2 むぎ
嫌な予感はしていた。
というか、嫌な予感しかしなかったのだ。
「課長」
「なんだミチエ」
「ミチエルです」
ポニーテールを揺らして隣を睨むミチエは、腰に手を置いてちょこんと座る十匹の猫を見下ろす。
ハチワレの茶白の猫が、綺麗に横一列に並んでいる。
隣に立つシンも、どうしたものか、という顔で腕を組んだ。
二人の管轄の猫界にいるのは、日本で暮らしてきた猫たちだ。故に、困った事態に遭遇することもあるが、ここ最近は少なかった。
「個性的なお名前の子の方が多かったですもんね」
「いや、それにしてもここまでは初めてだろ」
「そう考えると、なんだかわくわくしません?」
「黙れサイコパス」
「ひどいですぅ、泣き虫課長」
「俺は泣かない」
「はいはい」
ミチエはしゃがみ、もう一度声をかけた。
「あのう。むぎさま?」
十匹の猫たちが銀杏色の目でじっとミチエを見る。
「むぎさま、ご主人が再会をご希望です……けど」
「むぎ様はどなたですか?」
シンが尋ねると、十匹のそっくりな模様の猫が一斉に「にゃーん」と鳴いた。
「……全員むぎさまのようですね?」
「だなあ……」
「あ! そうだ。ご主人は肩まである髪の女性で」
にゃーん、と十匹に鳴かれる。
「優しそうな方で」
にゃーん。
「猫が好きそうな人です!」
にゃーん。
「ですよね~」
「お前は遊んでるのか」
「いえいえ、至って真剣ですよ。せめて、ご主人の名前がわかればよかったんですけど」
ミチエはしゃがんだまま「うふふ。かわいいですねえ」と暢気に言う。
死者は自分の名前を忘れていることが多い。階段を上ってくる最中に、一つ一つ、自分のことを忘れていくらしい。しがらみを捨てて、ゆっくりと純粋な魂になるのだそうだ。死後再会案内所に来れる死者は、ここを通過することで満たされた気持ちのまま、さらに階段を上っていく。
その先のことは、ミチエは知らない。
「やっぱり、会わせてあげたいな。一匹ずつ会わせるのは」
「ない」
「むう。わかってますよお」
昔々の話だが、黒猫の「じじ」が三匹いたことがあった。
模様や特徴もない黒猫は同じ目の色で、仕方なしに死者に了解を取って一匹ずつ会わせたのだ。
最初の一匹で「ああ、じじ!」と喜ぶ彼に、嫌な予感がしたシンとミチエは、一応候補全員に会ってください、と頼み込んで、二匹目、三匹目と面会させてみた結果、三匹目が本物で微妙な再会になったことがあった。
ミチエは今でも覚えている。あの何とも言えない空気。じじ(メス)の冷たい視線からの『私のことがわからないの?』という可憐な声。浮気がばれたような蒼白な男の顔。そして、沈黙。
「あれは恐ろしかったですねえ」
「二度としないぞ」
「私もしたくないです。でも、こちらの十匹のむぎさま、そっくりすぎません? 」
「……みんな、ご主人に会いたいんだよ……」
「えっ、もう泣いてます?」
「……こんなに、十匹も……待ち続けて……ぐすっ」
「あーもう。ほら、課長しっかり」
主人を待ち続ける猫が十匹、健気に座っているだけでシンの涙腺を刺激してしまったらしい。確かに「むぎ」はどれもふくふくした丸い顔の可愛らしい猫だった。
ミチエは立ち上がってシンの顔を袖で拭く。
「探しましょう。ね、課長。泣くのは再会させてからですよ」
「……泣いてないし」
「はいはい。それで、どうします? 茶白の猫、しっぽはしましま、目は銀杏色、名前はむぎ。以上のヒントしかもらっていませんけど――みんなそうですねえ。ね、むぎさま」
にゃーん、と返事をもらう。
「ん?」
ミチエは視線を宙に向けた。
青空に浮かぶ魚の形をした鰯雲がふわふわと流れていくのを見る。
一番手っ取り早い面通しができないのは痛い。
猫は喋れるが、ご主人の前でだけしかその声は聞けないのだ。しかし、喋れる者はいる。
「課長」
「……なに」
「そろそろ泣きやんでください。面倒なんで」
「泣いてないし」
「あの、向こう戻ってきてくれます?」
「役立たずだと言いたいのか!」
「うざい」
ミチエがにこりと言うと、シンは口を閉じた。真っ赤な目で子供のようにじとっと睨んでくるそれに向かって、ミチエは一発平手打ちを入れる。
パアンッと小気味いい音が猫界に響き、十匹の「むぎ」が獲物を追うように叩かれたシンの顔を追って顔を動かした。
「かわいいっ。今の見ました? 十匹が同じ動きしましたよ~、かわいい~」
「あ、はい」
「じゃあ課長、向こうに戻ってご主人にもっと詳しいこと聞いてきてください」
「はい」
「ほら、行った行った。何でもいいから思い出せることを聞いてくるんですよ。顔が少しだけいいんですから、色仕掛けでも何でもしてきてください」
シンを追い出したミチエは、十匹の猫を前に「遊びます?」と話しかけてみた。
そこらへんに生えているねこじゃらしを千切り、目の前で揺らす。十匹の耳がそろってふわんふわんと左右に動く。それでも、猫パンチ一つしてこない。
「そっくりすぎる」
ミチエが「ぶふふ」と笑うと、猫がぎょっとしたように身を引いた。もちろん揃っている。
「分身してるんですか? 猫界ではそういうこともできるとか?」
猫たちからの返事はない。
「わかった。じゃあ、兄弟説。どうですか? 皆兄弟で、引き取られた先で皆むぎってお名前をもらったのでは?」
「ミチエ」
振り返ると、泣いていたのが嘘のようにキリッとした顔でシンが立っていた。頬が少し赤い。
「聞いてきたぞ」
「じゃ、やりましょう」
「むぎ様」
シンが片膝をつく。
「好きなおやつは、ちゃ~るですね?」
にゃーん、と十匹が声を揃える。
これは仕方がない、とミチエは頷いた。シンも頷く。次だ。
「撫でられて好きなところはおでこ」
にゃーん。
「好きなごはんはチキンより白身魚!」
にゃーん。
「つ、爪切りが好き」
……にゃ……にゃーん。
「二匹脱落! やりましたよ課長!」
ミチエはがしっと肩をつかんで揺さぶる。得意げな顔をしたシンがふっと笑った。
「まだまだですよ、むぎ様……ご主人すら忘れていた、たまにしか呼ばなかった愛称は――」
「愛称は?!」
「むーむー!」
……。
空高く思い切って猫の愛称を叫んだが、何故かしんとしてしまう。
シンはぐっと拳を握ってもう一度叫んだ。もちろん、きちんと声真似もする。
「む、むーむー!!」
んにゃーむぅ。
「ん??」
ミチエは首を傾げる。明らかに今までと鳴き声が違う。そして、目の前の八匹の顔が突然変わったのだ。今まできゅるんとしていた可愛らしい顔が、一気に路地裏のボス感のある顔になった。
八匹の後ろの草がさわさわと揺れ、シンとミチエは顔を見合わせる。
「課長」
「嘘だろ」
「もう一回いっときましょう」
「……むーむー」
んにゃーむぅ。
がさっと草をかき分けて出てきた茶白のハチワレの猫は、まん丸の目を輝かせて二人を見た。八匹が「はんっ、やってらんねえわ」と言わんばかりに解散していく。
「む、むぎ様……ご主人があなたと再会したいと希望されています。あの扉の向こうでお待ちです。我々と来ていただけますか?」
がくりとうなだれたシンが覇気のない声で言えば、本物のむぎは首を傾げた。
「むーむさま、ご主人に会いますか?」
ミチエが聞くと、可愛らしく鳴く。
二人はよろよろと立ち上がるのだった。
「再会できてよかったですね」
ミチエが階段を見上げる。今日の空間もほんわかと輝き、その中でご主人に抱かれて嬉しそうに目を細めたむぎが小さく『ありがとー』と言った声が聞こえた。
隣のシンもそれを見上げる。
「あれっ、泣かないんですか?」
「なんか疲れた」
「おつかれーらいす!」
「……らいすー」
「そういえば、ほっぺ大丈夫です?」
「まだ痛い」