証券(本編3)
翌日、柴崎が出勤すると机の上にメモが置いてあった。まだ朝8時なのに、村木から電話があったようだ。証券会社の朝は早い。
電話すると、『耳より情報を手に入れた』と村木は言った。柴崎は午後に訪問すると伝えて、電話を切った。
神谷町駅を降りて、柴崎は日傘を開いた。アスファルトは熱を帯び、遠くのビルが蜃気楼のように揺れて見える。温暖化により炎天下の歩行は熱中症の危険を伴う。妻に勧められて買った日傘。最初のうちは、日傘をさすことに抵抗があった。しかし、今は違う。無地の大ぶりな日傘は、肌を日焼けから守るものではなく、生命維持装置。
日傘をさしていない男とすれ違った。ハンカチを額に当てて、しかめっ面で歩いていく。日傘をさせばいいのに、柴崎は笑顔が自然にこぼれた。
代々木証券に着くと、柴崎は会議室に案内された。通路の壁は透明のガラス、職員や顧客が不正をしないための対策だ。
机の上のモニターを見ながらトレーダーが電話していた。ズボンから出たシャツの裾がだらしない。姿勢も悪い。あの体勢で長時間座っていると腰を痛めそうだ。別のトレーダーがゴミ箱を蹴飛ばしていた。外から見えることを忘れるくらい、怒っている。
ここに出向しなくてよかった、部屋の中を眺めながら柴崎はため息をついた。
「久しぶり」
柴崎が会議室のドアを開けると、村木は手を上げた。席に着いた柴崎は、本題に入る前に、村木に経緯を説明した。
「あー、そういうわけか。それは災難だったな」
村木はそう口にしたものの、何とも思っていない。
金融機関では日常的にトラブルが起きる。取引先が破産する場合もあるし、融資先が買収される場合もある。いちいち気にしていると、身がもたない。
「それで、耳より情報って?」と本題に入る。
「今から話すことは、ここだけの話ということで聞いてほしい」
そう前置きして、村木は話し始めた。
三田アセットマネジメントから代々木証券に転職した職員がいる。その職員の話では、劣後社債を買い集めているファンドがあるそうだ。ファンドは劣後社債を買い集めた後、発行体に期中償還を請求した。
発行要項によれば、劣後社債は利払いよりも期中償還が優先される。ファンドが劣後社債の期中償還を請求したから利払資金が枯渇した、というわけだ。
【社債のウォータフォール】
※ウォーターフォール (Waterfall) とは、発行体の保有する現預金について、定められた優先順位に従って支払う流れです。
利払いの停止に狼狽した一部の投資家は、発行体に期中償還を請求した。しかし、資金不足により、発行体は劣後社債を期中償還できない。
利払いの停止後、ファンドは劣後社債を額面の30%で買取る、と投資家に提案した。ファンドの目的は狼狽する投資家から安値で劣後社債を取得することだった。
村木の話によれば、劣後社債の利払停止は、償還請求によるものであり、発行体の利払い、元本の返済能力は以前と変わりない。だから、償還請求が落ち着けば、劣後社債の利払いは再開される。
「ファンドの名前は分かるか?」
「ああ、コルドバ・ファンドだ」
「コルドバ・ファンドというと……渋谷銀行系列のファンドだよな」
「そう。よく知ってるね」
渋谷銀行出身者が設立したコルドバ・ファンドは、資金調達、投資案件のソーシングを渋谷銀行に依存している。コルドバ・ファンドは渋谷銀行の子会社ではないが、実質的には渋谷銀行の都合で動く子会社のような存在だ。
「一時的に利払いが停止しているだけだから、劣後社債はそのうち償還される。この状況を利用するとしたら……劣後社債を買うべきだ。コルドバ・ファンドよりも高い金額を提示すれば投資家から劣後社債を買い取れる。儲かりそうだな」
「情報提供したんだから、劣後社債の買取りは代々木証券でやらせてほしい。あと、売却したい投資家を紹介してほしい。それと、買取り資金の融資もよろしく」
「あいかわらず、調子のいいやつだな。劣後社債の発行総額は200億円。額面の50%で全部買えたら、キャピタルゲインが100億……すごいな。村木にインセンティブはいくら入る?」
「100億も買えないって。それに、俺は出向だからインセンティブは付かないよ」
「えっ、そうなの?」
「そうだよ。銀行も同じだろ?」
「そうだな。こういうとき、プロパーは損だよな」
村木は首をすくめた。外資系証券会社であれば、数億円のインセンティブ・ボーナスがもらえたのに。残念だ。
**
代々木銀行に戻った柴崎は志村に連絡した。
志村セラミックが劣後社債を買い取るための10億円は、代々木銀行から融資する。その代わり、劣後社債の投資家を代々木証券に紹介してほしい。そう志村に伝えた。
志村にとって、裕子の借入を返済することが最優先。だから、志村は「全面的に協力する」と即答した。
こうして、劣後社債の買取りがスタートした。
裕子たちに紹介された投資家から、額面の50%で劣後社債の買取りを進めた。
しばらくは劣後社債の利払いが再開されなかった。額面の60%で償還請求する投資家が多くて発行体の資金が不足していたためだ。いくら待っても期中償還されないことに業を煮やした投資家は、額面の30%で買取るコルドバ・ファンドではなく、額面の50%で買取る代々木証券に劣後社債を売却した。
買取りができないコルドバ・ファンドは買取価格を額面の50%に引き上げた。これに対して、代々木証券は買取り価格を55%に上げて対抗した。コルドバ・ファンドが買取価格を60%に引き上げ、代々木証券が対抗して65%に引き上げると、投資家の償還請求は収まった。発行体に償還請求するよりも代々木証券に売却した方が高く売れるからだ。
最終的に代々木証券が購入した劣後社債は額面が70億円、取得価額は40億円であった。IFAや志村セラミックが保有していた劣後社債は、代々木証券が額面の65%で買い取った。志村セラミックの借入10億円は全額返済され、無事に事態は収集した。
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劣後社債の件でお礼がしたい、と志村から連絡があった。
裕子の借金がゼロになったことを、志村は感謝している。けれど、裕子の協力で代々木証券は30億円の利益をあげた。だから、お互い様だ。
柴崎は馴染みの居酒屋にやってきた。夜になっても気温は下がらない。目黒駅から坂を下っただけなのに、汗がにじんだシャツが背中に張り付く。引き戸を開けると「いらっしゃい!」と活気のある声が聞こえた。小さな店だけど、相変わらず繁盛している。
店内はひんやりとした冷気に包まれていた。かすかに漂う焼き魚の香ばしさとビールの苦い匂いが、柴崎の疲れを癒してくれる。
カウンター席に志村を見つけた。手をあげる志村に、小さく頷いて歩み寄った。大将に「とりあえずビール」と伝えて、柴崎は席に座った。
「暑かっただろ?」
「ああ、ミストサウナみたいな夜だな」
生ビールはすぐに運ばれてきた。グラスの表面には水滴が浮かび、目にも涼しい。志村とグラスを合わせて、一口。冷たいビールが火照った身体を冷やす。
「そういえば、中村が白金証券を辞めたって聞いた?」
たしか、中村は裕子をIFAに誘った元同僚だ。
「いや、知らない」
「実はな……コルドバ・ファンドで劣後社債を買い漁ったのは中村だったんだ」
「えっ? 裕子さんと仲が良いと思ったんだけど」
「裕子に渋谷銀行を紹介した頃までは、仲が良かった。でも、裕子たちが劣後社債を買って儲けただろ。それで、関係性が変わったんだろうな」
「へー、自分のお膳立てでIFAになれて、自分が渋谷銀行を紹介したから劣後社債で儲かって……逆恨みかな?」
「裕子はお礼に中村を高級レストランに招待した。それが気に入らなかったらしい」
「本当に逆恨みって恐ろしいな」
人間関係は複雑だ。どこで恨みをかうか分からない。
「ところで、ここは俺の奢りのつもりだったんだけど、割り勘の方がいい?」
志村は愛想笑いを浮かべた。柴崎の恨みを恐れているのだろう。でも、そんな気遣いは不要だ。
「もちろん奢ってもらうよ。だって、俺は一円もボーナスをもらえないからな」
柴崎は笑いながら志村とグラスを合わせた。
<本編おわり:解説につづく>