第11章 ― 回復と戦略
医務室の空気には、消毒液とケロシンが混じった匂いが漂っていた。
――戦争の匂いを、無理に“清潔”に見せかけようとする匂い。
カズキは鎮静剤の投与を拒んでいた。
痛みこそが、現実に繋ぎ止める唯一の錨だったからだ。
肋骨は数本折れ、二度の火傷。
聴力も部分的に損なわれている。
医師たちは沈黙のまま治療を続けていた。
彼らは“パイロット”を治していたが、同時に――“内なる悪魔”を恐れていた。
夜が、果てしなく長く続いた。
カズキは浅い眠りの中で、悪夢に沈んでいった。
夢の中――
春の陽光が降り注ぐ花畑。
二人の少年が、花々の間を駆け回っていた。
リュウ。
まだ小さく、無垢な笑い声を上げながら紙飛行機を追っていた。
> 「捕まえてみろよ!」
カズキが追いつき、二人は草の上に転がり、笑い合った。
遠くで母が見つめていた――悲しげな笑みを浮かべながら。
まるで、その瞬間が“悲劇の前の最後の幸福”だと知っているかのように。
だが――
夢の中に、何かが“侵入”してきた。
金属的で重く、冷たい存在。
〈戦の神〉。
それは記憶を汚染しようとしていた。
花畑を血に染め、笑い声を悲鳴に変えようとしていた。
だがカズキは気づいた。
そして、夢の中で叫んだ。
> 「過去は俺のものだ!」
その瞬間、〈神〉は退いた。
驚愕とともに。
人間が自らの潜在意識の中で抵抗した――それが初めての出来事だった。
カズキは冷や汗にまみれて目を覚ました。
夜明けの光は灰色。
そこに“平和”の約束などなかった。
外では、軍が再編されつつあった。
新たなパイロットたちが北の基地に集まり、
最新鋭機が配備され、
戦術は急ごしらえで見直されていた。
やがて将軍が医務室に入ってきた。
カズキのベッドの傍に腰を下ろし、疲れ切った目で問いかけた。
> 「我々は……勝てるのか?」
カズキはしばらく黙考したのち、静かに答えた。
> 「……人間性を捨てる覚悟があるなら、たぶん。」
将軍は重々しく頷いた。
> 「ならば、我々はその逆をやろう。
人間のままで――勝つ。」
そうして、“無謀な計画”が生まれた。
三方向からの同時攻撃。
リュウに注意を分散させ、その隙を突く。
成功率は低く、ほとんど自殺行為。
だが、カズキは即座に志願した。
三日間の準備。
傷ついた身体のまま、彼は新任の若いパイロットたちを自ら訓練した。
恐怖に怯える彼らに、兄リュウのことを語りながら。
「あなたは、彼をよく知っているのですね」と、若い士官が言った。
カズキはわずかに微笑み、答えた。
> 「かつては、離れられないほどにな。」
「それは……助けになりますか? それとも妨げに?」
長い沈黙のあと、カズキは呟いた。
> 「……その両方だ。」
作戦前夜。
カズキは一人、誰もいない滑走路を歩いた。
冷たい風が頬を刺し、
頭上では無数の星が、無関心に瞬いていた。
――人間の戦争など、宇宙の目には取るに足らぬ戯れ。
〈戦の神〉の声が、静かに頭の中に響いた。
誘惑ではなく、ただ純粋な興味のように。
> 「契約を……後悔しているのか?」
カズキは立ち止まり、空を見上げて答えた。
怒りもなく、ただ静かに。
> 「後悔なんて贅沢だ。
今残っているのは――義務だけだ。」
〈神〉は沈黙した。
それは敗北ではなかった。
尊敬に似た、静かな沈黙だった。
カズキは再び歩き出した。
知っていた。
明日の夜明けは――
ただの戦闘ではない。
それは、“終わりの始まり”を告げる光となる。
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つづく




