わたくしの人生の脚本に、あなたの役はもうございませんの
「イザベラ嬢! 君との婚約は、本日をもって破棄させてもらう!」
高らかな声が、王宮の大夜会ホールの喧騒を一瞬にして切り裂いた。
声の主は、アルフレッド・フォン・ゲルニッツ公爵子息。
彼の金色の髪はシャンデリアの光を浴びて輝き、その整った顔立ちは自信に満ち溢れていた。
そしてその腕には、寄り添うようにして甘い笑みを浮かべる伯爵令嬢、セシリア・ド・ロアンの姿があった。
アルフレッドの突然の宣言に、周囲の貴族たちは息をのみ、好奇と驚愕の視線を一斉に彼らに、そしてアルフレッドの本来の婚約者であるはずのイザベラ・フォン・ヴァレンシュタイン侯爵令嬢へと向けた。
イザベラは、瑠璃色の豪奢なドレスを身にまとい、ホールの片隅で静かに佇んでいた。
その表情は扇で巧みに隠され、うかがい知ることはできない。
アルフレッドは、そんなイザベラを一瞥すると、さらに声を張り上げた。
「君のような冷たく面白みのない女では、私の心を満たすことはできんのだ! 私の求めるのは、もっと情熱的で、可憐で、そして何よりも私を心から愛してくれる女性! そう、ここにいるセシリア嬢こそが、私の真実の愛なのだ!」
セシリアはアルフレッドの言葉にうっとりと目を閉じ、そして勝ち誇ったようにイザベラへと視線を投げた。その瞳には、あからさまな嘲りと優越感が浮かんでいる。
イザベラは、ゆっくりと扇を下ろした。
現れたその顔は、完璧なまでに静謐で、まるで美しい氷の彫像のようだった。
彼女の紫水晶の瞳は、アルフレッドとセシリアを冷静に見据えている。
そこには、悲しみも、怒りも、一切の感情の色は浮かんでいなかった――少なくとも、表面上は。
しかし、その心の奥底では、煮え繰り返るような屈辱と、氷よりも冷たい復讐の炎が、静かに、しかし確実に燃え上がり始めていた。
アルフレッドは、イザベラのその無表情ぶりを、衝撃で言葉も出ないのだと勝手に解釈したらしい。
彼はさらに畳みかけるように、侮辱の言葉を重ねた。
「ヴァレンシュタイン侯爵家との縁も、もはや我がゲルニッツ公爵家にとっては重荷でしかない。君のその冷たい瞳も、何を考えているのか分からぬ沈黙も、私はもううんざりなのだよ!」
周囲からは、抑えきれない囁き声や、くすくすという嘲笑が漏れ聞こえてくる。
それは、ヴァレンシュタイン侯爵家に対する公然たる侮辱であり、イザベラ個人の尊厳を踏みにじる行為だった。
イザベラは、ただ静かにその全てを受け止めていた。
その紫水晶の瞳の奥で、彼女の人生の新たな脚本が、静かに、しかし確実に書き始められていることなど、この場の誰も知る由もなかった。
屈辱に満ちた夜会から数日後。
ヴァレンシュタイン侯爵家の屋敷は、重苦しい沈黙に包まれていた。
イザベラは、婚約破棄のショックで部屋に閉じこもり、誰とも顔を合わせようとしない――表向きは、そうなっていた。
しかし、彼女の自室の奥、鍵のかかった書斎では、夜毎、蝋燭の灯りの下で、冷徹な瞳をしたイザベラが膨大な資料と向き合っていた。
ゲルニッツ公爵家の財政状況、アルフレッド個人の借金の噂、彼らの政敵との繋がり、そしてロアン伯爵家の裏取引に関する情報。
それら全てが、イザベラの緻密な分析によって整理され、彼女の壮大な復讐計画の駒として配置されていく。
彼女は幼い頃から、父であるヴァレンシュタイン侯爵に帝王学を叩き込まれ、その怜悧な頭脳は、並の政治家をも凌駕するほどだった。
父は、娘が受けた屈辱に激怒し、ゲルニッツ公爵家との全面的な対立も辞さない構えだったが、イザベラはそれを静かに制した。
「お父様、お気持ちは感謝いたします。ですが、この件はわたくしにお任せくださいませ。わたくし自身の問題でございますから」
その落ち着き払った態度と、瞳の奥に宿る底知れぬ光に、侯爵は娘のただならぬ決意を悟り、静かに頷くしかなかった。
イザベラの心の中では、既に完璧な脚本が描かれつつあった。
それは、アルフレッドとセシリア、そして彼らを支える家々が、最も華やかな舞台の上で、最も惨めな終焉を迎えるという、冷酷にして華麗な復讐劇の脚本だった。
「わたくしの人生は、わたくし自身が脚本家であり、主演女優。あなたたちの出る幕は、もうとっくに終わっているのよ、アルフレッド様、セシリア嬢」
そう呟く彼女の唇には、微かな、しかし氷のような笑みが浮かんでいた。
イザベラの計画は、静かに、しかし着実に進行していった。
彼女はまず、父である侯爵を通じて、王宮内の派閥争いや、貴族たちの間の複雑な力関係を巧みに利用した。
ゲルニッツ公爵家と対立する派閥の重鎮に、公爵家の不正を匂わせる情報を匿名で流す。
ロアン伯爵家が関与していると噂される密輸の証拠を、それとなく司法の手に渡るように仕向ける。
彼女が放つ情報は、常に断片的でありながら、核心を突くものばかり。
受け取った側は、まるで蜘蛛の糸に手繰り寄せられるように、自らの意志でゲルニッツ公爵家やロアン伯爵家への疑念を深めていく。
イザベラは、決して表舞台には立たなかった。
彼女は、屋敷の書斎から、まるで人形遣いが人形を操るように、情報を操り、人々の心を動かしていく。
彼女の指示を受けて動くのは、ヴァレンシュタイン侯爵家に長年仕える忠実な密偵たちや、過去にゲルニッツ公爵家によって煮え湯を飲まされた経験を持つ、復讐の機会を窺っていた者たちだった。
そんなある日、イザベラが密かに情報収集のため、王都の古書店に足を運んでいた時のことだった。
彼女は、ある特定の紋章に関する古文書を探していた。それはゲルニッツ公爵家の不正に関わる、ある古い契約の糸口となる可能性を秘めていた。
目立たぬよう、地味な色合いのフード付きマントで姿を隠していたが、書庫の奥で古文書を調べていた彼女は、ふと、誰かの視線を感じた。
それは、ただの好奇の視線ではない、何かを見定めるような、鋭く知的な光を宿した視線だった。
そっと顔を上げると、少し離れた書架の陰に、長身の男性が立っていた。彼もまた質素ながらも上質な旅装を纏い、その顔立ちは端正で、何よりもその瞳が印象的だった。深い森の湖を思わせる、冷静沈着な瞳。
男性はイザベラと目が合うと、軽く会釈をし、すぐに別の書物へと視線を移した。
イザベラは一瞬警戒したが、特に何も起こらなかったため、再び自分の調査に集中した。
しかし、あの男性のただならぬ雰囲気と、全てを見透かすような瞳は、彼女の心の隅に微かな波紋を残した。
一方、アルフレッドとセシリアは、そんな水面下での動きなど知る由もなく、婚約成立に浮かれ、夜毎開かれる祝宴に明け暮れていた。
彼らは、イザベラが失意の底に沈み、もはや自分たちの脅威とはなり得ないと信じ込んでいたのだ。
その油断こそが、イザベラの仕掛けた罠へと、彼らを確実に誘い込んでいることにも気づかずに。
最初に綻びを見せたのは、ロアン伯爵家だった。
イザベラが巧妙に流した情報と証拠により、ロアン伯爵が長年にわたり関与してきた大規模な密輸の事実が明るみに出たのだ。
国王の勅命による厳しい捜査が入り、伯爵家の財産は次々と差し押さえられ、その社会的信用は地に堕ちた。
セシリアがアルフレッドとの婚約によって手に入れようとしていた莫大な持参金の話も、当然ながら白紙に戻る。
アルフレッドは、この事態に顔をしかめた。
彼はセシリアの美貌と甘い言葉に惹かれていたが、同時にロアン伯爵家の財力と、それによって得られるであろう自身の地位向上にも大きな期待を寄せていたのだ。
その期待が潰えたとなれば、セシリアへの熱も急速に冷めていく。
「まさか、ロアン伯爵家がそのような不正を働いていたとは……。セシリア、君は何も知らなかったのかね?」
アルフレッドの言葉には、既にセシリアを詰るような響きが混じっていた。
セシリアは泣きながら無実を訴えたが、アルフレッドの心は離れつつあった。
彼は、自分の周囲で何やら不穏な空気が流れ始めていることには薄々気づいていたが、それが誰の仕業なのか、そして次なる標的が自分自身であることには、まだ思い至っていなかった。
数日後、イザベラが再び王都の別の資料館で調査を進めていると、偶然にもあの古書店で出会った男性と再会した。
今度は彼の方から、イザベラに声をかけてきた。
「失礼、先日は古書店でお見かけしましたな。何か興味深い書物でもお探しで?」
その声は落ち着いており、どこか人を安心させる響きがあった。
「……ええ、少々古い紋章について調べておりましたの」
イザベラは警戒しつつも、当たり障りのない返事をする。
「ほう、紋章学にご興味が? もしよろしければ、何かお力になれるかもしれませんが」
男性はそう言って微笑んだ。その笑みには裏表がないように見えたが、イザベラは簡単には心を開かなかった。
「お気遣い痛み入ります。ですが、わたくし一人で大丈夫ですので」
そう言って立ち去ろうとするイザベラに、男性は静かに続けた。
「ヴァレンシュタイン侯爵令嬢、イザベラ様。あなたのその類稀なる知性と行動力には、以前から密かに感服しておりました」
イザベラの足が止まる。彼が自分の正体を知っていたことに、そして自分の行動を見抜かれていたことに、彼女は内心の動揺を隠しきれなかった。
「……どちら様でいらっしゃいますか?」
男性は穏やかに微笑んだ。
「私はレオニード。訳あって今は身分を隠しておりますが、あなたの進めている『脚本』に、少なからず興味を抱いている者です」
レオニードと名乗るその男性――実はこの国の第一王子であり、イザベラの父ヴァレンシュタイン侯爵とも旧知の仲であるレオニード・アウグストゥス・フォン・エルツハウゼン――は、その後も何度かイザベラに接触を試みた。
彼は、イザベラがゲルニッツ公爵家とロアン伯爵家に対して何かを企んでいることに気づいており、その卓越した知略と、困難な状況下でも冷静さを失わない精神力に強い関心を抱いていたのだ。
イザベラは当初、彼の真意を測りかね警戒していたが、レオニード王子の誠実な人柄、そして何よりも彼の言葉の端々から感じられる、不正を憎み正義を重んじる確かな信念に触れるうち、徐々に彼を信頼し始める。
ある月の美しい夜、ヴァレンシュタイン侯爵家の庭園で、イザベラはついにレオニード王子に全てを打ち明ける決意をした。
アルフレッドからの屈辱的な婚約破棄、ゲルニッツ公爵家の横暴、そして自らが描いた復讐の脚本の全貌を。
王子は静かに、しかし真剣な眼差しでイザベラの告白に耳を傾けた。
全てを聞き終えた王子は、深い溜息と共に言った。
「……それは、あまりにも酷い仕打ちだ。イザベラ嬢、あなたがどれほどの苦しみを乗り越え、そしてどれほどの覚悟でこの計画を進めてきたか、痛いほど伝わってくる」
そして、彼はイザベラの手をそっと取った。
「その脚本、実に素晴らしい。だが、危険も伴うだろう。もしよろしければ、この私にも一枚噛ませてはいただけないだろうか? 私の力と情報網を使えば、あなたの計画をより確実なものにできるはずだ。そして何より、あなたのその重荷を、少しでも共に背負わせてほしい」
その申し出は、イザベラにとって予想外のものだったが、彼の瞳に宿る真摯な光に、彼女の凍てついていた心が、ほんの少しだけ温かくなるのを感じた。
「……王子殿下。そのお言葉、感謝いたします。ですが、これはわたくし自身の戦い……」
「いや、もはや君だけの戦いではない。ゲルニッツ公爵家の不正は、この国の根幹を揺るがしかねない問題だ。そして何より……私は、君のような聡明で気高い女性が、一人で全てを背負い込むのを見過ごすことはできないのだよ」
レオニード王子の力強い言葉に、イザベラはついに頷いた。
こうして、イザベラの復讐劇に、最も頼もしい協力者が加わることになった。
ロアン伯爵家のスキャンダルが王都を騒がせている最中、次なる一撃がゲルニッツ公爵家を襲った。
レオニード王子の密かな支援により、ゲルニッツ公爵の不正の証拠は、より迅速かつ決定的な形で国王の元へと届けられた。
匿名の手紙ではなく、王子の側近を通じて、極秘裏に、しかし確実なルートで。
国王は激怒し、直ちにゲルニッツ公爵の逮捕と、公爵家の徹底的な捜査を命じた。その捜査にも、王子の息のかかった公正な者たちが加わり、不正の全貌が白日の下に晒される。
王国の司法当局による家宅捜索は苛烈を極め、公爵家の隠し部屋からは、莫大な量の金塊や禁制品、そして反国王派との密約を示す書簡などが次々と発見された。
ゲルニッツ公爵の名声と権威は、一日にして地に堕ちた。
アルフレッドは、父である公爵が厳重な警備の下、王宮の地下牢へと連行されていく姿を、ただ呆然と見送るしかなかった。
自分たちの築き上げてきたものが、まるで砂上の楼閣のように、あっけなく崩れ去っていく。
彼は、この悪夢のような事態の裏に、誰か得体の知れない者の冷徹な意志が働いていることを感じ始めていたが、それが誰なのか、皆目見当もつかなかった。
かつて彼に媚びへつらっていた貴族たちは、手のひらを返したように彼を避け、今やアルフレッドは王宮内で完全に孤立していた。
セシリアも、彼の没落を察すると、蜘蛛の子を散らすように彼のそばから姿を消そうとしていたが、時すでに遅く、彼女の家もまた、ゲルニッツ公爵家の共犯としての疑いをかけられ始めていた。
追い詰められたアルフレッドは、半ば狂乱状態に陥っていた。
失った地位、財産、そして周囲からの信頼。全てを失った彼に残されたのは、誰かへの見当違いの憎しみと、破滅への恐怖だけだった。
彼は、この一連の事件の裏に、婚約破棄されたイザベラが糸を引いているのではないかと、ようやく疑い始める。
しかし、それはあまりにも遅すぎた気づきだった。
「そうだ、あの女だ! イザベラが、私を陥れようとしているに違いない!」
逆上したアルフレッドは、イザベラこそが全ての黒幕であると告発し、彼女を失脚させようと、偽の証拠を捏造するという愚行に走った。
彼は、イザベラが反国王派と密通していたという偽の手紙を作り上げ、それを国王に密告しようとしたのだ。
しかし、それすらも、イザベラの描いた脚本の一幕に過ぎなかった。
アルフレッドが偽の証拠を手に国王に謁見を求めたその場には、イザベラだけでなく、レオニード王子も同席していた。
イザベラが冷静にアルフレッドの捏造を完璧な論証で暴き、さらにアルフレッド自身が、父であるゲルニッツ公爵と共に、より深刻な国家転覆の陰謀を企てていたという、決定的な証拠を提示したのだ。その証拠の決定力と提示のタイミングは、レオニード王子の助言によるものだった。
王子は冷徹な目でアルフレッドを見据え、国王に進言する。
「父上、これ以上アルフレッド・フォン・ゲルニッツの愚行を看過することは、国家の威信に関わります。厳正なる裁きを」
国王は、アルフレッドの浅はかな悪あがきと、その裏に隠された大逆の罪に、もはや何の容赦も見せなかった。
王国の最高法院は、厳粛な雰囲気に包まれていた。
被告人席には、やつれ果てたアルフレッド・フォン・ゲルニッツの姿があった。
かつての傲慢な輝きは完全に消え失せ、そこにあるのは、ただ怯えきった一人の男の抜け殻だけだった。
彼の父であるゲルニッツ公爵は、既に裁判の過程で心労がたたり、獄中で病死していた。
法廷は、ゲルニッツ公爵家が企てた国家反逆罪の詳細な証拠と証言で満たされ、アルフレッドに弁解の余地はもはや残されていなかった。
裁判長が、重々しく判決を読み上げる。
「被告アルフレッド・フォン・ゲルニッツを、国家反逆罪および国王陛下に対する反逆未遂罪により、死刑に処する!」
その言葉が法廷に響き渡った瞬間、アルフレッドは理性を失い、獣のような叫び声を上げた。
「嘘だ! これは何かの間違いだ! 私は嵌められたのだ! イザベラ! あの女の仕業だ!」
しかし、彼の無様な叫びは、冷たい法廷の壁に虚しく響くだけだった。
もはや誰も、彼の言葉に耳を貸す者はいない。
セシリア・ド・ロアンは、ゲルニッツ公爵家の陰謀への関与は認められなかったものの、その浅薄な野心と素行の悪さが露呈し、全ての社会的地位を失い、辺境の修道院へと永久追放の処分が下された。彼女は、泣きわめきながら法廷から引きずられていった。
アルフレッドは、人生の頂点から絶望のどん底へと突き落とされた。
これは悪夢だ。そう思いたかった。
しかし、冷酷な現実が、彼の心を容赦なく打ちのめしていく。
彼がこれから向かうのは、暗く冷たい死への道だけだった。
法廷の片隅で、イザベラはレオニード王子と共にその判決を聞いていた。彼女の表情は変わらないが、その手はきつく握りしめられていた。
王宮の地下深くにある牢獄は、光も届かぬ、まさに地獄のような場所だった。
処刑の日を待つアルフレッドは、そのじめじめとした独房の中で、孤独と恐怖に苛まれていた。
眠れば悪夢にうなされ、目覚めてもそこにあるのは変わらぬ絶望だけ。
彼の脳裏には、過去の栄光の日々が走馬灯のように駆け巡った。
イザベラを侮辱し、婚約破棄を宣言したあの夜会の光景。
セシリアとの愚かで浅はかな恋。
そして、自分が失ったものの大きさ……。
それら全てが、鋭い棘となって彼の心を刺し続けた。
日に日に彼はやつれ、その瞳からは正気の光が失われていく。
壁に向かって何かをぶつぶつと呟き、時には突然泣き出し、また時には虚ろな笑みを浮かべる。
助けを求める声も、もはや彼の喉から出ることはなかった。
自分がどれほど多くの人々から恨まれ、軽蔑されていたか。
そして、イザベラという女性を、どれほど見誤り、怒らせてしまったのか。
その理解が、遅すぎた後悔と共に、彼の心をじわじわと蝕んでいく。
死への恐怖と、生きていることへの絶望。その狭間で、アルフレッドの精神は確実に崩壊しつつあった。
処刑を翌日に控えた、重苦しい静寂に包まれた夜。
アルフレッドの独房の前に、一人の女性が静かに現れた。
それは、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインだった。
彼女は、以前と変わらぬ気品と美しさを湛え、しかしその瞳には氷よりも冷たい光を宿して、鉄格子の向こうのアルフレッドを見下ろしていた。
アルフレッドは、彼女の姿を認めた瞬間、まるで亡霊でも見たかのように怯え、そして次の瞬間には、最後の望みを託すかのように狂ったように叫び始めた。
「イザベラ! 頼む、助けてくれ! 私が間違っていた! 全て私が愚かだったのだ! だから、どうか……どうか命だけは……!」
彼はみっともなく床に這いつくばり、鉄格子にすがりついて許しを乞うた。
しかし、イザベラの表情は微動だにしない。
その冷たい美しさは、アルフレッドにとって、もはや死神の宣告のように感じられた。
「なぜだ……なぜ私をここまで……! 私はただ、君を……!」
懇願が聞き入れられないと悟ると、アルフレッドの言葉は次第に呪詛へと変わっていく。
「お前のような女がいるから……! お前さえいなければ……!」
イザベラは、その全てを静かに聞き終えると、初めてゆっくりと口を開いた。
その声は、冬の夜風のように冷たく、澄み渡っていた。
「アルフレッド様。あなたは、わたくしの人生において、それはそれは素晴らしい『悪役』を演じてくださいましたわ。おかげで、わたくしの脚本も、大変見応えのあるものになりました」
彼女の唇に、微かな笑みが浮かぶ。それは、この世のものとは思えぬほど美しく、そして残酷な微笑みだった。
「ですが、もうその役も終わりですの。明日の舞台が、あなたの最後の見せ場でございますわ」
イザベラが牢を後にする時、その出口にはレオニード王子が静かに待っていた。彼は何も言わず、ただイザベラの肩にそっと手を置くだけだった。その温かさが、イザベラの張り詰めていた心をわずかに解きほぐす。
処刑の朝が来た。
王都の広場には、元公爵子息の最期を見届けようと、多くの民衆が詰めかけていた。
アルフレッドは、汚れた囚人服をまとい、両手を後ろ手に縛られ、兵士たちに引きずられるようにして処刑台へと登った。
その足取りは虚ろで、瞳にはもはや何の光も宿っていなかった。
民衆からの罵声と嘲笑が、まるで熱い鉄のように彼の肌を焼く。
処刑台の上で、彼は最後に空を見上げた。
そこには、皮肉なほど青く澄み渡った空が広がっていた。
死への恐怖。
失ったものへの、今さらながらの執着。
そして、イザベラという女性への、言いようのない畏怖と、心の奥底でかすかに燃え続ける憎悪。
しかし、それらの感情も、やがて虚無の中へと吸い込まれていく。
執行人が、彼の首に縄をかける。
アルフレッドの口から、声にならない呻きが漏れた。
それが、彼の最後の言葉だった。
広場を見下ろす、王宮のバルコニーの一角。
そこに、イザベラは静かに立っていた。漆黒のドレスを身にまとい、その顔は黒いヴェールで覆われているため、表情をうかがい知ることはできない。
バルコニーの少し離れた場所には、レオニード王子が彼女を見守るように立っていた。
イザベラは、アルフレッドの最期を、ただ黙って見届けていた。
やがて、執行の合図が下される。
広場に響き渡る、民衆のどよめきと、そして、全てが終わった後の、不気味なほどの静寂。
イザベラは、その静寂の中で、ゆっくりと心の中で呟いた。
「わたくしの人生の脚本に、あなたの役はもうございませんの。どうぞ、永遠の絶望という名の舞台で、安らかにお眠り遊ばせ」
復讐は終わった。
イザベラの心に去来するものは、達成感と、ほんの少しの虚しさ。そして、自分を支えてくれたレオニード王子への、言葉にできない感謝の念だった。
イザベラがバルコニーを去ろうとすると、そこにレオニード王子が歩み寄ってきた。
「……終わったのだな、イザベラ嬢」
その声には、労りの響きが込められていた。
「はい、王子殿下。あなた様のお力添え、心より感謝申し上げます」
イザベラはヴェール越しに深く頭を下げた。
レオニード王子は、イザベラのやつれたながらも、どこか憑き物が落ちたような清々しい表情を感じ取った。
「君はこれからどうするつもりだ? 君のその類稀なる知性と勇気は、この国にとって大きな力となるはずだが」
イザベラは静かに首を振った。
「いいえ、王子殿下。わたくしはもう、血腥い脚本は書き終えました。これからは……穏やかな物語を紡ぎたいと願っております」
レオニード王子は、その言葉に優しく微笑んだ。
「ならば、その新たな物語の最初のページを、私と共に描いてはくれまいか? イザベラ、私は君の過去も全て受け止める。君の強さも、その奥にある優しさも、全てを愛している。私の妃として、これからは真の幸福をその手で掴んでほしい」
それは、予期せぬ、しかし心からのプロポーズだった。
イザベラの紫水晶の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。それは、かつての絶望の涙ではなく、温かな光を宿した涙だった。
「……レオニード様。わたくしのような女で、よろしいのでございますか? わたくしの手は、もう清らかでは……」
「君だからこそ、良いのだ。その手を取らせてほしい、イザベラ。君の新たな脚本を、私と共に最高のハッピーエンドにしようではないか」
レオニード王子は、そっとイザベラの手を取った。
イザベラは、彼の温かい手に導かれるように、ゆっくりと頷いた。
彼女の人生の脚本は、復讐の章を終え、今、愛と幸福に満ちた新たな章へと、輝かしい光の中で書き換えられようとしていた。
まずは読んでくださりありがとうございます!
読者の皆様に、大切なお願いがあります。
もしすこしでも、
「面白そう!」
「続きがきになる!」
「期待できそう!」
そう思っていただけましたら、
ブクマと★星を入れていただけますと嬉しいです!
★ひとつでも、★★★★★いつつでも、
正直に、思った評価で結構です!
広告下から入れられます!
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