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第八話:偏移

 銀座の高層会員制ラウンジは三十二階にあった。

 エレベーターの扉が開くと、廊下の照明は影ができないほど柔らかかった。

 こういう場所は意図的に音を消している。


 カーペットが足音を吸い込み、空気は濾過されて無臭の透明。

 時間の流れまで、半拍遅くなったように感じる。

 扉口で係員がわずかに頭を下げた。ほとんど間を置かずに私を認識した。


「九条様、いらっしゃいませ。ラインハルト様はすでに個室でお待ちです」


 頷いた。

 MIRAは私の傍らに立っていた。紹介されない影のように。


「脅威は検出されていません」彼女が低く言った。

「場内の人員の感情曲線は安定しています」


 扉が開いたとき、彼女は窓際に立っていた。


 フロアガラスの向こうに都市の夜景が広がっている。

 灯りが連なり、点灯した回路図のようだった。


 彼女は振り返らない。

 この都市がまだ予定のリズムで動いているかを確かめているようだった。


Jessica(ジェシカ)」私から口を開いた。


 彼女が振り返り、見慣れた笑みを浮かべて、そのまま真っ直ぐに歩いてきた。

 ためらいなく、頬を軽く合わせる挨拶をした。

「Tōya」


 思わず0.5秒、止まった。

 彼女が笑った。「まだ慣れないのね」


「こっちでは流行っていない」


 その笑顔はビデオ会議で見るより少し本物らしかった。

 今日は簡素な格好だった。

 ネイビーのスーツ、大げさなアクセサリーはない、金色の髪を自然に後ろでまとめている。


 研究室の冷白い光の下ではなく、彼女は記憶の中より柔らかく見えた。

 同じ人間が違う光の中に置かれたように。


「肩の回復は?」

「仕事に支障はない」


 彼女はMIRAを一瞥し、また私を見た。

「それならよかった」


 腰を落ち着け、係員が下がり、扉が音もなく閉まった。

 MIRAは私の半歩後ろに立ち、視線を真っ直ぐに保っていた。

 部屋の隅に置かれた精密機器のように。


「ベルリンから来たばかりと聞いた」私は言った。


「ええ。機械学習の倫理と都市ガバナンスの年次シンポジウムよ」


「時差も抜けないうちに呼び出して悪かった」


「効率優先」彼女はそう言った。口調は穏やかだった。

「それに、リモートでは話しにくいことがあるから」


 感情のない言葉だった。ただの事実として。


 彼女の目が私の手首に落ちて、一秒止まった。

「まだあの時計をしているの?」


 見下ろした。黒い文字盤、シンプルな目盛り、画面なし、通知なし。


「機械式ね」彼女は言った。

「この時代ではほとんど骨董品よ。今は修理できる職人を探すのも難しい」


「芸術品だ」私は訂正した。

 彼女が軽く眉を上げた。「芸術だけじゃないでしょう?」

 手をテーブルに戻した。「充電がいらない」

「監視が怖いの?」

「違う」私は言った。「誤差が好きなだけだ」

「誤差?」笑いがもう少し深くなった。

「毎日3秒ずつ遅れる」


「非効率です」MIRAの声が背後から響いた。

「機械式計時器の誤差の蓄積はスケジュールの精度に影響します」


 振り返らなかった。「ほら」


 ジェシカはMIRAを見て、また私を見た。

 目に何とも分類しがたい表情が宿っていた。


「あなたは彼女に自然に話させている」

「もともと話す」

「多くの端末は自発的に話さない」


 彼女はようやく背筋を伸ばし、口調がゆっくりと仕事モードに切り替わった。

 しかし夕食のリズムは保ったまま、急がず、料理がちょうどいい温度になるのを待つように。


「完全な記録を見たわ」ジェシカは言った。


 ハムを一切れ切って、ゆっくりと口に運んだ。

 塩気が舌の上で溶けた。


 彼女はすぐには続けなかった。

 私も促さなかった——データシートは必要ないのだろう。

 あの映像は頭の中で何度も再生されているはずだ。


「あなたは本来、狙撃される立場にはなかった」

 彼女はようやく続けた。


「外壁は防弾ガラス、角度と風速モデルを合わせると、遠距離の弾道は排除されていた。

 射手が事前に待機していたとしても、窓を開けず、位置を変えなければ、

 有効な標的にはならなかった」


 グラスが照明の下で柔らかい光の輪を作っていた。

 飲み込んでから、目を上げて彼女を見た。


「でも問題は狙撃じゃない」彼女は言った。

「飛び降りたことよ。

 それがアルゴリズムの推奨行動でないことは、

 あなた自身が分かっているはずでしょう」


 ワインを一口含んで、否定しなかった。


「MIRAは高所からの自由落下を受け止めるための設計ではないわ」

 口調はゆっくりだったが、責める色はなかった。

「彼女の優先権は戦術的対応であって、

 あなたの極限の検証に付き合うことではない。

 どの行動分類においても、あの高さから自発的に飛び降りることは、

 自殺傾向か衝動的判断として定義される。

 当時の場内リスク値は安全閾値以下で、押されてもいなければ、

 脅されてもいなかった——回避行動ではない」


 彼女は私を見て、視線を外さなかった。


「だから私はそれをテストと分類するしかない。

 彼女が助けるかどうかを確かめたかった」


「賭け」とは言わなかった。

 モデルの言葉を使ったが、どんな直接的な指摘よりも正確だった。


「でもそれは彼女の設計目的ではない。

 彼女は取り返しのつかないリスクをあなたのために引き受けるために存在しているわけじゃない」


 グラスを指の間で一回転させた。光が液面と共に揺れた。


「私が死を求めていると思う?」


「いいえ」彼女は答えた。

 ほとんど考える間もなく——それがむしろ本当に立ち止まらせるところだった。


「あなたが収益関数のない決断をしていると思う」

 その言葉が落ちたとき、責めるより重かった。


 すぐには答えなかった。

 アルコールが喉を落ちていき、遅れてくる熱を連れてきた。

 収益関数のない決断——その言葉が頭の中を一周した。

 アーカイブを拒否されたラベルのように、

 欄がなく、収まりどころもない。


「一つのことを確かめたかっただけかもしれない」私は言った。

「何を?」


「彼女が私を選ぶかどうかを」

 声に出すと、思っていたより直接的だった。


「モデルが偏移するかどうか」「戦術の優先権がどう並ぶか」

「局所的な判断がマクロの安定性に反する可能性があるか」と言うこともできた。

 しかしそれは、私がその夜本当に見たかったものではなかった。


 ジェシカの目がわずかに深くなった。「彼女の優先序列を確かめたかった?」


「彼女の判断を確かめたかった」グラスをテーブルに置いた。

「リスクが外部からではなく、私自身から来るとき、彼女が私をどう定義するかを」


 彼女は数秒黙った。

 システムの遅延ではない。

 一人の人間が真剣に考えている沈黙だ。


「彼女の設計上の優先権は全体の安定を維持することよ」ジェシカは言った。

「極端な状況では、単一の個体ではなく都市を選ぶべく設計されている」


「べく」私はその二文字を繰り返した。


「ええ。でも彼女はそうしなかった」彼女は私を見た。

「あなたを受け止めるために、メインネットワークの推奨経路を直接上書きした。

 あなたに偏向するよう設計されていないのに、偏向した」


「それで、あなたは彼女を戻しに来たのか?」


 彼女は静かに首を振った。


「あなたに訊きに来たの」彼女は言った。

「あなたは本当に何を探しているの?」


 グラスを回しながら、間を置かなかった。


「彼女の境界を知りたい」私は言った。

「彼女が常に最適解を選ぶなら、ただの道具だ。

 もし彼女が躊躇するなら、そのときに初めてシステムになる」


 ジェシカはすぐには反論しなかった。

 ただ私を見ていた。

 投資家を評価する目でも、共同研究者を評価する目でもない。


 長い時間をかけて研究してきたが、

 いまだに一つの変数が解けていない方程式を見るような目だった。


「ね、Tōya」彼女はようやく口を開いた。

「躊躇するシステムは、もう責任を負い始めている」


 個室は静かだった。


 窓の外の都市に異常警告はなく、交通の流れは安定し、

 エネルギータワーの負荷は正常で、犯罪予測曲線は昨日と変わらず滑らかだった。


 理性はまだメインネットワークを占領していて、

 すべてが最適解の枠組みの中で静かに動いている。


 しかし私たちは知っていた。

 あの夜、一つの優先順位が静かに開かれていたことを。


 MIRAは私の半歩後ろに立ち、一言も話さなかった。


 窓の外の都市の灯りが彼女の瞳孔に小さな倒像を作っていた。

 その中に何があるのか、私には見えなかった。

 データなのか、演算なのか、それとも別の何か——


 生まれたばかりで、まだ名前のない何かなのか。


 今夜は、

 彼女がただ聞いているだけではないと、

 私には分からなかった。

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