証券(本編2)
あるとき、大口顧客A氏が亡くなった。裕子はA氏に額面10億円の劣後社債を販売した。A氏の保有する劣後社債の残存期間は5年。満期まで5年間待てば額面10億円で償還されるのだが、相続人は「劣後社債5億円を期中償還して3億円を現金化したい」と言った。
劣後社債には、満期日よりも前に社債投資家が発行体に対して償還を請求できる期中(期限前)償還請求権がある。ただし、発行体は満期日よりも前に償還することを避けたいから、期中償還額は額面の60%に設定されている。
【満期償還と期限前償還】
相続人が期中償還したい理由は納税資金だった。劣後社債を相続すると、相続人は相続税を支払う。相続税を劣後社債で物納しようとしたら、税務署の職員に「劣後社債ではなく、不動産で物納してください」と言われた。A氏の保有する不動産には家族が住んでいるから物納できない。だから、相続人は損失を覚悟の上で、劣後社債を期中償還して現金化しようとした。
相続人の申し出を聞いた裕子は、劣後社債を買取ろうと考えた。額面の60%で相続人から劣後社債を取得して満期まで5年保有すれば、額面の40%の利益が出る。償還益は年率13.3%(40%÷60%÷5)、社債金利は年率8.3%(5%÷60%)。償還益と社債金利を合わせると年率21.6%の利回りである。
※投資利回り(年率)=償還利回り+社債利回り
=40%÷60%÷5年+5%÷60%=13.3%+8.3%=21.6%
劣後社債の買取りを提案するにあたって、額面の60%よりも高く設定したほうがいい。裕子は額面の65%で顧客に提案することにした。額面の65%でも、利回りは年率18.5%である。額面5億円の劣後社債を額面の65%で買取ると3.25億円が要る。裕子の自己資金は2,500万円、残り3億円を調達する必要があった。買取資金を貸してくれる金融機関はないか、裕子は中村に相談した。
※投資利回り(年率)=償還利回り+社債利回り
=35%÷65%÷5年+5%÷65%=10.8%+7.7%=18.5%
中村は、懇意にしている渋谷銀行多摩支店の望月を裕子に紹介してくれた。そして、裕子は3億円を借り入れた。渋谷銀行が3億円も裕子に融資することに驚いたが、「渋谷銀行の社債の担保掛目が70%だから3億5,000万円までは融資できます」と望月は涼しげな顔で言った。
こうして、裕子は相続人から劣後社債を買い取った。
「リスクがほとんどないのに、年利が18%か……すごいな」
思わず声が漏れた。代々木銀行でも貸出金や社債をディスカウントして買うことはある。しかし、年利18%の案件はない。
「まあな。買取資金を渋谷銀行から借入できたからよかったんだけど……いや、よくなかったか」
「何かあったのか?」
裕子が相続人から劣後社債を買い取ったことは、すぐに他の投資家に広まった。裕子は顧客に言わなかったのだが、白金証券の職員が顧客B氏から期中償還請求権について質問された際に、「IFAが65%で買取ったらしい」と口を滑らせた。そして、期中償還請求よりも劣後社債を高く売却したいB氏は、裕子に買取りを依頼した。
B氏は裕子の顧客ではなかった。揉め事を避けるために、B氏担当のIFAに連絡して対応を依頼した。その際に、IFAが劣後社債を買い取るときの借入先として、渋谷銀行の望月の連絡先を伝えた。
B氏が保有する劣後社債の額面は5,000万円、額面の65%は3,250万円だ。担当のIFAは渋谷銀行から借入れして、劣後社債を買い取った。
※劣後社債の買取額=5,000万円×65%=3,250万円
二件の買取実績ができたことで、さらに投資家から買取り依頼が舞い込むことになる。
投資家は、満期までの10年間、何もなければ劣後社債を保有する。しかし、人生においては、急な資金需要が生じる。息子・娘のマイホームの購入資金の援助、孫の学費の援助、老人ホーム入居時の保証金の支払い。投資家が劣後社債を売りたい理由はさまざまだった。
裕子と二人のIFAは、その後も投資家から劣後社債を買取った。劣後社債が償還されると利益が発生した。しかし、劣後社債の買取りによって借入金は増えていく。借入金をどう減らすか、裕子たちは頭を抱えた。
買取りを始めて2年が経ったころ、投資家からの買取依頼がなくなった。借入金を増やしたくない裕子たちにはありがたかった。そして、買取依頼がなくなった理由を、特に詮索しなかった。
それからしばらくして、劣後社債の利息支払が停止した。運用会社の三田アセットマネジメントに問い合わせると、「支払原資がない」と事務的な回答があった。
劣後社債の利息支払いがなければ借入金を返済できない。裕子は望月と携帯電話でやり取りしていたから、志村は、裕子が渋谷銀行から借入れをしていること、借入金の返済を延滞したことを知らなかった。望月が自宅を訪問したときにはじめて、志村は裕子の借入金のことを知ったそうだ。一週間前のことだ。
「だから、志村セラミックで10億円借りたいのか」
「そういうことだね」
代々木銀行は投資資金を融資できない。しかし、それは建前であって、資金使途を増加運転資金と偽って融資できなくもない。ただし、返済されることが条件だ。償還されない劣後社債の買取資金を融資できない。
発行体が保有するのはデフォルト率の低い、金利3%の住宅ローン債権。普通社債の利率は1%だから、劣後社債の利息支払が滞る可能性は極めて低い。それなのに、劣後社債の利息支払は停止した。何があったのか?
「持ち帰って調べてもいいか?」と柴崎は志村に確認する。
「もちろんだ。劣後社債の書類が必要だな?」
「ああ、コピーをもらえるとありがたい」
志村は「ちょっと待ってて」とコピーを取るために離席した。会議室の窓から見える山手通りは、帰宅を急ぐ車で渋滞していた。
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「お先に失礼します」
代々木銀行に戻った柴崎は、帰宅する部下に出会った。定時に帰宅できる部下が羨ましい。そう思いながら、「おつかれさま」と自席に座った。
発行要項を何度も読み返したが、劣後社債の利息支払が停止する理由が分からない。
業界関係者なら分かるかもしれない、柴崎は代々木証券に出向している同期の村木に電話をかけた。
『もしもし、柴崎? 久しぶり』
電話口から雑音が聞こえた。村木も残業中だ。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、大丈夫かな?」
『いいよ』
忙しいはずなのに、村木は嫌な素振りを見せない。ありがたいことだ。
「白金証券が販売している劣後社債の件なんだ」
『ああ、個人向けに販売しているRMBSだよね?』
「よく知ってるね。それだよ」
『まあね。代々木証券でも同じような商品を作ろうとしたんだ。けど、どこかの銀行が住宅ローンを売ってくれなくてさ』
村木の笑い声が聞こえる。住宅ローンを売らなかった銀行は代々木銀行なのだが。
金余りの代々木銀行は住宅ローンの融資残高を増やしたい。だから、住宅ローンを売ることはない。
「その劣後社債の利息支払が停止しているらしい。何か聞いてないかな?」
『利息が支払えない? キャッシュフローが不足するはずないんだけどな』
村木も知らないようだ。
「そうだよね。理由が分からなくて、困ってたんだ」
『何が理由だろうな? 気になるな。こちらでも調べてみるよ』
劣後社債の発行要項をメールで送る、と言って柴崎は電話を切った。
何かがおかしい。でも、それが何か分からない。
<本編3につづく>