公園の住人
閑静な住宅街に、子供の甲高い声が響き渡る。
十月、土曜日の朝八時、立冬を迎えて間もない大気は、曇りも相まって冷え込みを格段に増していた。
それにも関わらず、布団の中で悦にくるまっていた徹夜明けの大学生数名を起こしてしまうくらいの大声。彼らがくるまるのは、じきに倦怠感に代わりそうだ。
街の中にどしりと佇む公園。その大地を縦横無尽に駆け回る子供の後ろ姿を、手を擦り合わせた親達が目を細めて見守っている。
だが人生を駆けだしたばかりの彼らにとって、こんな寒さなどはなんの障壁にもならず、駆り出された親の気持ちなど微塵もその心にはないようだった。
「いやぁ、こんな朝っぱらからよく走るわい。子供っちゅうのは活力あって大したもんじゃ。なあ、ベックよ」
公園の脇に居たウッドが、少し嗄れた声で言った。
「ほんとにね。鬼ごっこなんてよくやるよ。僕なんて身も関節もまだキンキンに冷えてるっていうのにさ。人間って羨ましいなぁ……朝から身が軋むなんてこと、ないんだろうか」
ベックがうっとりした声で言うと、ウッドがほほっと笑う。
すると少し離れたところから、低く少し荒い声が差し込まれた。
「おいおい、お前なんてせいぜい体にのっぺり重しがかかるくらいなんだから大したことねえだろ。所詮ベンチなんだからよ」
「なんだよブラ。所詮っていうのは失礼じゃないかい? というか、この間の夏にその話は痛み分けで決着しただろう? なんでまた絡んでくるのさ」
「違えよ、保留で終わったんだっつーの。ほら、もうすぐ冬が来るだろ? その前に気持ち悪さをあれこれ片しとこうってな。それに差し当たって、『俺とお前、どっちの労働が過酷か』っていうのが未解決のわだかまりってわけだ」
「別に構わないよ。けど大丈夫かい? 前の勝負では僕に分があったのに仕方なーく良心で分けにしてあげたんだ。その心配りを無碍にする愚行になりかねないけど?」
「望むところだぜ。そこのじじいからちょっと派生しただけの小物があんましゃしゃんなよ?」
「この鉄屑ブランコめ。よーし分かった。やってやろうじゃないか!」
両者がきつく睨み合っていると、見かねたウッドが場を強く抑えた。
「こらやめんかっ。せっかく子の溌溂とした声で朝から元気を貰っとたんに、明るい空気が台無しになってしまうわ。ほれ、ラン。お主からもなにか言ってやっておくれ」
ウッドが言うと、ブラの隣にいたランが身を捩ってキィと伸びをした。
「うーんっ……ふわぁぁ……。別にお兄ちゃんの勝ちでいーんじゃない? ベックよりもうんとカッコいいんだし」
「このブラコンめっ。ウッド、冷静で公平なジャッジをこの子に求めるのは間違ってるよ。やっぱりウッドが判事を務めるべきだ」
「ブランコだけにブラコンとな?」
「じじい。それ毎回滑ってんだよ気づけ、な?」
ブラが噛みつくと、ショックを受けたウッドが枯れ葉を数枚散らした。ベックが慌てて慰めに入っているところに、ランが再び口を開く。
「ま、わたしもそれに賛成。もういい加減この争いにも飽きたの。爺じがこの場では一番物知りだし、第三者だからそれこそ公平な判断ができるでしょ。ここでサクッと決めちゃえば? まあわたしはお兄ちゃんが勝つと思うけどね」
「いやぁ駄目だぜ。さっきも言ったろ? ベックはじじいから生まれた存在だ。つまりベックはじじいの従順なしもべってわけ。贔屓待ったなしだろ」
「そこは安心しとくれ。別に大した事柄でもあるまいし、この喧嘩の結末がどうであれわしに影響はない。どちらにも肩入れはせんよ」
ブラは最後まで不満そうだったが、ランに次いでベックも合意すると渋々といった様子で了承した。
そしてウッドは頭を悩ませた末――。
「まあ、わしが考えるに……軍配はベックに上がりそうじゃな」
「ふぉーーーーう! ざーんねんでしたー! 小物? しゃしゃんな? 誰が言ってるのさ、この小物がぁ! えっなに、わだかまりの解消? どうぞどうぞ、その気持ち悪さをその錆び切った鎖にでも絡めてお持ち帰りくださーい! まあ二度とそれが持ち出されることはないですけどねぇー」
「おいラン見ろや! やっぱ贔屓じゃねえか! てかうぜえ! なーにが錆び切ってるだキャラ崩した口調しやがって! てめえの方がよっぽど腐ってボロボロだろうが!」
「お兄ちゃん、結果は結果だよ。大丈夫、わたしは鎖の色がお揃いで嬉しいよ? でももし気になるなら、できるだけ早く新調してもらえるように一緒に神様にお願いしよ? ……爺じ、続きを詳しく」
ランの睨みが予想以上にキツく驚きを見せたウッドは、戸惑いを抑えながら咳払いを一つ、詳細を述べ始めた。
「今までこの論争は、主に夏場の労働を俎上に載せて互いの主張が行われておった。冬場に関しては、ベックは少々寒いが基本座っているだけ、ブラも同じじゃがむしろ身を動かせている分ラッキーと、両者に差はあまりなかったからの。それで夏場についての議論で、ベックは『蒸れて汗臭い人間を上に乗せて長時間拘束される』、ブラは『ヌルついた手で鎖を汚された挙句、振り回されて気持ち悪い』とそれぞれの主張がなされており、意見が拮抗しとったわけじゃ。ここまでは良いな?」
ウッドが確認すると、ベックとブラは頷いた。
「正直、第三者のわしらには直にその苦痛を感じることはできん。だからわしも長いこと口を挟むことはするまい思っていた……。じゃがブラよ、今までのお主の様子を加味すると、勝敗を無理につけるのならお主が一歩劣る結果になるのじゃ」
「やっぱり、爺さんもそう思うよね」
「は? どういうことだよ」
ブラが言うと、察しのいいらしいランがさっと顔を背けた。子供たちの方を空っぽの目線で見て「どの子が一番速いのかなー」などと呟いている。
ウッドはもう一度咳払いを重ねると、おずおずとそれを口にした。
「お主、人の子を性的な目で見ておるじゃろ?」
……。
しばしの沈黙が間を覆った。子供の無邪気な雄叫びが差し込み、それが妙な空気感を醸し出す。
「な、なに言ってんだよ、じじい……」
「すまん、言い換えよう。性的志向に倒錯があるのではと――」
「一緒の意味だろうが! は、はぁ⁉ じゃあなんだお前ら、俺がロリコンだから、『モチベーション上がる最っ高の仕事! だから多少の労働なんて気にならないよねーっ!』って思ってるって言いてえのかよ! 俺だってプライド持って仕事してたんだよ、ふざけんじゃねえぞ!」
「すまん……いやほれ、最近お主を使う人間が随分と減っているじゃろ? その事実が過去のお主の言動と関わりがないとは到底思えんのじゃ」
「そうそう。君が子供を乗せて仕事をしているとき、妙に笑顔が爛れている気がするしね。君の下心を子供ながらに察知して、客足が遠のいたって推測してるのさ。これにはそこのブラコンも同意済みだ」
逃避していたのに引き合いに出され、ランの身がぴくんと震える。
そして彼女は一瞬の逡巡を挟むと――ふふっと鈍い笑みを張り付けた。
「てめえ! ブラコンのくせに陰で俺の悪口言ってたのか! てか、お前は俺のこと言えねえだろうが。お前が面の良い男子高生の汗臭い服嗅いでニマニマと『これで十二種類目ー』って臭いをコレクションしてたこと、知ってるんだからな!」
「ちょっとやめてよ‼ わたしは精一杯の配慮で笑ってあげたっていうのに、なんて恩知らずなことするのよ⁉」
「知るかよ。お前が他の奴に目移りしたのが悪りいんだろうが」
「だって仕方ないじゃない! 匂いに惹かれるのは女の性質上仕方ないの。大体、いつも構ってくれてたらお兄ちゃんの愚痴だって言わなかった――」
「浮気女のクソ常套句みてえなのかましてんじゃねえぞ!」
このままでは兄妹喧嘩が勃発しかねない。
ウッドが樹皮をポリポリ掻いて嘆息していると、ベックがおいと呼び、間一髪話を戻すのに成功した。
「あのね、ブラ。もし君が――君らがそうだとしても、僕らは少し引くくらいで咎めるつもりはないよ。志向は物それぞれだ」
ベックが問うと、ブラは神妙さと動揺の笑いが混ざった顔で答えた。ランは顔を赤らめてなにか言いたげにもじもじしている。
「いやマジでふざけるなよ。ねえよ。神に誓ってもいい。俺が集客できてないのはロリコンだからじゃない。他に気持ち悪い性癖があるからでもない。第一、人間がそれを察知できるのかも分からねえんだからよ。俺がそう見えたのならそれは演技だ。そうやって無理やり笑顔作って自分を鼓舞してんだよ」
その自信あり気な物言いに、ベックらは顔を見合わせると、しばらくして息を吐いた。
「ま、さすがにそうか。お客さんに欲情するのは百歩譲ったとしても、子供になんていくはずないもんね」
「わしは受け入れる覚悟でおったがな。ともかく、今後の警戒はちと緩めてもよかろう」
「俺、ずっと警戒されてたのか……?」
「細かいことは気にするなよ。それで、こうなると判定は……」
「もう分けで良しとせんか。そもそもわしらの仕事に優劣などつけるべきではない。お互いを尊重するのも、人を喜ばせることと等しく大切なことじゃ」
ウッドが言うと、仕方ないといった様子でベックとブラは頷いた。
これで議論は収束――したかのように見えた。
「……謎にわたしだけ損したんだけど」
「陰ながらでも俺の事庇っとけばよかったのにな」
むくっと膨れて零すランに、ブラが笑って言う。
がその時、ランがもやもやを発散せんとばかりに口を開いた。どこか表情がニヤついている。
「……そう言えばさっきの話。最近お客さんが来てない理由、本当の事教えてあげようか?」
「お前、急になんだよ――って、お?」
一拍空けてブラは静止し、きょとんとした顔をした。同じ意見をベックも持ったようで、それをランに問う。
「ラン、ブラから客足が遠のいた原因を、君は知ってるのかい?」
「うん、知ってるよ。ほら、お兄ちゃん」
ランが目を遣って、皆の視線をブラに集める。
相変わらず酷いものだ。鎖は真っ茶色に染まり、座席もすっかり色褪せて傷だらけ。唸り軋み今にも取り換えが必要だと思わせるレベルだった。
「かなり劣化してるでしょ? お兄ちゃんが一生懸命働くとね、そこから甲高い音がずっと鳴るの。それで、それに怒った近隣の老人の人から苦情が来るんだって。前に親子が話してるの聞いちゃった」
その話を聞くや否や、ベックは急にすごく申し訳なさそうな表情に早変わりした。ウッドも同様だった。
物にとって、どれだけ人に使ってもらえるかは自分の存在価値そのものだ。
遊具として使われていない現実に、ブラは少し参っていた。
だがそれでも虚勢を張ってこられたのは、その原因があやふやだったからだ。例えば『それは偶然の重なり』などと言い訳ができていた。
それが今のランの発言で、逃げ道の全てが封鎖されたのだ。現実を飲み込まざるを得ないブラの気持ちは――。
「……ブラ、僕らにとっては使われることが大きな生きがいだ。けど、君の場合は自業自得だって思ってた。子供に邪な感情を持っているからって。けれど、本当はずっと悩んでいたのかい? だとしたら僕は……ごめん……」
「……なに一つブラに過失はない。だからこそなにという精進もできない。やるせないのう」
口々に憐みの声が上がる。
その言葉を聞いたブラは、プライドを粉々に打ち砕かれ、わなわなと身を震わせ――なかった。
「ま、大したことじゃあねえな」
ランが「えっ?」という様子で振り向く。
彼の表情の端々には、ぐっと堪えている様子もない。それどころか、余裕の笑みさえ見せている。
「あれ、落ち込まないのかい?」
「俺がか? まあ人間の管理不足がうざってえとかはあるが、へこみはしねえな。むしろ俺の悪評が払拭されただけでもでけえ収穫さ。……もう問題は問題じゃなくなったからな」
「……というと?」
皆が頭に疑問符を浮かべる中ベックが訊くと、ブラは待ってましたとばかりにくいっと口端を釣り上げた。その隙間から漏れた生温い湿り気が、冷えた大気に混じる。
「最近、俺に熱な常連がいるのさ。お前らが見てきた人間とは比べものにならないくらいとびきりのな。たぶん才色、絶対兼備、歩く姿は百合の中の極み百合! つって」
「はぁ……」
「ああ、あの女、思い出すだけで最っ高だぜ!」
記憶の女性に爛れた笑みを這わすブラを見て、場の熱が急激にスーッと冷めていく。皆が揃って半信半疑の顔を並べていた。
ランが「妄想じゃないの?」と突っ込むと、ブラが「馬鹿言え」とその女性の素晴らしさを全身全霊で説き始める。
ランはキュッと頬を冷たくして、しまったと言わんばかりの表情を見せた。
すぐさまウッドを見て救いの手を求めようとするが、ウッドは全てを放棄した微笑みでその様子を眺めている。
ブラの口から滔々と流れる賛美の数々。
目の前の苦行を他所に、ベックがウッドにひっそりと声をかけた。
「ねえウッド、一つ気になることがあるんだけど」
「うむ、なんじゃ」
「ブラが騒音で使われなくなったって話。少し腑に落ちないんだ。ブラの稼働音が苦情として子供の行動抑制に繋がるなんて、あり得ることなの?」
ベックが問うと、ウッドは縦に頷いた。
「たった老人一人の意見かもしれぬが、圧の掛け方次第では公共のルール、ないしは人の行為に影響を与える。不思議なことではなかろう」
「そっか……でもさ、ならその苦情はランにも来ていないとおかしいと思うんだ。だってほら、ラン鎖を見てよ」
ウッドが言われた通りに目を凝らすと、ランのそれが茶色に染まっているのが分かった。
「確かに、多少錆びついておるな」
「そうなんだよ。彼女もブラほど酷くないにしろ、錆びて音も鳴ってるんだ。でもランは相変わらず使われてる」
「騒音の程度の差じゃろう。より目立つ方が怒りに触れやすかった。ブラには可哀想じゃが――」
「おい、じじいも聞け! 今からどれだけ俺が魅力的なのか、その年輪にしっかり叩き込んでやるからよ!」
そんな唐突な提案が、ウッドの話を打ち消した。ウッドは面倒くさい未来を悟ったようで、話題の転換を試みる。
「ど、どうじゃ、そこで催されている鬼ごっこ、最後に誰が鬼で終わるのかを当てる賭けでもせんか。ほら、今鬼の子なんかどうじゃ? がむしゃらでタフそうじゃが」
だがその発言は、ブラの覇気に上塗られて消されてしまう。
ウッドが敗北すると同時に、当然矛先はベックにも向き、いつの間にかその胸にある小さなわだかまりは、姿を消してしまっていた。




