6. the calm before the...
私は霧が濃い森の中でたったひとりさまよっていた。
あの日シャクラが私に選んでくれた上品なシルクのワンピースを着て、裸足のまま湿っている土や落ち葉を踏んで歩く。
どこへ向かってるのかしら。そう思うが、足は勝手に一歩、また一歩と進む。
薄暗くひんやりとした森の中がいつもなら恐怖さえ覚えるのに、いまはとても心地がいいと感じていた。
しばらく歩いていると向こうのほうから誰かの声が聞こえてきた。
耳を澄ましてみると、それは声というより音だった。
誰かのすすり泣く音。
「かわいそう……。助けてあげなくちゃっ」
咄嗟にその音を出している誰かのところへ駆けて行く。
走っても走っても、その人の姿は見えてこない。
そういえばいつもより歩幅が小さい気がする、とぼんやり考えている私をよそに私は一生懸命に誰かの元へ走って行った。
「あなた、誰?どうして泣いているの?」
木の後ろにもたれているから姿は見えないが、私は近くまで行くと聞いた。
するとずっと聞えていた鳴き声がぴたりと止み、木の影から鋭い声がとんだ。
「関係ないだろうっ。どこかへ行けっ」
私はむぅっとしたけれど、その声が悲しさで震えているのを感じて言い返すのをやめ、その場へ座り込んだ。
「嫌よ。泣いている人がいたら傍にいてあげなさいっておばあさまが言ってたもの」
「……」
私はどうやったらその人が笑顔になってくれるのか必死に考えていた。
あっ、そうだ。おばあさまのバタークッキーをたくさん食べればきっと元気になるわ。
「ねぇ、家にこない?おばあさまのクッキーって世界一なのよ」
「……ラ。ティラっ」
上から降ってくる声に瞼を上げれば茶色の瞳が私を心配そうに見つめていた。
「こんなところで寝たら風邪をひいてしまうよ?それに、野蛮な誰かになにかされてしまうかもしれない」
「シャクラ?」
私は身体を起こし、辺りを見回す。
風通しの良すぎる草原に私とシャクラ、それに少し離れた所でレオンが立っている。
太陽は沈みかかっていた。
「僕だよ?まったく、病人を心配させるなんて」
「ごめんなさい……。ぽかぽかしてたからつい」
私はそっとシャクラの胸に手を添える。静かに鼓動を刻む心臓を確認する。
「でも、ティラの自由なところ好きだよ」
シャクラは私の手をとると口づけた。
「もう、シャクラったら」
私は真っ赤になって手を引っ込める。
「でも、シャクラは最近ほんとに体調がいいわね」
以前まで苦しんでいるところは隠せても顔色は隠しようもない程真っ青だった。
けれど今は血色のいい肌で表情もどこか明るい。
「そうだね、このまま良くなってくれればいいんだけど」
「なるわよっ!絶対……」
「うん」
シャクラは私の頭を撫でるとレオンのほうを向いた。
「主治医さん、僕の病気は治りますか?」
シャクラはわざとらしく礼儀正しい口調でそう言うとレオンを見据えた。
その瞳がどこか鋭くギラリと光ったのを私は見た気がした。
「……それは、お前次第かな」
レオンはシャクラの視線を真っ正面から受け止めると少し考えてから答えた。
「なるほど」
ふんっと鼻をならし、シャクラは可愛らしい唇の端を吊り上げて皮肉めいた笑い方をした。
「そうよ?シャクラが頑張ろう、元気になろうって思えばきっと身体も良くなってくれるわ」
「ティラは本当に……太陽みたいな子だね」
「え?」
「馬鹿なだけだろう」
レオンが私たちのほうへ近づいてきた。
「馬鹿で結構よっ」
私はレオンを軽く睨むと頬をつねってやった。結構な力で。
「いてっ」
「痛いようにしてるのよ」
レオンとじゃれているとシャクラが間に入ってきて私をふわりと持ち上げた。
「わっ、なに?」
「もう日が暮れる。早く屋敷に帰って夕飯食べなきゃね」
「そ、それはそうだけどなにもお姫様抱っこしなくても……。それに私重いし、シャクラは病人だし降ろしてっ」
私は足をパタパタさせるとシャクラがさっと頬に唇を寄せた。
「重くなんかないよ。それに、降ろしたらまたすぐどこかへ行ってしまうだろう?」
「うぅ……」
見た目とは裏腹に頑固すぎるシャクラにこれ以上なにを言っても無駄だと悟った私はじっとすることにした。
間近で見るシャクラの首も腕もこんなに細いのに、どこにそんな力があるのだろう。私を抱えて優雅な足取りで屋敷に向かう。
しばらくして、レオンの姿が見えないことに気付き私は首をひねって後ろを向くと、ぼんやりとこちらを眺めているレオンがいた。
「……」
レオンは私の視線を受け流すように軽く横を向くと足を動かした。
「ねぇ、レオンって時々なに考えてるのか分からないの」
シャクラにだけ聞えるように言うとシャクラは表情を変えないまま
「人のことを全て分かる必要なんてあるのかな」
と言った。
その言葉の意味がもっと深いところにある気がした。
でも、確かにそうなのかもしれない。
「うーん」
「ティラには難しいこと考えないで自由に幸せにしていてほしいな」
シャクラはふんわりと笑うとそう言った。
「十分幸せよ?シャクラがいれば」
私は自分で言いながら、すごく恥ずかしくなってきた。
普通に思っていたことだけど、口にするとはっきりとした形になってしまうようだ。
「……ティラ」
「ん?」
「僕の病気が治ったら……」
「シャクラ」
シャクラが何か言いかけた時、レオンが後ろから声をとばした。
「その荷物持つの代わってやろうか?重そうだぞ?」
「おっ、おも……っ」
横に並んだレオンを思いっきり睨みつける。
「……だめ。ティラは渡さないよ。誰にも、ね」
静かな声で言ったシャクラの顔を見るととても真剣な表情をしていた。
その台詞にどくんと心臓がはねる。
「どうかな」
レオンは小さく呟いた。
「おっ。今日は羊肉か」
レオンは私を重いと言ったことなんて忘れ、嬉しそうに屋敷に入って行く。
屋敷の前まで行くと夕食の香りがしてきて、空気をぐうんと吸い込むと自分の空腹に初めて気がついた。
「お腹減ったわね。シャクラ、もう降ろして?」
「……」
「シャクラ?」
「あぁ、うん」
私はシャクラが立ちつくしているのを不安に見つめていた。
「大丈夫」
なにか言ってあげないと、と思うと案外普通な言葉しか出てこない。
「大丈夫?」
「うん。なにがか分からないけど……きっとぜーーんぶ大丈夫よ?信じて」
なにを根拠に言っているのか、と自分でも呆れてしまう。
しかし、シャクラは嬉しそうに目を細めると私をそっと降ろし、手をとって屋敷の方へ導いてくれた。
「信じてるよ」
呟くシャクラの背中が私には大きくて愛しく映った。