依存していたのだと実感する。
「どうやってダークリザードの位置が分かったんです?」
「それな。」
食べながらネルフィアから質問が飛んできた。盗賊相手のも夕食の時だったなと思いながら、買い物を待ってる間に用意しておいた言い訳を披露する。
「分かりやすいのはまあ音だな。反響定位ってのがあってだな、こちらから出した音が物に当たって響くことで、物の位置を探るって方法がある。」
これは視力のない人間が実際に物体を知覚する手段なので、それなりに説得力があるはずだ。
「他にもこう手で扇がれれば風が起こるだろ? これは俺らの周りには目に見えない空気があって、物が動けばその空気も動くってことだ。それを感じ取れれば、理論上は魔物の位置も分かる。」
この辺は適当なバトル漫画の受け売りだ。少なくとも「気を感じた」とか言い出すよりは説得力があるはずである。こういった適当な理論をいくつか重ね、締めに入る。
「要するにだ、目で見る以外にも俺たち人間には周りを探知する手段が色々あるのさ。」
「それは特殊能力ではないんですか?」
「いや、通常能力の範疇だ。人間が元から持ち合わせてる感覚器官を上手く使う、ってだけの話だから。」
「私にもできるようになりますか?」
「可能性はある。もちろん簡単にできることじゃない。やろうとしなければできないのも確かだがな。」
なんとかネルフィアを『納得』させられたようだ。できるかも分からない修行を始める気になってしまったようだが。
「まあほどほどにな。今でも十分役に立ってるから。」
「はい。」『できるようになればもっとお役に立てる。』
罪悪感はなくもないが、このやる気はしばらく放って置くしかないようだ。
禁欲生活が始まると思えば、悔いのないように昨夜は若干激しくなってしまった。予定通りにネルフィアには来るものが来たようである。悔いはない。
朝食の前に三日振りにノアは髭を剃った。髪も伸びるし、この身体───素体は本当によくできている。シェービングムースはないが、ワッテンで泡立てたもので代用しネルフィアにカミソリで剃ってもらった。自分の身体に何かする場合、他人に頼んだ方がやりやすいことは多い。ネルフィアの胸にサラシを巻くのを、ノアが毎日担当しているのも同じ理由だ。実際、本人にやらせるより上手く巻けるのだし効率的ではある。記憶からサイズを比較するとまた少し大きくなっていたので、しばらくはサラシでいいだろう。どこまでいくかは不明だが、ブラの購入はこの成長が止まってからでも遅くはあるまい。
「小遣いを渡しておく。昼とかはこれで済ませてくれ。余ったら持ってていい。」
朝食後、ネルフィアにちょっと多めに───宿に十泊できる程度の金を渡す。姐さんとの待ち合わせに行くのはネルフィアだけである。
生理自体は重くないようで、出かけるのにも問題はなさそうだ。ちゃんとした生理用品を使っているのもあるだろう。狩りをするとしても普通に戦いそうである。そのように実によく働く対価を本人は多過ぎると言うが、化粧品なんかを買うのにも使うだろうと押し付けた。
「それとこれもな。」
「ナイフ、ですか?」
「姐さんは悪い人じゃないし危険なこともないと思うが、まあ護身用だ。何かあればそれで身を守れ。」
槍を持っていくような用事でもないし、王都の治安も悪くないとは思うが、備えがあっても損はあるまい。
このナイフは元来「ナイフで髭剃ったらワイルドかな」という、割としょうもない理由で購入したものだったが、結局カミソリの方が使いやすいし、ネルフィアにやってもらう方が楽で持て余していたのだ。こうして使い道ができたのだから無駄ではない、というのは結果論でしかなかったが。
「ありがとうございます。では行ってきます。」
「ああ、俺は適当にだらけて過ごす。」
さっそく昨日買ったワンピースを着て、手鏡などが入った背負い袋を持ったネルフィアを送り出す。
ネルフィアにも主人から離れる時間があっていい。それと同時に、ノアにとっても奴隷から離れる時間があってもいいのだ。一人でいることは寂しいが、身軽ではある。他人と過ごすことは暖かいが、煩わしくもある。この世界に来て唯一の、ほぼ無条件の味方と言っていい奴隷とて、それは例外ではない。
「ふぁぁ、あー……。」
宿のベッドに寝転がりながら欠伸。適当にテレビ番組を思い出したり、ふと浮かんだ有効そうな戦法を心のメモに書き留めたり、何十分も眠るでも考えるでもなくただ目を閉じるだけでいたり、昼までひたすらだらけて過ごした。
人生にはこういう本当に何もしない日があってもいい。むしろこの世界に来てからこっち、休日も含め少々勤勉過ぎたきらいがある。ノアはこの世界に来て初めて、ほどほどの孤独と怠惰を堪能していた。
(そろそろ帰ってくるはずだが。)
適当に昼食を済ませると、昼下がりも似たような感じで過ごしたが流石に飽きる。思ったより画面を見てないことが多いテレビ番組の記憶もほどほどに、夕方頃には散歩に繰り出した。金属鎧入りの収納袋も、身体能力の高まった今となっては気にならない重さだ。
宿の近所の屋台や露店を冷やかしながらぶらついていると、ネルフィアの反応を探知する。割と近くまで戻ってきていたようだ。姐さんも一緒のようである。
(『楽しんでる』けどちょっと『不安』もあるな。)
ネルフィアも羽は伸ばせたようだ。それはそれとして不安の種は何か。主人である自分のことだろうか。それとも別の何かがあるのか。ひとまず二人の方にノアは足を進めた。後ろ姿を見つけると偶然を装って声を掛ける。
「よっ、楽しんでる? ……おお!」
「ご、ご主人様……。」
振り返ったネルフィアの印象はかなり変わっていた。薄っすらとファンデーションでも塗っているのか肌は艶めいてるし、髪も見栄えよく長さを揃えてちょっとだけカットされている。特に変化が大きいのは眉が整えられていることだろう。記憶の中のものと比べてみれば、明らかに以前のは自然のままの太眉で野暮ったい。それをほっそり整えるだけで洗練された感がある。
あれはあれで愛嬌もあったと思うが、人の手が入るとやはり違う。過度に飾らないナチュラルメイク、という感じでネルフィアの良さが引き出されていた。
「ますます可愛くなってる……素晴らしいな。」
「あ、ありがとうございます。」『気に入ってもらえてよかった。』
「だから言ったでしょ、心配ないってねえ。」
素直に褒めると『不安』も消えたようだ。主人に気に入られるかを気にしていたとは実に愛らしい。そして実に素晴らしい仕事であった。化粧とはまさに女を化けさせるものなのだ。禁欲期間であるのが本当に残念になる出来栄えである。
これだけのことをしてくれたのだから、姐さんには礼を尽くさねばなるまい。しかし現金を渡すというのも無粋だろう。
「本当にありがとうございます姐さん。よけりゃ飯でも奢りますよ。」
「どうせなら飯より酒の方がいいねえ。」
提案をほぼ受け入れてもらえたので、そのまま三人で宿に戻ることにした。宿の食堂兼酒場なら都合もいい。




