10.う
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「とうとう来ましたねその台詞。もうここまでありきたりだと失笑ものですよ。そうそう、私、ドラマなんかでそういうことしてるの見るたびに思うんですよね」
この場の誰にも気を遣うことなく。ぺらぺらと。
「いいですか? 人質に取られてるその方は、私には一切何にも関係ない方なのですよ? 今日この時間に偶然仕事で、偶然強盗さんに目を付けられて、偶然人質にされた偶然不幸な方なのです。私はその方の顔も名前も知らないんですよ。顔を覚えることもなく、用を済ましてここを出てしまえばさっぱり忘れてしまうような間柄なんですよ? 人質というのは本来、その方に有用な効果がなければ通用しません。そしてその方は私にとって一切関係のない人だ。極端に言ってしまえば、その方は私にとって無価値、なんですよ――――それなのに私がその方の命がどうなろうと気にかけると思いますか?」
ひぐ、と女性職員の喉が鳴った。それでも泣き喚かないのは、若いのになかなかだと言えるだろう。
「まあ人道的倫理的社会的刑法的典型的プロ市民的にはここでためらうべきなんでしょうけどね。しかし私にそんなものを求めないで下さい。はっきり言って迷惑です。私は間違っても善人ではありません。正義の味方ではありません。聖人でも、君子でもありません。ましてや人質にされた初対面の相手を前に足を止めるような心優しい人間でもありません。それでどうして、ひと一人の命を前にためらうことがありますか。仮に道端に設置され『拾って下さい』とかいう身勝手かつ人間的なプレートをセットされたダンボールの中に何が楽しいのか大人しく収まってわんわんなりにゃんにゃんなりつぶらな瞳でこちらを切なげに見上げてあるかないかの情に訴えかけようという努力を惜しまないあざとく策士な小動物に対して目の幅涙で同情しようとも私はそいつらへ『まあ頑張ってね』と言いこそすれ間違っても拾ってあげたりはしませんし、そんな籠の外からの憐れみの欠片しか持ち合わせない私が見ず知らずの他人、言うに事欠いて人間でありしかもこれから死ぬかもしれないというリターンの全く期待できない相手に小指の爪の先ほどの同情心でも動かすと? はン、御冗談を。頼まれたって動きゃしませんよ。お金を積もうというならまあ考えてあげてもいいでしょうかね。まずは一千万からで。それならさしものこの私でも交渉のテーブルに着くにやぶさかではありません。でも考えるだけですよ。引き受けるかどうかは別問題です。そもそも割に合わないんですよ。私こうも思うんですけどね。考えてみても下さいよ。あなたが私の何を恐れたのかは知りませんが、その方は私に対する唯一のあなたの盾ということでしょう? そしてその盾は、生きていなければならない。さらにはその効力は、その人質が殺されることで発揮される。なのに殺してしまえばその盾は効力を全て失い、あなたは私から身を守る手段を失う。私はためらう理由を完全に失う。これって自己矛盾ですよねえ? 守るために使用すると守れなくなる。それなのに多くの場合この人質という盾は有用だ。これはなぜか? わかりますか? つまり、人質というのは相手の良心に訴えかけているわけですよ。どこの誰とも知れない相手であっても、人が殺されるのはよくない、という良心に。罪もない無辜のカケガエノナイ命が失われてはいけない、という善良な心に。人質というのは極めて非人道的であると同時に、極めて人道的な防衛手段というわけです。そうは思いませんか? まあ自分で言っておいて何ですが、それも私のようなヒトデナシには通用しないわけですが」
ふと少女は停止した。一拍置いて、ああそうそう、と、興味なさげに、しかし嗜虐的に嗤いながら、
「あなたはその方を私に対する人質に取った。それは事と次第によっては殺してしまうということですよね。そしてここまで長々と垂れ流した通り私は躊躇いませんからもれなくその方は殺されてしまうんでしょう。あなたはその方を殺してしまうんでしょう。そして、あなた方は既に人を殺していると言っていましたね………では一応確認しておきますが、他人を殺すということは、他人に殺されても構わないということですよね? 他人の命を奪うということは、他人に命を奪われても構わないということですよね? 先程の二人、私は別に強いて殺されたいわけでもありませんから殺さずにおきましたけど、あのお二人は私を殺しました。では私はあのお二人の命を頂戴しても問題なかったわけですよね。異論はなかったわけですよね。そしてこれからその方を殺そうとしているあなた方も、私に殺されても文句は言えませんよね。――――ふふふ、狙い通りに手が滑ったらどうしようかしら。拳銃に対して百科事典だから正当防衛になるかしら? 楽しみですわ。わわわ」
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