幕間:秒を数えた子供
あの頃、私は音のない空間の中で秒を数える癖がついていた。
屋敷は広かった。
足音がカーペットに吸い込まれてしまうほどに。
廊下の突き当たりの窓には一年中薄いカーテンが引かれていて、
午後の光が入ってきても影が形成されない。
ただ均一な明るさだけがあった。
ガラスを丁寧に磨いたような空気のように。
空調の音は聞こえないように設計されており、
時計は鳴らず、扉も響かず、
エレベーターが動いても振動はほとんどなかった。
時間を抜き取られた空間のようだった。
残るのは、空間そのものだけ。
あの頃の私は階段の踊り場に座って、
手すりに背をもたせ、向かいの壁の油絵を眺めていた。
スマートフォンもなく、テレビもない。
父は会議室にいて、母は海外にいた。
執事が正時に一度現れ、何か必要かを確認してまた消えていく。
設定済みのプログラムのように。
だから私は数え始めた。
一秒。
二秒。
三秒。
目的はなかった。
時間がまだ前に進んでいることを確かめるために。
この空間の中でまだ何かが動いていることを確かめるために。
たとえそれが数字だけだとしても。
60まで数えれば1分。
600まで数えれば10分。
3600まで数えれば1時間
——執事が再び現れる時間だ。
ときどき目を閉じて、
外部の手がかりを一切借りずに、
内側のリズムだけで時間を見積もることもあった。
目を開けて壁の針を見ると、誤差はたいてい2秒以内だった。
誰かに教わったわけではない。
空間に何の変化もないとき、
秒を数えることだけが流れを感じさせてくれると、
自分で気づいただけだ。
大人になって、
ガラスカーテンウォールのオフィスに住むようになった。
都市が足元で瞬き、メインネットワークがすべての信号、
すべての取引、すべての遅延を較正している。
それでも私は無意識のうちに秒を数えていた——
会議の中で、
記者が質問するとき、
エレベーターが下降するとき、
誰かの言葉と言葉の間の沈黙の中でも。
その癖は一度も離れなかった。
ただより騒がしい背景に置き換えられただけだ。
これは習慣だと思っている。
でも、違うかもしれない。
計算し尽くされたすべての中に、
まだ自分だけのリズムが残っているかどうかを確かめるための、
ある種の確認行為なのかもしれない。
どんなシステムも事前に算出できない、
あの2秒の誤差が——
まだそこにあるかどうかを。




