第七話 奥の手
【鑑定】というのは、対象となる物体、あるいは生物の知識があらかじめ頭に入ってないとほとんど機能しない。
Eランクの魔物とかであれば名前ぐらいは表示される。
しかし、そのステータス等といった詳しい情報は表示されないのだ。
だからこそ、【鑑定】という魔法を覚えただけでは役に立たない。
日ごろから蓄えた知識をすぐに思い起こせるようにするのが【鑑定】という魔法なのだ。
今回も、腐花猿の情報は記憶してあったので、【鑑定】の効果は最大限発揮された。
発揮されたが、だからどう、という話でもある。
Aランクの魔物というのは、まずソロでは倒せない。
そんなことができるのはトップギルドの討伐員ぐらいだろう。
並みの討伐員ではパーティーを組んだとしても、全滅するのがオチだ。
それぐらい、Aランクの魔物は強い。
魔物との実戦経験が皆無の俺。
負傷中のミルナ。
苦い薬草を口にねじ込まれて悶絶しているエルフィリア。
この面子では、勝てる未来が見えなかった。
「あお゛おお゛……」
頭が花なのに、どうやって発声しているのか。
地の底から響くような唸り声は、ただただ悍ましい。
目もない。
鼻もない。
口もない。
耳もない。
五感のうち、四つの感覚はないはずなのに、やつは俺たちを認識していた。
最初の旅路でAランクの魔物と遭遇という、絶望的な状況。
絶望的だが、行動しなければならない。
俺はまだ諦めていなかった。
「ミルナさん! 生きてるか!?」
彼女と俺の位置関係は最悪だ。
ちょっと歩けばすぐに届く距離。
けれど、腐花猿がいるのはミルナのすぐそばにある木の上だった。
俺が近づけば碌なことにはならないのは明白だ。
だから、声で意識を確かめる。
もう気付かれているのだから、大声を出そうが関係ない。
そもそも耳がないのだから聞こえてるのかも謎だし。
一回呼びかけても、返事はなかった。
代わりに、体中が腐敗した猿が木の上から降りてくる。
お前は呼んでねーよハゲ。
心の中で悪態をつきながら、もう一度ミルナの名前を呼んだ。
すると、
「ん、うう、いたた……」
「おお、生きてた!」
「勝手に殺さないでよ……でも確かに死にそう。ていうかなんか臭い……ってうわ!」
心配したのがアホらしくなるほどにはミルナは元気そうだった。
じゃあ、あの赤いのは一体……?
「何コイツ! キモい! あと私のトマト!」
「は?」
「ああ……おやつにとっておいたのに」
今何つった?
トマト? おやつ?
え、じゃああの赤いのってトマトの果汁?
い、いや。
確かにこの世界のトマトは前世のやつと違ってやたら水っぽくて果汁が豊富だけど。
俺は勘違いしてたってことか?
紛らわしすぎるだろ。
緊急事態であるにもかかわらず、力が抜ける。
ミルナが無事だったことに安堵したのもあるだろう。
というか、それが一番大きいな。
本当に、安心した。
「ミルナさん、怪我はないか!?」
「うん、だいじょーぶ!」
返事もいつもどおり。
これでもしドッキリ大成功とか書かれた看板を彼女が掲げたら間違いなくセクハラを決心しただろう。
もちろんそんな看板は出てこない。
おふざけの要素は、全くない。
彼女は既に臨戦態勢に入っていた。
腐花猿は余裕をぶっこいているのか、興味深そうに俺たちのやり取りを眺めているだけだ。
こんなゾンビ猿にも生き物らしい面はあるんだな、と思いながら存分にその油断を利用させてもらうことにする。
「見たことない魔物……一応、魔物には詳しいつもりだったんだけど」
「腐花猿っていうAランクの魔物だ。ミルナさん勝てる自信ある?」
「Aランクは流石にないかなぁ。まあ、でも……」
そこで言葉を区切って、ミルナが俺に向けて間に猿を挟んでも分かるくらい真っすぐな視線を寄越す。
「カオル君と力を合わせれば、きっと倒せる」
ベタベタな台詞だが、こうも堂々と力強く言われると、心に響く。
むしろ、女のミルナの方から言わせてることに羞恥を抱いた。
このくらいでドキドキするなんて、自分の青臭さ加減にびっくりする。
けど、悪くない気持ちだ。
意外と、本当にやれるかもしれないと思えてくるから。
そんな俺たちのよさげな雰囲気に苛立ったのか、腐花猿はいよいよ動き出した。
威嚇をするように、頭の花弁を大きく広げる。
花弁の真ん中にはパール色の大きな結晶があった。
大丈夫。
見た目に関しては、本で学んだとおり。
となると、奴の弱点も俺はちゃんと知っている。
それに、俺自身奥の手もまだある。
「カオル君、よくもやってくれたわね」
「あ、エルフィリアさん、おはようございます」
「ええ、おはよう。おかげさまでスッキリ目が覚めたわ」
それはよかった。
持ってきた薬草の中でも抜群に効くやつを処方してあげたから、さぞ効果があったことだろう。
こういう美人はいじると楽しいと相場が決まっている。
大分調子に乗ったことをしている自覚はあるが、それでも万が一のことを考えてあの薬草を食べさせたのも本当だ。
できれば許してほしかった。
そんな俺の心の中での言い訳を読んだかのように、エルフィリアはため息を吐く。
「いつか、この借りは返すから。覚えておいてね」
「じゃあ、今度膝枕お願いします」
「もぐわよ?」
俺の姉と同じようなことを言わないで欲しい。
一回本当にもがれかけたことがあるから。
トラウマを思い出してしまう。
というか、エルフィリアもそういう下ネタ的なこと言うのな。
「うう゛うあああ゛」
肉の腐った臭いを辺りにまき散らしながら、猿が呻く。
その声に込められた感情は、人間に対する根拠のない憎悪。
理不尽な、悪意だった。
俺とエルフィリアとは反対側、腐花猿を挟むようにしてミルナが向こう側に立つ。
「白竜の力、聖炎をまといて、顕現せよ。【白剣】【白槍】【白鎖】」
手を真っすぐ上げ、歌うような声でミルナが魔法の詠唱をする。
彼女の周りに、神秘的な三つの光が生じ、その光がそれぞれ異なる形になった。
剣と槍と鎖。
どれも真っ白だ。
見てて安らぐようなほのかな白光を帯びている。
優しげな気配を持つその魔力の塊はしかし。
確かな力を感じさせた。
あの三つの武器は、強い。
そして、それを操るミルナも。
「ミルナさん、あいつの弱点は花弁の真ん中! パール色の水晶だ!」
「分かりやすくてありがとう!」
俺の叫びに呼応して、腐花猿が動いた。
最も近い距離にいたミルナに、腕をスイングする。
腐敗した腕だが、ステータス通りの力だ。
ただ腕を振り回しただけなのに、すごい音が鳴る。
衝撃波が発生して、地面の落ち葉が舞い上がった。
しかし、腕の振った場所には誰もいない。
葉っぱの中を、桃色と白色が舞う。
純白の衣服に身を包み武器を振ろうとするその姿は、まさに『戦乙女』という単語を想起させた。
綺麗すぎるほどに綺麗な白剣が、背後からゾンビ猿に襲い掛かる。
直撃コースかと思われたそれは、しかし、当然のように巨大な腕にはじかれた。
攻撃の来る方向が、はじめから分かっていたかのような反応速度だ。
だが、攻撃はそこで終わらない。
連撃に続く、連撃。
三つの異なる武器から繰り出される圧倒的な手数の多さは、Aランクの反応速度にかろうじて勝っていた。
手数の多さは密度の軽さを意味しない。
白光が掠るだけで、濁った色の腐敗した血が大量に飛び散る。
そのたびに、この世のものとは思えない腐花猿の悲鳴があがった。
耳障りなことこの上ないが、確実にダメージを与えている証拠だった。
ミルナの想像以上の活躍に思わず見とれてしまう。
エルフィリアに声を掛けられるまで、呆然と突っ立っているだけになっていた。
「カオル君」
「は、はい?」
「私たちもミルナさんを援護しましょう」
「……! 分かりました」
返事をしたものの、本当にできるだろうか。
あれほど高レベルな戦いに援護射撃。
かえって邪魔になりそうだが。
俺が躊躇していると、エルフィリアがアドバイスをくれた。
「あのお猿さんのヘイトは完全にミルナさんに向いてる。ミルナさんが攻撃に休止を入れた瞬間に私たちが魔法で援護すれば、彼女も一呼吸おける時間が生まれるわ」
「ただ、速すぎてタイミングが……」
「私がお手本を見せるから、それを真似して。私の見立てだと、貴方は魔法の才能は人並みだけど、魔法を使った戦闘センスに関しては光るものがあるから、自信を持って」
思いがけない言葉に、エルフィリアの方を向く。
宝石のような翡翠の瞳が俺を見つめていた。
表情が、本気だった。
必死、ともいえる。
明らかに焦燥を覚えている顔だった。
「ミルナさん、善戦してるように見えるけど、彼女のスタミナじゃ腐花猿は倒しきれない」
「え?」
こうして話している間にも、ミルナは大猿とわたり合っている。
その姿からは、疲労の気配は微塵も感じられない。
先ほど緑狼の群れと交戦したときに結果的に力を温存できたのもあって、動きのキレは冴えわたっていた。
俺が納得しきれてないのを見たのか、エルフィリアが続けた。
「私がギルドマスター補佐だった時に、一回だけ私のギルドにもあいつの討伐依頼が来たことがあるの。それで、私がギルドマスターに任されてパーティーを組んだんだけど……」
「……どうなったんです?」
「……全滅したわ」
表情を変えずに、エルフィリアが言う。
胸中では、辛い記憶が心を締め付けているのだろう。
声だけが、わずかに震えていた。
全滅。
たった二文字の言葉に、全ての後悔が含まれていた。
「腐花猿の体力のランクはD。短時間で倒しきるのが一番安全だと考えて、前衛にミルナさんみたいに火力はすごいけどスタミナがイマイチっていう子ばかりを選んだの。けど、完全に間違いだった。みんな、あいつの体力を削りきる前に、疲労からのミスで、たった一撃ずつで即死したわ」
実際に現場にいたわけではないらしいが、ギルドの調査員からそういう報告を受けたらしい。
腐花猿のステータスは攻撃力と速度以外最低クラスだ。
しかし、その二つの能力だけでAランクの強さを持つ。
その巨腕のシンプルな破壊力が、Aランクの所以だった。
それにしても、一撃?
ギルドの公式のランキングは公表されてはいない。
自分の町のギルドのランキングが低いことが分かったら、民衆の信頼に関わるからだ。
カールの町のギルドもどのくらいの順位かは分からないが、王都の防衛拠点だし、そこまで質の低い討伐隊員はいないはず。
それにもかかわらず、全員一撃で即死。
それが本当なら、ミルナは今かなりギリギリの戦いをしていることになる。
圧倒的な手数をもってして魔物の注意を引いてくれているが、彼女のスタミナがあの巨大なゾンビ猿のスタミナに勝るとは到底思えないのも確かだ。
「ミルナさんとあなたの情報は頭に入ってる。奴を倒せるだけのポテンシャルは二人ともあるわ。だから、協力して」
昔話を若干無理やり気味に終え、再びエルフィリアが言う。
当然、答えは決まっていた。
「じゃあ、お手本を見せてください、先生」
「……ふふ、ありがと」
はにかんだ笑顔を一瞬だけ見せて、すぐにもとのキリっとした顔に戻る。
本当に、こんな美人の教えを請うことができるなんて夢みたいだな。
今の話を聞いたあとだと、不謹慎かもしれないが、彼女のそういった陰のある部分もなんかこう、グッと来た。
ここで死んだら、死んでも死にきれない。
未練たらたらだ。
だから、俺も本気を出す。
だからというか、もとよりそうするつもりだったけど。
タイミングを見計らう必要があるのは同じなので、まずは逸る気持ちを抑えて素直にエルフィリアがお手本を見せてくれるのを待った。
「見ててね……ミルナさんが、本当にわずかだけど息継ぎする瞬間があるから。その直前に攻撃して、彼女が離脱できる時間を作るの」
ミルナの三種の白い光による乱舞。
腐花猿はそれを受けつつ、持ち前の剛腕で反撃する。
ただ無造作に振るうだけで人を木っ端微塵にできる威力も当たらなければ意味がない。
今のところは、ミルナが腐花猿を翻弄している形であった。
驚くべきは、本当に絶え間なく攻撃が続いている点だ。
ものすごい速度で振るわれる腕をよけながら、その勢いをも利用して魔法の武器で血しぶきを飛ばす。
ヒット&アウェイではなく、ヒット&ヒット。
全速の馬車にも勝る猿の速度をその怒涛の勢いでほぼ無意味にし、猿型モンスター特有の立体的な立ち回りを封じていた。
まさに、流れるような動きで舞う少女。
エルフィリアはその様子をしばらく見守る。
目を細めて、端正な顔に集中という文字を刻んで、ついに彼女は呟いた。
「【風刃】」
小さく、囁くような声。
それでも詠唱は完成する。
ほぼノーモーションで風の刃が、音速並みの速さで飛来。
腕を振り下ろす直前の腐花猿の肉を削ぐ。
たった一発、当たっただけ。
ミルナの攻撃に比べれば、蚊に刺されたような傷。
それでも大猿の視線と殺気はこちらに向けられた。
直接視線と殺気を被るのはエルフィリア。
そして、隣にいる俺にも、その背筋の凍るような悍ましい魔力の余波が来る。
凄まじい怒気に彩られた魔力は、覚悟なき者の心をへし折るぐらいには圧があるだろう。
だが、今の俺はアドレナリン全開。
たいていの精神攻撃には耐えられそうだった。
「本当に、ちょっとでいい。あいつの気を引いて。そうすれば……」
花頭をこちらに向け、体も向けようとした時点で。
猿の体が大きく横に吹き飛んだ。
本当に刹那の間。
ミルナは瞬きする間に腐花猿から距離を取り、その距離を威力に変えて、俺たちに狙いを定めようとした猿の体に突進したのだ。
結果として、容赦のない斬撃と刺突と打撃に、防御力の低い腐敗した体がぶっとんだ。
「ね? できるでしょ?」
「……マジすか」
「マジっす。ほら、失敗しても怒らないから」
いやいや。
失敗したら怒る怒られるの問題じゃないだろ。
もし、タイミングを間違えてミルナの邪魔をしてしまったら。
それだったらまだマシだ。
ミルナに間違って魔法を当ててしまったら、本当に目も当てられない。
スプラッターな未来が待っている。
確実にミルナの補助を遂行できるエルフィリアがやればいいのではないか。
そう思うも、やるといった手前、やるしかない。
男は度胸。
そんな男としてのプライドもあって。
俺は前に出た。
ミルナの苛烈な攻撃を喰らっても、なお立ち上がる。
薄かった魔力も、いつの間にか大気を歪曲させるほどの濃度となって、この場を支配していた。
「あああおお゛おお゛!!」
重厚な濁音が、空気を震わせる。
体を蝕む嫌悪感は、その場から逃げ出したい衝動を生み出す。
けれど、エルフィリアの期待と、戦闘直前のミルナの言葉を思い、それを打ち消した。
かっこ悪いところは、見せられない。
轟音とともにミルナに肉薄する腐花猿。
ミルナも、先の攻撃で仕留められたとは思っていないらしく、それを迎え撃つ。
再び始まる乱舞と猿舞。
それに横やりを入れる勇気は、相当だ。
けれど、楽しい。
緊迫したこの状況が。
いつの間にかワクワクしたものになっていた。
まるで危ないヤツの思考だが、実際俺はまあまあヤバいヤツだろう。
何せ、あの王都の気狂い家族ことサクラ家の一員なのだから。
今だけは、あの家族の一人であることが誇らしい。
この状況を楽しいと思えるような人間に育ててくれたことに感謝したい。
遠慮は、しない。
自重も、しない。
反省も、しない。
俺は詠唱した。
奥の手である、固有魔法を。
「禁呪が一つを望む」
「え?」
ミルナは、まだ威勢よく攻め続ける。
応戦する猿は、あれほどの傷を負いながら、まだ致命傷は負っていない。
それでもあっちは一撃でも当てれば勝ちなんだから、なんて不公平な戦いなんだろう。
まさにチートだ。
だから、目には目を、歯に歯を。
不公平には不公平を。
そして、チートには……
「血縁の者の力。我が魔力を以て、その威を借りる」
さあ、マリー。
お前の出番だ。
ミルナの全身全霊の三連撃をいなした後の、どうにか肉眼でとらえられるモーションを決して見逃さない。
生物とは思えない禍々しい腕を振りかざした瞬間。
この、タイミングだ。
「【獄雷】」
毒々しい紫が、極光となって放たれた。