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きたろう館を抜け、近くにある森の中へと入っていく。住人を迎え入れる緑の木々はまるで呼吸をしているかのように生物的な雰囲気を見せ、道行く道が永遠に続く幻想さえ抱かせる。
その中、ヴィオレットは高貴な雰囲気を崩すことなく、逆に森を支配する女王を思わせる。そんな威圧感さえ感じた。サキュバスという高貴な悪魔ゆえ、そう思っても仕方ないのかと内心俺は思ったが……でも、ガキだしなぁ。
「歩く速さが遅くてよ? わたくしの下僕なら、主人の先行が、下僕の常識ではなくて?」
「誰がいつ、お前の下僕になった」
「あなたのことですわよ、マセガキ」
「あのさ、そのマセガキって呼び方、やめてくれない?」
「いやですわ、下僕の分際で口出ししないでくれるかしら?」
「だから下僕じゃねえ!」
「では、マセガキ?」
「マセガキでもねえぇぇぇぇ!」
「おーっほっほっほ! まぁまぁそんなに照れなくても、ちゃんと二人きりの時だけ、界さまのことは、マセガキで呼称を固定して差し上げますから、光栄に思いなさい」
「全然光栄じゃねえ……」
「……はっ。それともまさか」
「なんだよ?」
少しばかりヴィオレットの頬が赤らめる。いやそこ照れる所じゃなくね? どんな妄想してんだ。
「もしかして、お兄さんって呼ばれたいとか?」
「なんでだよっ!」
どこからそんな発言が飛び出るんだ。俺より年下みたいな背丈格好をしたクソガキに、なんでそんな恥ずかしめを受けるような名前で言われなきゃあかんのだ。
「顔が赤くなってますわよ。もう、お兄さんったら可愛いですわ、踏んでいいかしら?」
「アホか! いやだわ!」
「え? お兄さんは踏まれるのがご趣味ではなくて?」
「そんな気質は持ち合わせていません!」
「うわ……無駄に敬語など……気持ち悪い」
「どうでもいい所に反応するな!」
ヴィオレットの、あまりの毒舌と女王気質に俺はうなだれる。何かと俺を見かけると人権を無視するほどに虐めてくる。訴えてやりたい……妖怪は訴えれないか。今すぐ法律改正しやがれ。
「つきましたわよ」
俺とヴィオレットが着いた先、しばらく森を歩いたところにある。ひとつの穴場だった。
円盤状に大きく穴が広がり、穴の中から光る水色の物体が見えた。
小さな円形に尻尾を付けたような形をしており、眩しさもなく怖さもない、綺麗で見とれる物体は穴から舞い、空中に飛散する。
小さな水色の物体が、四方八方に空へと飛ぶ。まるで蛍の大集団が飛び交っているようだ。神秘的とも言える光景に、俺は目を奪われる。
「これが霊力。人々の欲望、思いの断片が固体になったものですわ。人は皆、心の底に個々の願望を抱えています。しかし中には小さな願望があれば願い叶わぬ願望、願望とは呼べない物まで多種多様に存在する。やがてその願望が、人の心から忘れ去られる時、願望の破片が人々の思想から抜け、わたくし達のような存在にしかみえない霊力となって、……人の居ない場所、この山に似た場所に流れ着きますの」
人の願望は、一つの体系にとどまらない。
『OOになりたい』のような大きなものがあれば、『OOが食べたい』といった食欲まで様々だ。それが達成し、忘れさられる時、初めて人の中で願望が消える。霊力の誕生はそこから始まる。
「霊力って……人の思いの名残、みたいなものなんだな」
「そういうことです。まぁ、わたくしにはどうでもいいことですが。……さてと。ささっと仕事を終わらせましょう」
ヴィオレットは足を、一歩手前へ踏み入る
両手を広げると、ヴィオレットの尻尾が中に浮く。ふわりと浮いた尻尾は手の形をしており、白い手袋に覆われた外見をしている。
ヴィオレットが両手の指を鳴らす。軽快で鮮明な音が浸みわたると、しっぽの手が大きく5指を広げ、宙にまう霊力を吸い込んだ。水色の輝きが、ヴィオレットの尻尾に収縮される。
それからしばらく経過する。ヴィオレットは尻尾を降ろし、開いた両手も下げる。
「とりあえず、今日一日分の仕事はこんな所ですわ」
「これだけで終わりなのか?」
「ええ。1日分といったところかしら」
「1日? そんなに少ないのか?」
「だからこうやって毎日取りに行ってますの。ああ、心配せずとも、霊力を回収したからといって、人々の欲望自体が吸収されたわけではないですの。先ほども界様が申した通り、霊力とはあくまで、人々の思いの残留。人が死にいたるようなことはありませんので」
「そうか」
「ところで……」
「ん? まだなにか仕事があるのか?」
ヴィオレットは神妙な目つきになる。
「お兄さん……少しばかり、私と遊んでいかなくて?」
「へ?」
その隙間、ヴィオレットの体が光る。
「え、え? なにこれ!?」
突然光りだしたヴィオレットに俺は困惑する。
頭に置いた思考回路に痺れを流し、瞬時に臭った甘き香りが体に浸透する。光はヴィオレットを包み込み、同時に光の形を大きく形成する。
やがて光が止むと同時に、ひとりの女性がそこに佇んでいた。
グラマラスな体を持ち、肌を露出させた大胆な衣装をきた女性が俺を見つめる。背中には二枚の悪魔の羽根、尻尾は……ヴィオレットと同じ、手型の尻尾だった。
「お、お前まさか」
「これは、私の能力『ソウルメイク』。人の夢を吸収することで、自分の理想通りの姿に変えることができますの。といえども、実に数分限りの話ですが」
「夢? じゃ、じゃあなんでそんな姿に?」
「本来はそれがセオリー。しかし今回は例外。霊力は人の願望、なら『夢』だって人の願望でできていますわ。根幹が同じものなら、私の能力に不可能はない」
ヴィオレットは一歩ずつ、俺の元に這いよる。妖魔の微香が鼻を刺激し、俺とヴィオレットの距離はわずかまで縮まる。
「最初から、霊力の回収が目的ではなくてよ。本当の目的は、マ・セ・ガ・キ。あなたよ」
「は、はぁ!?」
困惑に浮かべた俺に、まるで一瞬の呼吸も与えないかのように、大人の体になったヴィオレットは近づく。
「サキュバス本来の能力は、対象の『絶頂』にあります。相手の夢に介入し、淫乱な課程を得て、相手を虜、奴隷にすることが可能ですの。つまり……わたくしが望む事は、今から界様を眠らせ、夢を支配してさしあげます。そして、界様は永遠にわたくしの虜になってもらいますわ。あぁ! なんて素敵なのでしょう!」
「待てよ、おい! ちょ、ちょっ!」
俺は抗おうとヴィオレットから離れようとするが、三年岩のように、がんなにと離れようとしない。ぷにゅん、と弾む感覚が俺の体に雷のようい衝撃がはしった。
(や、やわらかい。これはちょっとクセになるぞ。ってダメだ! ダメ! 何かわからないけど、このままじゃヴィオレットに襲われる! でもこの胸の感触は。ああダメだ、ついそっちの方向に頭が働いてしまう!)
体から感じる熱くこみ上げてくるもの。これは多分ヴィオレットの豊かさ溢れた魅力に惹かれてしまっているからだろうか。
「いやぁね。照れちゃって。本当に界さま……いえ、お兄さんは可愛いですわ。このままずぅっと、わたくしの奴隷として生きていきましょうね」
ヴィオレットの顔がどんどん赤くなり、興奮のボルテージがあがっていくのが目にみえてわかる。
そして、ヴィオレットはゆっくりと俺の口元に近づき……。
「さぁ、永遠の誓いを、奴隷としての契約を……」
もう俺の目の前には、ヴィオレットの甘い唇しかみえない。
そう思ったときである。
「やめんか」
バシコーーーーーーーーーーーーーーン。
「いっっったっ!?」
100トンの重りが頭にのしかかったかのようにヴィオレットは誰かに頭を叩かれ、衝撃とともに体が地面にドスリと落ちる。
「何をしておる、馬鹿者」
「う、うぅ。この、化け狐ぇ……」
見れば、今までの大人びた姿はなく、ヴィオレットは元の幼児体型に戻っていた。
涙目になりながらもヴィオレトは痛みを必死に訴え、自分の頭を叩いた人影を睨んでいる。
立っていたのは、俺たちよりも随分と年が離れた、ひとりの女性だった。
長い金髪を一括りにし、はだけた巫女服をきた女性は、冷ややかな印象を持たせる凛とした瞳をしていた。
この女性は、「恋ヶ窪 深化」。鈴菜とヴィオレットに続いて、三番目にやってきた住人で(ちなみに四番目が桃果、五番目がリアンである)、気まぐれに散歩をしていた途中、森に迷った所を、鈴菜に助けてもらい、きたろう館までやってきた。以来、きたろう館の一番の年配者としてみんなからしたわれている。
「かような場所で色恋沙汰をするな。仕事を終えたのならば、早々にきたろう館に戻れ」
「イ、イヤですわよ! せっかくここまで界さまを運んできて、やっとのこと奴隷にで
るとおもったのにぃ!」
ヴィオレットはまるで駄々をこねる子供のように顔を赤らめて地団駄を踏んでいる。
「ほう……。今の一部始終を、猫の耳に入れてもよいのだが?」
「す、鈴奈に!? そ、それだけは……ぐ……」
イタズラ小僧が策を崩されたが如く、ヴィオレットは悔しそうに眉尻を下げる。深化の目がぎらりと光った。
「わ、わかりましたわっ。では界さま、ごきげんよう。フン!」
ぷいっとそっぽを向き、ヴィオレットは俺達から離れる。なぜ不機嫌だ。襲ってきたのはお前だろ。おい。
ヴィオレットは涙目を浮かべ、悪魔の羽根を広げる。空中に羽ばたき、そのままきたろう館のある方へと帰って行った。
「悪の根源である悪魔を倒し、ぐっどえんどを迎えた……といった所かの? この展開は」
「さ、さぁ? とりあえず、サンキュー」
「礼などよい」
深化は俺に背を向け、ヴィオレットの飛んだ方向を眺める。
「ああ見えて、小悪魔もさびしがり屋での。だからこそ、大人のサキュバスに憧れる一面があるのじゃ。青年には悪い印象を与えたと思うが、許してやってくれ」
深化がヴィオレットの飛んでいった方向から目を逸らし、俺に向ける。緑に輝く蒼穹の瞳の中に俺の姿が鮮明に移る。
恋ヶ窪深化は独特な古風口調が特徴的だ。加えてヴィオレットの純粋な一面を見破る等、人を見る目が鋭い。だからこそ『皆の姉御』と慕われるのだろう。初めて会った当時は、年配者独特の雰囲気を放つため、遠慮がちだったが、最近は普通に話せるようになった。とはいっても実際ヴィオレットにしても鈴奈にしても、実年齢は俺より年上だろう。深化に対しても同じ事が言えた。
「ところで青年。今は暇か?」
「暇っていうか……。もともとはヴィオレットと一緒に霊力を回収しに来たんだ」
おかげで奴隷の契約を結んでしまいそうだったが。
「なるほど。その成り行きでああいった破廉恥な状態に……」
「破廉恥言うなよ……」
「まぁそれはよい。余の仕事を手伝ってはくれぬか? そのために小悪魔を追い返したのだからの」
「仕事の手伝いか……。それなら俺も喜んで手伝うぜ」
「ふふ、そうか。やる気の溢れる青年じゃの。余について参れ」
深化は誘うように尻尾を動かし森の中へ歩いていく。それに習って俺も追いかける。
緑生い茂る森を歩き、霊力回収場から北へしばらく行ったところ。墓石が綺麗に整列している広場へと出た。
「ここは?」
「みたとおり。墓地じゃ。このような山の中でも、墓地の一つや二つは在る」
「ここに何の用が?」
「まぁ、見ておれ」
深化はゆっくりと歩みを進め、一番手前にある墓地へと座り込む。
しなやかな手を合わせ、しばらく沈黙が流れた。
「へぇ……」
喉から自然に感嘆の声があがった。。
妖怪でも、こういった儀礼をするやつらもいるんだな。妖怪は社会に縛られない、自由気ままな種族だから、多くの人間を祭る場でも礼儀など存在しない、むしろそれが普通だと思った。
深化は瞳を細め、墓を見つめる。
恋ヶ窪深化は妖怪の中でも真面目な部類だと俺は思う。
人に対して礼儀を尽くす妖怪は少ない。化け狐とあっても清輝で凛とした雰囲気は本物である。
「では、いただくとするかの」
「……は?」
そう思ったのも、束の間であった。
パクッ。
「う。うううむ! おいしい……。このおはぎはアタリじゃな……。 中々品の良い具材を使っておる! 一体何処のあんこじゃ? このお墓の主は誰じゃ? 今度おいしいあんこを食したいときは、この墓に参ろう」
「おいぃぃぃぃぃぃ! 感動かえせえええええ! なんだよ! 礼儀正しい妖怪かと思えばそんなことありませんでしたってなんだよおい!」
「ぬ? どうしたのじゃ? 顔を赤らめて? 余に発情したか?」
「はぁ!?」
「……そ、そうなのか? な、なるほど。ヴィオレットに破廉恥なことをされたにも関わらず、素直に余に発情するとは、お、お主も中々の変態趣味をお持ちのようじゃな」
「どこでそんな解釈があるんじゃああああああ! 違うわ!! 怒ってるんだよ俺は! プンプンなんだよ! 分かるか!? プンプンの意味分かるか!? 分からなかったら実際にプンプンって言ってみろ! 嫌でもわかるから!」
「分かっておる、冗談だ。そう怒るな、落ち着け。しかし……余に発情しておったのではなかったのか……それはそれで、いささか残念じゃな」
「なんでそうなるんだよ!」
「まぁよい。とりあえず、青年も食せ」
「くわねーよ!」
「このあんこ、なかなかの美味じゃぞ? べりーへるしーというやつじゃぞ?」
「あ・ほ・か! お供え物なんて食ったらバチがあたるわ」
「供え物を食す地方もあると聞いたぞ?」
「え?」
「供え物を食す地方もあると聞いたぞ?」
「そ、そうなの?」
「うむ」
「へ、へー。……っていやいや! くわねーから!」
「供え物を食す地方もあると……」
「お前それを言えば俺を引っかけられるとか思ってねぇ!?」
「ならば如何なる事をすればお主は食してくれるのじゃ?」
「如何なることをしても食べないから!」
「青年……お主は甘党派だと思っておったのに……そんなに辛党なのかお主は? あのようなふざけた味になんの意味がある!」
「何の話だよ……」
「それとも何か? 余の食べ残しは喰えないと?」
「は?! いや意味分からないから!」
「冗談で言ったつもりなのに。お、お主、余の食べ残しを食せるのか……それは所謂口うつし……」
「食べ残しもくわねーし! むしろお供え物のほうが品がいいわ!」
「そうか。なら食しよう」
「いやいや強引だっておいいおいおいお!」
「……………………界さん、深化さん。何をしているんです?」
絶対零度の空気が、墓場を凍らせた。
二人は恐る恐る後ろを振り返る。
仁王立ちに構え、獣の耳をピンと立たせ、鋭い目線でこちらを見る人物がいた。
最早、妖怪ならぬ怒気を纏った鈴奈は、可愛い瞳を閃光という素材を混ぜた、怒涛の光を放っている。俺達の一部始終を見ていたのだろう。全身が毛並み立ち、鈴が散りばめられたの服が、陽炎を揺らめいている。
「……す、鈴奈」
「猫ではないか。お主も珍妙なものよ。墓場に来る事は滅多にないというのに」
「ヴィオちゃんから、ここにいるって聞いたんです……」
「あの小悪魔め……。して、それは何ゆえじゃ?」
凛と構える深化も、鈴奈の怒気に負けたのか流石に顔が引きつっている。
「ヴィオちゃんが、『わたくし、二人の虐められましたの……うう』ってて泣いていましたよ? 何をしているかと思えば……これは、どういうこと……にゃぁ?」
「猫、それは間違いじゃ。筆を正すなら、小悪魔を虐めたのは青年だけだ。余は何も関与しておらん」
「おいこら! 裏切り者! ていうか、俺はヴィオレットに奴隷にされかけたんだ! 被害者は俺の方だろ!」
「なっ……ど、奴隷!? か、界さん。あなたという人はっ! このっ! 変態にゃ!」
(なんでだよおおおおおおおおおおおおおおおお! 変態はむしろヴィオレットだろうが!! ついでに悪いのは殆ど深化だぜええ? 話聞けよおおおおおお! 分かってくれよおおお! アンダースタンドしてくれよおおおおおおお!)
と、そんなことは言えません。鈴奈のあの目は、俺をゴミのように見ている眼だ。下手な事言えば焼却炉にぶちこまれる。
「うぬぬぬぬぬぬぬ」
鈴奈の後ろで、赤き気のボルテージが全身を覆う。
(これは……いわゆる死亡フラグって言うやつだよな……。って関心してる場合じゃねえ!?)
何か策はないものかと、頼りのまなざしで深化を見る。この絶対的な状況で頼れるのはこの人だけだ。妖怪でない俺が下手に行動を起こしたら、神隠しにされてしまう、暴力的な意味で。
「案ぜよ、青年。策はある。……鈴奈!」
にやりと笑う深化は、巫女服の裂けた部分から何かを取りだす。
「これを見ろ!」
深化が手に持ったものを鈴奈に見せた瞬間、猫の怒気はどこへやら、あっという間に鈴奈は興味身心に顔を赤らめている。
「にゃっ! にゃにゃにゃにゃ!」
全身が火照り、姿勢が四つん這いになる。警戒ではなく興味の方向で、透明な鈴奈の瞳はさらに輝きを増す。見られてしまえば一瞬で心を掴まれ,体が硬直し、彼女の虜になってしまう、そんな幻想さえ感じる。
「ふっ。策に溺れたか。猫も、案外と扱いは楽じゃのう」
「いや? え? な、なにをした?」
「見ての通り。猫じゃらしよ。鈴奈はこれを見せると、このように発情しての……。まるで猫じゃらしに操られるかのように己の理性を失わせるのじゃ……」
「う、うわぁ……」
してやったりと、深化は策士の高笑いを上げる。・・・実際のところ、普通に見れば暴れる猫に興味を引くもので押さえただけである……。
というか、この猫完全に、猫じゃらしにしか目がない。
「ほれ」
深化が猫じゃらしを横に振る。
「にゃぁ!」
可愛い声を上げ、鈴奈がそれを追いかける。
「ほれ」
右に振る。
「にゃぁ!」
体を反転させ、また追いかける。
右、左、右と、まるで振り子のように左右を行き来していた。目が回る程鈴奈は動いているはずなのに、一方に収まる気配を見せない。……タフさだけは恐ろしい妖怪だ。というか猫又ってタフだっけ? まぁいいか。
と、そこで深化は俺を呼ぶ、。
「ほれ、青年」
「え? はぁ!?」
突然、深化は自分の持っていた猫じゃらしを、ひょいと俺に渡してきた。何を思ったのか、深化は鈴奈の横をあっさりと通りすぎ、きたろう館の方向へとかけ足で進む。
「お、ちょ、ちょっとこれどういうこと!?」
「修羅の道を逝け、青年。お主なら乗り越えられる。鈴奈を頼むぞ」
深化は、じゃ。と軽く手を振り、森の中へ逃げていった。
(ちくしょおおおおおおおおおおおおお! 逃げやがったあああああああああああああああああ! ヴィオレットといい深化といい、ロクでもない妖怪が多すぎるんだよおオオオオオオオオ!)
「にゃぁーーーーーーーっ!」
「ぷぎゃあああああああああ!」
『てめえこの野郎あとで覚えとけよ』思考もつかの間、鈴奈は勢いをつけて、俺にプロレス選手の如く、俺に飛び込んできた。
当然、俺は避ける事ができず、そのまま鈴奈に伸しかかられ、床に押しつぶされる。
ドスッ、と体が衝撃を受けた音と同時に、鈴奈の癒しににた鳴き声が聞こえた。
「にゃぁ……にゃにゃっ、にゃぁあぁぁ、ごろごろぉ」
「うぉっ! ちょい! 鈴奈ってば! 聞こえてねーのか! おい! おおおい!」
鈴奈はべったりと、体と顔を俺に近づける。ご主人様にデレデレした猫のように、鈴奈は俺から離れようとしなかった。
妖怪といえど、鈴奈は女の子。女性独特の肌の感触が、俺の全身を通って感覚神経に伝わる。かいだだけで失神してしまいそうな甘い匂いが、煙となって体中を覆う。そんなひどく高揚した感覚に俺は襲われる。
(これが、これが女の子の体の感触なのか……。ヴィオレットの時は直接触れ合ってないけど、実際に触れ合うと……こんな……。ああ! ったく! 俺は何を考えてるんだ! でも……この感触は……やばい)
「にゃぁ〜」
「……っ」
桃色に染まった肌が眼前に迫る。甘い吐息が顔にかかる。
和やかで優しい笑み、初めて出会った鈴奈の顔が浮かぶ。万物のあらゆる哀しみを受け入れ、太陽を見るような輝きで、俺の手を取ってくれたあの、目に染みいる笑顔が、しばらく俺の脳裏に焼き付いていた。
鈴奈の香りが鼻をくすぐる。甘美で生々しい猫の体が俺の肢体に密着する。胸が、肌が、腕が、足が、全てが一つになるように、鈴奈は俺に抱きついていた。
猫の鳴き声を上げ、俺を見つめる。
初めは俺が鈴奈に惹かれていた、今は、鈴奈が、まるで俺をご主人さまとでも思うように、儚く、幸せそうに見つめている。
俺の体は、鈴奈の笑顔を見るためだけに、固まっていた。
それから、十分後。
しばらくすると、鈴奈はすやすやと寝息を立てている。
「お、落ち着いたか。全く、とんでもないことしやがる……。もっと暴れられていたらどうなっていたことか」
「……」
「このまま起こさないように、きたろう館に連れ帰ろう」
と、伸しかかった鈴奈をどけようとした時である。
「……う〜……」
「……ん?」
先ほどとは違う、眠りから覚める声が耳元を貫いた。同時に体が硬直する。あ、これはやばいぞ。
「あ、あれ? 私、なにやって……。って」
ぴたり。
至近距離で鈴奈の目と俺の目が合う。
「よ、よう」
「……っ〜〜〜〜〜〜〜!?」
鈴奈はだんだんと顔を赤くし、もはや猫じゃらしにゴロゴロしていた可愛らしい鈴菜はそこにいなかった。猫ではなく、一恥じらいを持った一人の女の子が、そこにいた。
「この変態ぃいいいいいいいいいいいい!」
鉄拳制裁の攻撃が俺の顔面を吹き飛ばした。
「ぐっっはあああああああああああああああぁぁ!」
甘いひと時は幻想の彼方に。青雲の壇上で神があざ笑う。
その日は、鈴奈にこっぴどく怒られ、一日を過ごしたのである。
とりあえず神に訴えたい。例えどんなラッキースケベイベントでも、痛みは要らないだろと。