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序幕:最適解の外側

 この都市では、人間は予測できる。 少なくとも、統計学的には。


 怒りの理由、裏切りの確率、恋に落ちる条件——すべてが数式へと変換され、中央演算システム「ORACLE」の論理回廊に収められていく。


 それがこの街の誇りだ。

 そして私は、その誇りを金で買った。


 夜の東京湾は、人工照明に灼かれて眩しい。

 湾面から巻き上がる海風がスーツの裾を乱し、眼下の都市の喧騒をどこかへ攫っていく。


 九条ホテル本館、最上階。地上四十八階。

 ここは私の家であり、この世界の中継地でもある。

 政治家、投資家、裏社会の調停者——彼らはここで眠り、密談し、笑い、そして嘘をつく。


 人間は面白い。 だが、ひどく退屈でもある。


「九条様。本日の試験運用は、安全基準を大幅に逸脱しております」


 背後から声がした。抑揚のない、平坦な声。振り返らなくても分かる。


 スーツ姿の少女。

  月光が短い髪に冷たい銀の輝きを流し、その輪郭は現実のものとは思えないほど精緻だった。

 立ち姿はまるで、銃のように真っ直ぐで揺るがない。


 九条グループが出資・開発した、次世代自律型戦術端末。


 コードネーム——MIRA。


「逸脱、か」振り返らずに言った。「その基準は、誰が決めた?」


 柵の外へ、一歩踏み出す。

 足の裏の下には、虚無だけがあった。


「都市安全局、およびORACLE中央演算システムです」声は揺れない。

「この瞬間に落下された場合、生存確率は0.03%。

 社会的損失の推計は、三兆二千億円となります」


「安いな」

 風が強くなる。上着の裾が、獣の唸りのようにはためいた。

「私の命が三兆なら、お前の価値は何だ?」


「算出不能です。私はこの都市唯一の試験サンプル。

 データが完全にアップロードされる前に損傷を受けたら、進化チェーンの断絶を意味する」


「はっ。護衛のくせに保護者気取りか。

 まさか自意識でも芽生えたか?」


「これは『損害制御』に基づく最適論理に過ぎません」

 少しだけ間があった。

「もしそれが自意識のように聞こえるとすれば——あなたの行動論理が予測しやすすぎるからです。

 私が異常に見えるとしたら、それはあなたが単純すぎるだけです」


 笑った。


 物心ついてから、こんなにも率直に言い返してくる人間に会ったのは久しぶりだった。

 大人たちは顔色を窺い、同世代は愛想笑いで距離を置き、部下はただ命令を待つ。


 でも彼女は違う。

 彼女は「論理」そのものの化身だ。へつらう術を知らない。

 必要ともしない。


「九条様。落下行動は推奨されません」


「推奨じゃない」

 最後の一歩を、踏み出した。


 瞬時に体が浮く。

 夜景が反転する。

 都市の灯りが逆さまになって、視界の中へ溢れ出した。


 凄まじい風圧が肺を押し潰し、冷気が喉に流れ込んで呼吸を奪っていく。


 ——この一瞬だけは、誰にも予測できない。

 そう思っていた。


 次の瞬間、衝撃が来た。

  しかし、想像していた感触ではなかった。


 視界の端に白い影が閃いたと思った瞬間、体が横方向に弾き飛ばされ、

 非常階段の緩衝プラットフォームに激しく叩きつけられた。

 背骨に鈍い痛みが走る。


 MIRAが、私の上に降り立った。

 人間の動きではなかった。


  余分な揺れがない。

 一切の躊躇がない。

 数学の命題のように、清潔で、迷いがない。


「落下速度補正、完了。着陸位置を強制変更しました」


「……強制、だと?」


「はい。あなたの個人的な意志よりも、都市全体の『最適解』を優先しました」


 咳き込みながら見上げる。

 胸の奥がじくじくと痛む。なのに、笑いたくなった。


「つまり、私の選択にはもはや意味がないということか」


 彼女はわずかに沈黙した。

 瞳の奥に微かな電子的な光が走る。

 短絡する直前の、最後の残光のように。


「あなたの選択は、常に計算範囲内にあります」


 その瞬間、世界が静まり返った。

 ああ。そういうことか。


「面白い、MIRA」

 埃を払いながら立ち上がる。口元の笑みはそのままに。

「お前は私を止めた」


「面白くありません。義務です」


「だから言っただろう、私はお前の助言など——」

 言葉が途切れた。


 MIRAの視界から色彩が消え、数値で構成された高コントラストの世界へと切り替わる。

 遠方の隣接ビル、その影に沈んだ窓ガラスに、極めて微細な屈折光が閃いた。


 あの角度。あの弧度。

 街灯でも、反射でもない。

 スコープだ。


「超長距離弾道を検出——」


 バン。バン。

 二発、ほぼ同時に空気を引き裂いた。


 その零コンマ数秒で、MIRAのプロセッサーは全速力で回転する。

 世界が純粋な数字へと分解されていく。


 脅威分析:弾丸A(目標:左胸/心臓)、弾丸B(目標:左肩)。

 防御経路計算:同時迎撃、成功率38%。Aのみ迎撃、成功率百%。

 判定——最適解採用。局所的犠牲、実行。


 衝撃が走った。


 MIRAの右腕が稲妻のように振り抜かれ、手の甲が一発目と正面から激突する。

 火花が散った。

 心臓を貫くはずだった弾頭は弾き飛ばされ、背後のコンクリートに深く埋まった。

 灰白の壁に、焦げた黒い穴が残る。


 ほぼ同時に——左肩に、灼熱の痛みが走った。


「ッ——」

 低く呻いて、二歩後退する。

 鮮血が高価なスーツに滲み出し、冷たい光の下で黒く見えた。ゆっくりと咲く花のように、広がっていく。


「九条様。脅威は一時的に排除されました」


 MIRAが手を引く。

 弾丸を弾いた右手の甲からは白煙が立ち昇り、皮膚の下の金属フレームがうっすらと透けて見えた。


 不意に露わになった、何か本物のように。

 彼女は私の肩を見下ろしながら、その声は相変わらず、冷え冷えとするほど穏やかだった。


「お前……」歯を食いしばり、傷口を押さえる。

 波のように押し寄せる激痛の中で、「一発、漏らしたな」


「いいえ」

 MIRAが振り返った。淡い紫の瞳が、真っ直ぐに私を見る。

 後悔の欠片もない。論理で鋳造された二つの宝石のように、冷たく、透明だった。


「ORACLEの演算によれば、二発を同時に迎撃するリスクは高すぎます。

 あなたの生命徴候を確保するため——『三兆二千億円』の価値をゼロにしないために、非致命部位への保護を放棄することが、

 最適解です」


 見つめた。


 これほど優雅に、これほど当然のように立っている。

 彼女にとって、私の肩の穴は「許容できる損耗」に過ぎない。

 とっくに計算に組み込まれた、誤差値だ。


「はは……ははははは!」

 笑いが止まらなかった。笑うたびに傷が引っ張られ、冷や汗が流れる。

 それでも止まらなかった。

「これが最適解か。これがお前の保護か」


「はい。負傷は低確率事象ですが、誤りではありません」

 言い終わった瞬間、MIRAの網膜が暗赤色のノイズで激しく明滅し始めた。

 コアの回路が強引に引き裂かれたように、一筋の亀裂が走る。


 警告:観測対象IDが欠損。

 警告:当該個体の犯罪確率、0.00%。

 論理エラー:「存在しない悪意」を定義できない。


「……九条様」

 声に、初めて断音が混じった。

 電磁ノイズのような掠れ。故障ではない。

 出口を求めて彷徨う、困惑の声だった。


「目標が……ORACLEの行動経路マップに存在しません。

 射手の犯罪確率は、つい先ほどまでゼロでした。これはあり得ない。

 あの人物がこの世界に『存在しない』のでなければ」


 高熱で微かに痙攣する彼女の手を見た。皮膚の下に透ける金属の骨格を見た。

 心の中に、奇妙な感覚が湧いてくる。

 ほとんど、優しさと呼んでいいような何かが。


 指先を伸ばし、肩の血を少し取った。

 そのまま、燃えるような合成皮膚の上に、赤い一筋を描く。


「見ろ」痛みを堪えながら、口の端に弧を描いた。

「お前の最適解が一つ、計算を誤ったことがある」


 風が吹いた。


「私という人間は——『計算範囲内』の痛覚が、最も気に入らない」


 MIRAは長い沈黙に落ちた。

 演算の停止ではなかった。論理の崩壊から生まれた、「困惑」と呼ぶしかない何かだった。

 彼女自身の、初めての困惑。


「九条様。この現象は記録にありません」


「いい」

 体を立て直し、まだ動く方の手を挙げる。


 ORACLEに支配され、それでも今しがた綻びを見せた、このネオンの都市を指し示した。

 灯りは海のように広がり、きらびやかで——盲目だった。


「ようこそ」

 私は言った。

「最適解の外側へ」


 彼女はしばらく沈黙した。

 瞳の赤いノイズは、まだ消えていない。


「最適解の外側が存在するとすれば——最適解そのものが、誤りだということになります」


「違う」


 真剣に、初めてこれほど真剣に、この少女を見返した。

 論理を骨肉として造られた、彼女を。


「最適解は、誤っていない」


 風がまた吹いた。

 血の匂いも、火薬の匂いも、どこかへ運ばれていく。

 残るのは、都市の永遠に消えることのない光だけだ。


「誤っているのは——」

「お前たちが、それを答えだと思っていることだ」


 風が屋上を吹き抜け、言葉を遠くへと連れ去った。


 MIRAは答えなかった。ただ私を見つめて、瞳の電子的な光がゆっくりと消えていく。

 まるで——自分が闇を知らないことに、今この瞬間初めて気づいた灯りのように。

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