二,ある日
「例えばソクラテスではない、他の倫理学者達はどうだろう?」
彩世は突然、持っていたサンドイッチを私の目の前に突き出すと、楽しげな微笑みを浮かべながらそう言った。
「どうって?」
「彼以外の倫理学者達は知者だったのか?あるいはそうではなかったのか?」
サンドイッチを私に向けたまま、彩世は更に問う。
私は、うーんと唸ってから。
「私はソクラテスも、結局知者じゃなかったと思う」
と返した。
倫理学の授業で、突然私の目の前に現われ、課題の原稿用紙を見せてくれた泉彩世と親しくなり、もう半年以上になる。
季節はすっかり冬。あと一週間もすれば、大学は冬休みを迎える、そんな寒い昼休みのことだった。
彩世は昼食のサンドイッチを私に突きつけ、突然の質問をし、私は深く考えもせずにそれに答えたのだ。
彩世はそんな私の答えを、馬鹿にするでも、かと言って興味を示すでもなく、ただ黙って聞いた。
「知者なんて、本当はこの世にはいないんだよ。この世の理は、それこそ神のみぞ知ることなんだと思う」
緑茶の缶に口をつけながら私がそう言うと、彩世はサンドイッチを口に放り込み、コーヒーを一気に飲み干した。
「梗子は危険な人生観を持っているのかもしれないね」
「え?」
「存在するのかしないのか、そんなよく分かりもしない存在が全てを知っている、なんて怖いこと平気で言う」
そう言うと、彩世はバッグをガサガサと探り、一冊のノートを取り出した。
「どうしたの?」
私がノートを覗き込むと、彩世はノートを隠すようにして、あかんべーをした。
「けち」
「私はけちだよ?ところで」
彩世は言いながらノートのページを捲り、半分くらいのところで手を止めた。
「梗子は先週の倫理学の授業を休んでいただろう?また課題が出たんだよ」
これ、と続けて、彩世は開いたノートを私に見せた。
そこには、二ページ程続く英文が書かれている。
「何?」
「この英文の訳」
「うそ!」
「嘘」
彩世は意地悪く笑うと、ノートをもう一度捲った。
そこには、前ページの訳らしき文章が並んでいる。
「こっちが訳。課題はこれの感想文を原稿用紙で五枚以内」
「今度は誰のお言葉?」
「読めば分かるよ」
彩世はそう言い、ノートを私に持たせ、ベンチに寝転んでしまった。
私は仕方なく、ノートの文章を読み始めた。
誰のお言葉なのか、それはすぐに分かってしまった。
「またソクラテス?」
「あたり。西教授はかなりのソクラテス通みたいだね」
西教授、というのは倫理学の教授だ。
以前も教授は『ソクラテスの知について』というテーマで課題を出している。
授業中もソクラテスの話をすることが多い。
確かに、ソクラテスが、あるいはソクラテスの考え方が好きなのだろう。
「彩世、嬉しそう」
私は、ベンチに横になったまま微笑む彩世を見下ろしながら言った。
彩世は起き上がり、よく晴れた冬の青空を仰ぎ見ながら、また笑う。
「私はね、ソクラテスの倫理観には興味はないんだ。でも・・・」
「彼のやろうとしたことには興味がる、でしょ?」
私がそう言うと、彩世は微笑み、ビンゴ、と言った。
彩世の考え方はおもしろい。
私は、彼女と初めて出会った瞬間からそう思っている。
どこかどう、どんな風におもしろいのか、と聞かれると、はっきり答えられないけれど、とにかく私は、彼女の人生観や倫理観に興味を持っている。
彼女が、ソクラテスに興味を持っているように。




