1-27 修行回 知識編
「おや姐さん、これはどうも。」
「あん? ああ、あんたらかい……って誰が姐さんよ。」
黒い塔のような外観を備えた魔術師ギルドに来ると、見た顔がいたので思わず声を掛けてしまった。少し前に消臭魔法を伝えてもらった魔法屋の女性だ。続けてネルフィアも挨拶する。
「ご無沙汰してます。」
「そんな馬鹿丁寧に頭下げなくていいよ……甘い匂いさせちゃってまあ、大事にされてるみたいねえ。」『ちゃんとお風呂にも入らせてもらってるみたいだし。』
消臭を覚えた冒険者には衛生を疎かにする者も多いという。それ以前に、風呂に入らなくてもまあ死ぬまいという考えの者はそれなりにいるようで、冒険者ギルドに換金に行くと酷い臭いをさせてる奴がちょいちょい居るのだ。
ネルフィアからは蜜菓子の匂いがまだ漂っていた。鍛錬を終えた時点で消臭魔法を使わせたが、後から付く匂いまでは消し切れない。昼食に加えて三人前の蜜菓子を平らげており、まだ入りそうだったのが驚異的だ。
本当に別腹が存在しないだろうか。
「姐さんはどうしてこちらに?」
「だから姐さんって……まあいいや。このローブとバッジでここの研究員なのは分かるでしょ?」
「いえ全く。魔法屋ではなかったので?」
『世間知らずだねえ。』「あれは小遣い稼ぎみたいなもんよ。何せ繁盛してないからねえ。」
以前に「繁盛してない」と言ったことをまだ覚えられていた。魔法屋ではなく皮肉屋だったらしい。
「それはともかく資料館に行きたいんですが、どこにあります?」
「それぐらい受付で聞きゃあいいじゃないか……あたしも行くところだったから、ついてきなよ。」
人の奴隷に気をかけてくれたり、『仕方ないな』と思いつつも案内してくれる辺り、面倒見のいい人なのだろう。やはり姐さん呼ばわりは間違っていない。こちらが中途半端な敬語になってしまうのもやむなしだ。
「ネルフィア、分かってると思うが本の扱いには気を付けてくれ。」
「はい。」
大量の本棚にぎっしりと詰まった書物を前に注意を促す。
資料館に着くと姐さんはさっさと行ってしまった。研究員だからフリーパスなのだろう。サラリマン風受付に聞いた通り、ノアたちは入場料と保証金を払うことになったが、これが馬鹿にならない。
入場料も一泊の宿代程度はするし、保証金は銅の剣が買えるぐらいである。書物を破損したりしなければ保証金は返ってくるが、それだけここにある資料は重要ということなのだろう。
「よし、まずは字を覚えようと思う。覚えるのに適当な本を持ってきてくれ。」
「お任せください。」
都合よく日本語が使われてたりはしない以上、まずは識字可能にならねば始まらない。この世界でも使われている言語はいくつもあるらしいが、最もスタンダードなのは主に繁人族が使っている繁人語らしい。数が多いので自然とそうなったのだろう。この国でも公用語は繁人語だ。
ちなみにネルフィアは奴隷として身売りを決めてから、売れるまでの間に繁人語の読み書きを覚えたとのこと。少しでも自分を高く売るための努力である。
「これが───で、これが───ですね。」
「なるほど。」
まずは一文字ずつ読み方を教わる。椅子を寄せて付きっきりでだ。探心を使えば思い出すのは容易なので、本当は一度でいいのだが、カモフラージュも兼ねて何周か繰り返してもらった。これで腕に当たる幸せな感覚と共に文字を思い出せるだろう。
幸せを直球で味わうことはできるが、こういう変化球がたまにあるともっと有効なのである。
「よし、大体覚えたと思う。」
「もうですか?」
「俺のいた世界だとな、幼い頃のみ受けることで物覚えがやたら良くなる教育法があって、それを一般人でも受けられたんだよ。」
「そうなんですか、すごいですね。」『それができたら私も……幼くないとだめか。』
「まあ物覚えが良くても魔物が倒せるわけではないしな。」
もちろんそんな教育法をノアは受けていない。そういうものがあるとはテレビで見た覚えはあるが。これもカモフラージュの一環だ。
探心のことが露見するとすれば、相手の心を読まなければ分からないようなことを知っているのがバレるか、不自然なまでの記憶力を発揮してしまうことだろう。前者はともかく、後者は物覚えが良いということにしておけばまだ誤魔化せる。これでネルフィアの前で自分の記憶を掘り起こしても、ある程度は怪しまれないはずだ。せっかくの能力を余り使わないというのももったいないし、仮に特殊能力を持っていることが露見したとしても、これだけなら超記憶能力だと言い張ることもできる。
……なんだか異世界に来てから、こじつけと偽装ばかりが上手くなってやしないだろうか、と思ったがきっと気のせいだろう。
「この単語は雨って意味だよな。」
「そうです、よくお分かりになりましたね。」
「ああ、これは翻訳魔法が効いてるんだろう。」
文字が読めるようになると、単語を読むないし思うだけで日本語に変換されて意味が分かる。つまり召喚勇者は文字の読み方さえ覚えれば、識字可能にはなるのだ。流石に字を書くとなると話は別だろうが。
やろうと思えばできなくはないが、いきなりそこまでできるようになってしまうのは、いくらなんでも不自然に思える。機会があるかは分からないが、しばらくはネルフィアに代筆させるべきか。
ひとまず繁人語の文字は四十八あり、文法は英語に近いということが分かった。
「よし、俺は適当に読みたい本を漁る。ネルフィアも自由にしてていいぞ。閉館までいる予定だから、なんなら外に行ってもいい。」
「せっかくですから私も本を読んでみたいと思います。」
やはりなるべく離れる気はないようだ。保証金が高くておいそれと入れない場所ではあるのは確かだが。
「……まずはこの辺から攻めるか。」
書物の林の中を歩き、魔物関連の資料棚の前で足を止める。ネルフィアや他の利用者の位置から死角になっていることを確認し、端から一冊手に取ってペラペラとページをめくっていく。内容を読んだりはしない。映像としてページを視認できていればそれでいい。最後のページまでめくり終えると、探心で読めるかを確認する。
「思った通り……!」
今の本の文字の羅列は正確に思い出せる。文字の読み方も並行して思い出すと、読めない単語も脳内で翻訳が進み、ほどなく内容を全て理解できた。
探心を利用して速読に近い真似ができたのは、ページをめくったり文字を眼球で追う必要がないためだろう。文字通り、思った通りに読めるのだ。こういう超人的なことができてしまうのは、なんだかんだで嬉しい。
それからは本を傷めない程度にひたすらページをめくった。タイトルで少しでも有用そうだと思った本を選ぶぐらいのことはするが、内容の吟味は後からでもいい。ページをめくるのと並行して翻訳を進めつつ、情報を詰め込んでいく。今はゆとりは必要ない。閉館時間までになるべく大量の知識を得ることが肝要だ。
「閉館時間でーす。」
資料館の受付係が、カランカランとベルを鳴らして閉館を告げた。必要な知識は概ね得られたと思う。
今なら次の標的にする魔物や、その生態なんかも思い出せる。もっとも本に書いてある内容が全て正しいわけでもないだろうが、無知のままでいるよりはマシだろう。少なくとも判断材料にはなる。若干頭が重いのは、脳を長時間フル稼働させたせいだろうか。
「……どうりで飛行機とか飛んでないわけだ。」
「どうかしました?」
「いや別に。」
飛行技術のひとつもありそうな世界で、飛行物体を魔物以外に見ない理由を思い出していると、『充実』しているネルフィアが声をかけてきた。彼女は彼女で楽しんだらしい。何せ娯楽の少ない世界だ。どんな本を読んでいたのか聞いたりしながら、資料館を後にした。
各種族の人体構造の本も読んだが、とりあえず繁人族に別腹は存在しないようである。




